7 トドワラ

 野付半島のトドワラまでは一時間三十分ほどを要した。

 羅臼から海岸線をずっと走り続け、標津と言う少し大きな町を抜けて、茶志骨橋というところを左に折れ、野付半島へと入っていく。

 「野付半島とは、全長28kmにわたる砂嘴(さし)であり、規模としては日本最大である」

 渚がスマホで検索した情報を棒読みすると、「砂嘴って何?」、と健一が音声認識させるかのように、わざとゆっくり話す。渚はスマホを操作して検索を掛け、画面に表示された文字を読み上げる。

 「砂嘴とは沿岸流により運ばれた漂砂が静水域で堆積して形成される、嘴(くちばし)形の地形のことです」

 電子音声のような喋り方をした渚を、健一はちらっと横目で見ると、鼻で笑った。

 野付半島の先端に近づくと陸の幅がぐっと狭まり、道路の右にも左にも海が見えるようになる。この半島が砂嘴である事が実感できる。

 「この道、なんだかワクワクするね……」

 空を貫くような一直線の道に、渚は目を輝かせた。

 渚の弾んだ声は健一にやすらぎをもたらす。健一は隣にいる渚のほんわかした温かさと、美しい横顔、それにどことなく漂う女性らしい香りに心をくすぐられた。

 野付半島ネイチャーセンターの駐車場に車を停めると、二人は散策路を三十分ほど歩いて、トドワラと呼ばれる場所にたどり着いた。

 トドワラとは、海水によって浸食され、立ち枯れたトドマツ林の跡だそうで、これも渚が調べていた。十年ほど前までは、立ち枯れたトドマツの真っ白な幹がたくさん残っていて、とても神秘的な雰囲気を醸し出していたようだが、時の流れと共に侵食の度合いが増して、今ではその数も残り僅かになり、荒涼とした雰囲気が漂う。

 ネイチャーセンターに飾られていた写真とは、随分と違うなぁ、と渚は思いながら視線を巡らせた。事前の情報で、トドワラが残り少なくなっている事は分かっていたが、やはり思い描いていたものとは随分とかけ離れている。それでも、荒野に横たわる木々は、動物の白骨の様にも見え、この場所が、『この世の果て』、と表現される理由が分かるような気がした。今は晴れているが、これで霧でも掛かったら、たしかにそんな雰囲気になるのかもしれない、渚はそう思った。

 健一は、黙って景色を眺めている。

 渚は、健一の顔をじっと見つめた。その顔は、宗谷岬で出会った時や、サロマ湖でイラついていた時とは明らかに違い、とても穏やかな表情をしている。最初の頃は、まともに話しをしてくれず、どうしたものかと思ったが、サロマの宿で、病を患っている事を伝えてからは、距離がぐっと縮まり、今は健一の優しさに助けられている。本当は穏やかで優しい心を持っている人なのだ、と渚は思った。そんな健一がなぜ死のうとしたのか、健一をそこまで追い込んだものは何なのか、渚は気になった。


 トドワラから折り返して、ネイチャーセンターへ向かって歩いていると、木道の上で老夫婦らしき二人が写真撮影をしていた。

 坊主頭で小太りの老年男性を、ピンと背筋の張った白髪頭の老婦人が色々と指図をして、向きを変えたり、違うポーズを取らせたり、何度もシャッターを切っている。

渚と健一の存在に気づいた婦人が道を譲ろうとした。

 すると男性のほうが、「あのぉ、一枚写真を撮って貰えませんか?」と首筋に手を当てながら言った。

 「もちろん、良いですよ」

 渚は婦人からカメラを預かると、腕を組んだ二人に向けてシャッターを切った。見た感じはいかにも老夫婦だが、二人の接し方は若々しい。仲睦まじい姿を見て嬉しくなったのか、渚はカメラアングルを変えたり、背景を変えたりして何度もシャッターを切った。ようやく撮影を終え、カメラを婦人に返して立ち去ろうとすると、「もしお時間があるようでしたら、コーヒーでもご馳走したいのだけど、いかがかしら」、と親しみのこもった笑顔で話しかけてくる。

 渚と健一が顔を見合わせていると、男性が、「ぜひ、妻のこだわりのコーヒーを飲んでやってください」、と目尻に皺を寄せた。老夫婦から滲み出る気さくな雰囲気に親近感を抱いた渚は、健一の目を見て小さく頷くと、「では、お言葉に甘えてご馳走になります」、と老夫婦に向かって微笑みかけた。

 老夫婦と、渚と健一は、一緒に駐車場へ戻ってきた。

 ネイチャーセンターの駐車場には二台の車が停まっている。一台は渚が借りた青いコンパクトカーで、もう一台は、大型のキャンピングカーだ。老夫婦はキャンピングカーに乗り込んだ。その様子を見ていた渚は、老夫婦と大型キャンピングカーの組み合わせが意外に思えて、呆気に取られた。

 「あのご夫婦、あんなに大きな車で旅をされているのね…… なんだか素敵」

 渚は、嬉しそうに目を細める。

 先にキャンピングカーへ乗り込んだ婦人が、程なく降りてくると、渚たちに会釈をしながら「どうぞ」と手招きをした。

 渚が、「素敵な車ですね」、と声を掛けると、婦人は、「ようこそ、我が家へ」、と言って、渚と健一を車の中に招き入れた。

 「うわぁー素敵、この車で北海道を旅しているのですか……」

 渚の声が車内に響いた。

 トラックを改造して作られた大型キャンピングカーの内装は、マンションの一室がそっくりそのまま入ってしまったみたいで、生活に必要な物がひと通り備えられている。キッチンに、トイレに、シャワールーム、ベッドもあるし、ダイニングテーブルも…… 

 渚と健一はダイニングテーブルへ案内され、二人が並んで座ると婦人はコーヒーを差し出した。木製のコーヒーカップから立ち上る湯気が、車内に香ばしい香りを漂わせる。

 老夫婦は、渚と健一の向かいに座った。

 「この車で旅をしていると言うより、ここは我が家なのよ……」

 婦人は車内を見回しながら、得意気に微笑んだ。

 渚が意味を図りかねていると、男性のほうが身を乗り出して、「家を売って、この車を手に入れたんですよ」、と自慢げに話した。

 「えっ、家を売っちゃったんですか?」

 渚は驚きの顔で、二人の顔を交互に見つめる。

 「そう、売っちゃったの、だから、ボクらは一生旅を続けるしかないの…… もう帰るところがないからね……」

 男性は笑いながら言った。その顔はおどけているが、瞳は少年の様に輝いている。

 一生、旅を続けていく老夫婦……

 渚と健一は、きょとんと顔を見合わせた。

 その様子を見ていた婦人が、穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと話しを始めた。

 「実は清三さん、あっ、この人、清三って言うんですけど、末期ガンなんですよ。一年前に、医者から余命半年って言われましてね。それを聞いた清三さん、酷く落ち込んで、毎日、部屋に閉じ篭りっきりで、まだ生きているのに、死んだ人みたいで…… だから言ったんですよ、医者の言う事なんてアテにならないんだから、そんな事、気にしないで、もう一度、二人で人生を謳歌しましょうって」

話しをしたくてウズウズしていた清三が割って入った。

 「百合子がね、どうせ人間なんていつかは死ぬんだから、やりたい事をしてから死ねば、なんて言うもんだから、キャンピングカーで旅に出たいって、半分冗談で言ったんですよ。まぁ、いつかはそんな旅をしてみたいなぁ、なんて思っていたんでね。そうしたら、本気にしちゃって…… 気づいたら、家が査定に出されていて、キャンピングカーの見積もりを取っちゃっていて…… あれよ、あれよと言う間に、旅に出ていました」

 清三はガハハ、と大きな口を開けて笑った。

 「だって、そうでしょ、余命宣告されようが、されまいが、人は必ず死ぬんだから、落ち込んでいても仕方ないじゃない。勿体無いでしょ時間が…… 死んじゃえば、ずっと眠れるんだもの、眠るのは天国で良いのよ…… 生きているうちは、楽しい事をたくさん見つけて、最後の最後まで幸せを探して、悪あがきをしなくちゃって……」

 百合子の表情は、まるで悟りを開いた人の様に神々しい。

 「百合子って、ちょっと清楚な感じがするでしょ…… でもね、中身は全然違うの。本当に芯が強いんだから…… でもさぁ、僕はそんなに強くないからさ、夜、眠る時には不安になる訳。眠ってしまったら、もう目が醒めないんじゃないかって。だけどそんな時、百合子は枕元で言うの、『大丈夫、あなたは生きていますよ。 生きているうちは、死なないから安心して』、って。それで子守唄とか歌い出すの、僕はそれを聴きながら眠っちゃうわけ…… でも、良かったなぁ、こういう嫁さんで。今、本当に幸せ、ガンになって良かったなぁ、なんて思っちゃうもの、なってなかったら、こんな幸せな旅に出られなかったし、こんな風に百合子と向き合えなかったもんね。災い転じて福となすって、こういう事を言うんだろうね」

 清三は目を細めた。その目尻にはうっすらと涙が滲んでいる。

 「清三さん、こういう事を言える人じゃなかったのよ…… 亭主関白で、メシはまだか、お茶持って来い、風呂がぬるい、女は三歩下がって歩けって言うタイプだったんだから……」

 百合子が流し目で清三を見ると、「今じゃ、百合子さんに手を引かれて、歩いているけどね……」、と清三は大笑いした。

 渚と健一は二人の話しを聞きながら、何度も目を合わせて笑った。夫婦の関係がとても微笑ましく、清三が死に直面しているなんて、どうしたって信じられない程、二人は明るかった。

 渚は、余命宣告をされたと言う清三の笑い顔をじっと見つめた。

 もうじき死んでしまうかもしれない、そんな深刻な状況でこんなにも笑えるものなのだろうか……

 今の自分も、精一杯、明るく振舞い、この旅を楽しもうと心掛けているが、やはり、ふとした瞬間に頭をよぎる黒い影が、心の中を暗くする。そんな事を思っていると、清三の無垢な笑い顔が気になって仕方ない。この二人は間違いなく今、幸せを噛みしめている。清三と百合子が醸し出す、何とも言えないほっこりした雰囲気は、意識して作り出せるものではない。微笑ましい二人をじっと見つめていたら、胸が一杯になってきて、じんわりと涙が溜まり始めた。


 「ところで、お二人はどういう関係? やっぱり親子? それとも……なんか訳あり?」

 清三が悪戯っぽい笑みを浮かべて、言った。

 健一が答えあぐねていると、渚が口を開いた。

 「私たち、宗谷岬で偶然出会ったんです。私が、これからどうしようか、と途方に暮れていたら、自殺しようとしている健一さんを見つけて……」

 健一はドキッとした。渚が何の前触れも無くそんな事を言い出したからだ。

 渚は、健一の視線を感じつつも、気にする事無く、話しを続ける。

 「私は、脳腫瘍を煩っていまして……」

 渚は自分の病状と、健一との出会いを詳しく説明した。

 老夫婦は熱心に、渚の話しに耳を傾けた。

 百合子は時に頷き、時に眉間に皺を寄せ、身を乗り出すように真剣に話しを聞いた。そして、渚の話しを聞き終えると、元の優しい顔になって、「大丈夫よ、お二人とも今、生きているんだから…… きっと何とかなるわ」、と微笑みかける。

渚は、その包み込むような笑顔が心に沁みて、泣き出しそうになった。

 涙を堪えようと頑張ってはみたが、結局堪えきれず、「お母さん……」、と涙を溢れさせながら、百合子の手を握った。

 百合子は、渚の手をゆっくりと自分の頬に引き寄せると、頷きながらニコリと笑う。目を細めた優しい笑顔がさらに涙を誘い、渚の涙腺は崩壊した。

 「旅は道連れ、世は情けって言うでしょ。 あんた、この娘さんを守ってあげなさいよ」

 渚の涙を見るに見かねた清三は、そう言って立ち上がると、健一の肩をバシーンと叩いた。

 叩かれた健一は、苦笑いを浮かべて、ペコリと頭を下げる。

 キャンピングカーでの会話は長く続いた。自殺をしようとした健一が、清三に窘められる事もあった。

 「あんた自殺なんて絶対に駄目だよ…… ちゃんと天寿を全うしないと天国へ行けないんだから、トドワラみたいに寂しい所じゃなくて、お花畑に行きたいでしょ」

 清三が言い含めるように話すと、少し呆れたような顔をした百合子は、「清三さんだって、ガンて言われた時、『もう死なせてくれ!』って言っていたじゃない」、と清三の脇腹を突き、脇腹を突かれた清三はペロっと舌を出しておどけた。

 「私はこう思うの、幸せと言うのはね、今、目の前にあるんじゃないかって。幸せは未来に求めるものじゃなくて、今、感じるものなのよ。だから未来にどんな不安を抱えていても、必ず幸せになれるのよ」

 百合子は、渚と健一の目を交互に見つめながら語りかけた。でも、それは自分に言い聞かせている言葉でもあった。

 渚と健一は、コーヒーを何度もおかわりして、百合子手製のパンケーキまでご馳走になった。

 結局、老夫婦との話は二時間以上続き、渚のスマホのアラームが午後二時を告げたのが切掛けとなって、別れることになった。話の最後に、渚はお勧めの場所を尋ねた。

 「そうね…… 釧路へ行かれるなら、湿原カヌーがお勧めね、出来れば早朝がいいわ。パンフレットを頂いてきたからあげる」

 百合子はそう言うと、クリアファイルに挟まれていたパンフレットを取り出して、渚に手渡した。

 「とてもユニークなガイドさんだから、楽しい体験が出来るわよ」

 パンフレットを手にした渚の頬が緩んでいく。

 「釧路湿原でカヌーか…… なんだか楽しそう」

 視線を宙に漂わせている渚の顔を、健一は嬉しそうな顔で見つめた。


 「清三さん、お大事に……」

 車に乗り込もうとした渚が言うと、顔中を皺だらけにして清三は喜ぶ。

 百合子と清三は、渚たちの出発を見送ろうとしている。

 「渚ちゃんも、お大事に。禍福は糾える縄の如し、って言うでしょ、悪い事の後には、きっと良い事があるから、元気出してね」

清三は、渚の両手を包み込むように握って、笑顔を贈った。

 「私達はゆっくり行くので、お先にどうぞ。お二人とも、良い旅を続けてくださいね」

 百合子が深々と頭を下げると、健一も渚も丁寧に頭を下げた。

 三人が頭を下げている姿を、清三は写真に収めてニヤニヤと笑う。

 渚と健一は、見送られて出発した。

 健一がルームミラーで後ろを見ると、百合子と清三は手を繋いで並び、こちらを見つめていた。遠ざかるにつれて二人の姿は小さくなり、やがて見えなくなると物寂しさが湧いてくる。先ほど出会ったばかりなのに、ずっと昔から知り合っていたような親しみを感じ、そんな二人と、もう会えないのではないか、と思ったら、悲しい気分に襲われたのだ。人との関係を嫌っていたのに、今は人恋しくなっている。そんな心の変化に気付き、健一は苦笑いを浮かべた。

 渚は、ぼんやりと車窓の景色を眺めながら、清三の笑顔を思い出していた。

百合子と言う大きな存在に包まれて、幸せそうに過ごす清三、その姿からは、死の恐怖など微塵も感じられない。でも、その一方で百合子は清三を失った後の事をどう思っているのだろう、そんな事がふと気になった。

 百合子の笑顔も自然で、気負っているとか、我慢しているなどとは到底思えない。百合子は強い、最初から強かったのか、日を追う毎に強くなっていったのかは分からないが、本当に強い。でも、今の私はそんな風に割り切れるほど強くはない。脳外科手術が目前に迫っている今、その事を忘れる為に今を楽しもうとしてみるが、やはり手術が終わった後の人生を考えたら、目の前が暗くなってくる。一瞬でも不安が過れば、何をしていても、その事に囚われて気が滅入るばかりだ。生きていくという事を前提に考えると苦しさからは逃れられない、そんな事を思っていたら、不意に百合子の言葉が蘇って来た。

 『幸せは未来に求めるものではなく、今、感じるもの』

 渚はこの言葉を心の中で何度も念じ、言葉の真意を探そうとした。

 今、感じるもの……

 百合子の姿を思い浮かべると、ストンと胸に落ちる言葉だが、自分に置き換えると、喉元で引っ掛かってしまう。幸せって何なのだろう、渚は眉間に皺を寄せた。


 野付半島を離れ、国道244号線を根室方面に進路を取ると、先ほどまで見学していたトドワラが海の向こう側に見えた。ネイチャーセンターを出発してからずっと口を閉ざしていた渚に、健一が話しかけた。

 「なんで、俺が自殺しようとしていた事を話したんだ……」

 健一は、怒っている訳ではないが、少し不満そうに口を尖らせる。

 渚は、その事が心に引っ掛かっていた。いくら打ち解けていたとは言え、そんな事まで言うべきではなかったなと、後悔していたからだ。自分の話しをする為に思わず口を衝いて出てしまったのが、言うべきでは無かったと後悔していた。その事を健一に言われ、思わず顔をしかめた。

 「ごめんなさい…… あのご夫婦とお話しをしていたら、家族と話しているみたいな気分になっちゃって、つい話してしまったの…… 怒ってる?」

 「いや、いいんだ、本当の事だから……」

 渚が酷く申し訳無さそうに話すのを聞き、健一は余計な話しを持ち出さなければ良かったと後悔した。実際のところ、話しを聞いてもらって少し楽になった気がするし、渚が家族と話しているようだった、と言ったのも頷ける。百合子の優しい雰囲気と清三の砕けた調子は、忘れ掛けていた人との絆を思い出させてくれた。それは渚の存在も同じだった。

 「ねぇ、おじさん……」

 渚は少しためらいながら呼びかけた。

 「何?」

 健一がちらっと渚の方を見ると、「うん、やっぱりいいや」、と何とも言えない顔をして、渚は目を伏せた。

 「何? 気になるだろ」

 健一が、ちらちらと視線を送ると、「何でもない」、と苦笑いを浮かべる。

 「言い掛けたんだから言えよ、気になるだろ」

渚は躊躇いつつ、「おじさん、もう自殺なんかしないよね」、と搾り出すように言って目を伏せた。

 「しないよ、この旅が終わるまでは……」

 健一は、少し戸惑いながら言葉を返す。

 「違うよ、ずっとだよ、ずっと。駄目だよ、自殺なんかしちゃ……」

 渚は、すがるような眼差しで健一を見つめた。

 「……」

 冗談など受け付けない、という渚の真剣な眼差しが、健一の言葉を詰まらせる。

 生きる道と、死んでいく道、今、二つの分岐路に差し掛かっている、生きる道へ足を踏み出そうとしているのだが、その為には、向き合わなければならない過去がある。果たして出来るのか……

 健一は自問自答した。このままで良い筈は無い、それは分かっているが、前を向いて進むには、あまりにも高い壁が立ちはだかる。もしも時間を遡れるのなら、あの時に戻りたい、健一は自らの過去を悔やんだ。

 「ねぇ、何で死のうと思ったの?」

 渚は、戸惑っている健一を、痛ましげに見つめる。

 「それは…… 今は…… まだ言えない……」

 健一は、途切れ途切れに言葉を繋ぐと、打ち明けられない過去を胸の奥へと押し込んだ。

 「そっか、じゃぁ無理には聞かないね。でも死なないでよ」

 渚は健一の横顔を見つめながら、頬を少し緩ませた。

 健一は渚の視線を感じつつも、フロントガラスから目を逸らさない、見つめ返す自信がない。

 「ねぇ?」

 渚は、子猫が泣くような小さな声を出した。

 「何?」

 健一は、ちらっと視線を送る。

 「さっきの話しだけど…… 何があったのか、いつか聞かせてね」

 「あぁ……」

 健一は、気の無い返事をしつつ、この旅のどこかで話さなければならないような気がしていた。

 「ねぇ……」

 「何?」

 「少し疲れちゃったみたい、しばらく眠ってもいいかな?」

 渚は目を閉じて、こめかみの辺りを揉み解す。

 「あぁ、いいよ」

 窓にもたれ掛かった渚の顔から、しんどそうな気配が感じ取れた。

 何も無ければ良いのだが、健一は体調を案じた。

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