1 宗谷岬
安田健一は、宗谷岬の先端で、真っ黒な海を見つめていた。
虚ろな表情で、身じろぎする事もなく、視線は暗がりの中の水面を漂っている。
太陽は沈み、辺りは闇に閉ざされ、ライトアップされたモニュメントだけが浮き上がっていた。
健一はこれまでの人生を振り返った。
これと言って不自由な事無く過ごしてきた少年時代、人並みの青春を謳歌し、受験勉強も就職活動も大きなトラブルを抱える事無く乗り切った。そして掴み取った幸せ、さらなる高みを目指して、人生の師とも呼べる者に仕え、生涯を捧げる覚悟で夢に向かって邁進してきた。
万事、順調だった。それなのに、どこで道を踏み外したのか……
宗谷岬へやって来たのは、人生にピリオドを打つためだ。
もはや、残された選択肢はそれしかない、生きていく道など残されてはいないのだ。
健一は覚悟を決めた。
目の前に広がる漆黒の海に身を投じれば、全てが終わる。
身元を証明する物は全て処分した。身につけている物は薄汚れたスーツと僅かな所持金のみ。
ここより北に日本の領土はない、沖へ流されてしまえば、遺体として上がる事はないだろう、仮に上がったところで、死んだ後のこと等、知った事ではない。これで全てが終わるのだ、煩わしい人間関係も、犯した罪も全てが消え去る。それで、いいじゃないか……
健一は死の淵へ踏み出した。
胸がバクバクして息が苦しくなり、頭がクラクラする様な感覚を覚えた。足元がフワフワしてきて、もう既にこの世の存在ではなくなったような気がした。
一度、目を閉じた健一は大きな溜息をつき、コンクリートの足場から不安定な岩場へ足を下ろそうとした。
次の瞬間、タイヤの音を軋ませて一台の車がやってきた。
海に向かって、乱暴に停められた車のヘッドライトが、健一の影を作り出す。
健一は振り返って、眩しい光に目を細めた。
車から降りた人影が、こちらへ向かって歩いて来る。
白いフレアスカートに、色の濃いパーカー……
女はコツコツと足音を鳴らし、階段を上がって宗谷岬のモニュメントの前に立ち、ぼんやりと眺め始めた。酷く深刻そうな顔つきをしており、何かを思い詰めているようにも見える。
『こんなところへ、何をしに来たのだろう?』
モニュメントの陰に、隠れるようにしゃがみ込んだ健一は、女の様子を訝しげに見つめた。
すると、モニュメントを見上げていた女が何かの気配を感じたのか、岬の周辺をしきりと見回す。
まずい、と思った健一は顔を伏せようとしたが、一瞬間に合わず、女と視線が重なる。
すかさず甲高い声が響いた。
「そこで何をしているんですか?」
健一は慌てて立ち上がり、女に背を向けた。
しかし、背後から足音が近づいてくる。
健一は逃げ出そうと歩を早めたが、先回りした女がその行く手を阻んだ。
行く手を阻まれた健一の足はピタリと止まる。
「おじさん、死のうとしていますね?」
何の躊躇いも無いその言葉に、健一は立ち竦んだ。
「やめましょう、自殺なんて……」
女は大きな声を張り上げた。その声は静まり返っていた辺り一帯に響き渡る。
健一は女の声に圧倒されて怯み、言葉に詰まった。
「いや、別に……そう言う訳じゃ……」
女は、俯きながらボソボソと話す健一を、下から覗きこむように見上げた。
「ここでは死ねませんよ」
想定外の言葉に健一の思考は停止した。
この辺りは遠浅の岩礁帯に囲まれているため、自殺には適さない。入水自殺を図った者は、溺れる前に寒さに耐え切れなくなり、交番や周辺の店に駆け込む。
そんな事を女は、柔和な顔で話した。
健一は、ここが自殺に適さない場所であるという事を、この時初めて知る。
全ての未練を断ち切って、覚悟を決めて最果ての地にやって来た。
『人は絶望した時に北へ向かう』
人生の幕を下ろすのに、日本最北端の地は、うってつけだと思っていた。そんな思い込みのせいで、このザマだ。見ず知らずの女に止められ、挙句の果てに、ここでは死ねないと言われ……
人生の道を踏み外した上に、人生を終わらす事すらもできない、何がどういう事でこうなったのか、思考が追いつかなくなり、全身から力が抜けた。
そして、死ぬという極度の緊張感から解き放たれたせいか、ガタガタと震え始める。先ほどまで全く感じなかった寒さを、身体全体で感じ始めたのだ。
季節は夏だがここは日本最北端の地、日が沈めば十度を割り込む事だってざらにある。
夏用の着古されたスーツだけで、長時間風に晒されていたために、体温が奪われてしまったようだ。死ぬ覚悟を決めたのに死ねず、生きねばならないと思った途端に寒さで震え始める。
行き場を失った健一は、身体を震わせながら呆然と立ち尽くした。
「話は暖かいところで聞きますから、とりあえず行きましょう……」
女は笑顔を浮かべて優しく言った。
健一は、若い女性に気遣われている哀れな自分の姿を顧みて、胸が潰れそうだった。
女は健一の手首を掴むと、車の方へと引っ張って行く。
健一は抵抗する事無く、ずるずると引かれて行った。
二人が乗った車は、慌ただしく方向転換すると、駐車場から勢い良く出て行った。
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