2 宗谷岬(2)
宗谷岬のそばにある民宿は、モダンな作りで白い壁に『N45°』という北緯を示す大きなプレートがはめ込まれている。こじんまりしているが、館内は清潔で、居心地の良さを感じさせた。
「うわぁーすごいよ、このタコ! 美味しそうー!」
高田渚は、満面の笑みを浮かべて、声を張った。
渚の前には、健一が座っている。
宗谷岬から健一を連れ帰った渚は、宿の主人に部屋をひとつ準備してくれないか、と交渉した。
宿を取っていない観光客がいたので連れ帰った、と渚は説明したのだが、健一の身なりを見れば、その不審ぶりは疑いようもない。
宿の主人は最初、受け入れるのを渋った。しかし、このまま放っておいたら凍死してしまうかも、と言う渚の言葉に観念して、結局受け入れる事にした。渚の熱意と、 ユーモアのある話し方に根負けしたのだ。
命拾いした健一が宿に上がった時は、唇が紫色に変色し、身体中がガタガタと震え、薄汚れた着衣の乱れも相まって、明らかに異常な姿だったが、風呂から上がって浴衣に着替えると、頬に赤みがさし、すっかり宿の客人に落ち着いていた。
それを見て渚は、ほっと胸を撫で下ろした。
風呂から上がった健一は、テーブルを挟んで渚と向かい合っている。テーブルの上には、大きなタコの切り身としゃぶしゃぶ用の鍋が並べられていた。
健一は何も言わずにタコをお湯にくぐらせると、落ち着き無く口へ運んだ。
人間はどんなに追い込まれた状況でも腹だけは空く、そして、腹が満たされれば、自然と心が落ち着くものだ、渚はそう思った。
「おじさん、名前は?」
まるで迷子の子供に話しかけるような優しい口調だった。
「やすだ、けんいち」
「歳は?」
「ごじゅう」
健一は腹が減っているせいか、一心不乱にタコのしゃぶしゃぶを頬張り、渚の問い掛けに面倒くさそうに答える。
「明日からどうするの?」
左手で頬杖をついた渚は、大きく目を見開いて、健一に顔を近づけた。
「……」
健一は頬張っていたタコをゴクリと飲み込んだ。しかし言葉は出ない。
渚はテーブルの上に置いていた中指を、ゆっくりと上下に動かし、健一の返事を待った。
健一の箸はピタリと止まり、視線が宙を泳ぎ出す。
数秒間の沈黙が漂い、それでも答えが出ない事を確かめると、渚は勢いよく口を開いた。
「明日から、私と一緒に旅をしましょう! 運転が出来るパートナーを探しているの……」
唐突な話しに、健一の目つきが変わる。それは明らかに疑いの目だった。
渚は、意味ありげな笑みを浮かべて健一を見つめる。
「明日から1週間、北海道を旅するの…… でも私、運転が苦手だから助けて欲しいのよ。いいでしょ……」
すがるような顔つきに澄んだ瞳、健一は引き込まれそうになった。
「それに…… 旅をしていたら、ここよりも良い死に場所が見つかるかもしれないよ……」
腕組みをした渚が、不敵な笑みを浮かべる。
健一は両手をテーブルの上で組み、体を反らせると、天井をじっと見つめた。
死のうとしたのに死に切れず、凍えたところを、見ず知らずの女に助けられ、旅館に入り、風呂を浴びて、飯を食わされ、そして明日から、旅に出ようと……
健一は、目まぐるしく移り変わる状況に困惑した。天井をいくら見上げたところで、気持ちの整理等つく筈がない。ふと、視線を天井から渚に移すと、渚は円らな瞳を潤ませて、求めるかのように、ゆっくりと首を縦に振る。
視線が重なっていた健一も釣られる様に、首を縦に振ってしまう。
渚はニヤリと笑い、左手に持った箸でタコをお湯にくぐらせた。
渚のぎこちない箸さばきを、健一はぼんやりと見つめながら、どうすべきかを考えた。
現実をどう受け止めるべきか、そしてこれからどうすべきか、しかしいくら考えても、頭の中を情報が錯綜するばかりで、考えがまとまらない、そして突然、睡魔に襲われた。
すーっと意識が遠のき、見たことの無い景色が現れた。
居てはいけない場所に居る気がして、歩き出してみたが、歩けども、歩けども景色が変わらない。
疲れ果て、立ち尽くしていると、突如、現れた女に手首を掴まれる。慌てて振り解こうとするが、逃れられず、ハッとして目を覚ました。
「おじさん、行くよ」
声がした方へ顔を向けると、食事を終えた渚が健一の手首を握って、傍らに立っていた。
健一は、渚に手を引かれて食堂を後にした。
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