8 釧路
平日だというのに、岸壁近くの炉端焼き屋は、賑わっていた。
観光客や地元のサラリーマンが詰めかけた店内は、お客たちの弾んだ会話と、威勢の良い店員の掛け声が飛び交い、お祭りのような雰囲気が漂っている。
店に入り、渚がカウンター席を希望すると、コの字型になったカウンターの一番奥に通された。
カウンターの中には、ザルに盛られた魚介類などが所狭しと並べられ、その内側は焼き場になっている。焼き場の前には濃紺色の作務衣を着た職人が三名、肩が触れ合うほどの間隔で、せわしなく手を動かす。
席に着くなり、渚はウーロン茶、健一は生ビールを頼んだ。
渚が、目の前に並べられている食材に目を躍らせていると、それに気づいた丸坊主にねじり鉢巻の職人が「いらっしゃい! 好きな物、言って頂戴ねー」、と笑いながら声を掛ける。
「どれもこれも美味しそう…… お兄さんのオススメは?」
物怖じしない渚は、騒がしい周りの声に負けじと大きな声を出す。
「ホッケに、ホタテに、つぶ・・・・・・ 全部オススメだよ!」
職人が陽気な雰囲気を漂わすと、「じゃぁ、全部、貰っちゃおうかな」、と言って笑いを誘った。
結局、迷った挙句、ホッケとホタテ、それにじゃがバターを頼んだ。程なくして、ドリンクが運ばれてくると、二人は視線を合わせ、コツン、とグラスを重ねた。
渚は、魚を焼く職人の手さばきをじっと見つめ、焼き場から立ち上る煙を思い切り吸い込み、ニンマリと笑う。
健一は、ちらちらと渚の様子を観察して、その明るい表情に安心した。
野付半島から釧路への移動中、渚はずっと眠っていた。
これまでも助手席でウトウトする事はあったが、これほど長く眠っていたのは初めてで、時折、顔を歪め、少し苦しそうな声を漏らしていた事もあり、何か異変が起きているのではないか、と心配していたのだ。
釧路市内のホテルに到着した時、健一が、「具合が悪いのではないか」、と尋ねると、渚は、「軽い頭痛がしただけだから心配いらない」、と言った。しかし、その表情はどことなく冴えない、顔色も良くなかった。
渚はホテルにチェックインしてから、三時間ほど部屋で横になり、炉型焼きを食べにやって来た。
渚の様子は、元の姿に戻っているようだったが、それでも健一は心配だった。
「頭痛はどんな感じ?」
「部屋で横になったら、すっきりしてきたから、もう大丈夫」
「無理するなよ……」
「うん、おじさんが一緒で良かった…… 有難う」
健一は安堵しつつも、渚が重い病を抱えている、という事を改めて感じ、労わる様な目で横顔を見つめた
「はーい、ホタテ焼けたよ!」
坊主頭の職人が大きなしゃもじにホタテを載せて差し出す。
「わぁー美味しそう」
渚がはしゃぎ声を上げて受け取る。
「アツアツのうちに食べよう!」
渚は、健一に割り箸を渡した。
目の前の焼き場から香ばしい香りが漂い、二人は次から次へと焼きあがる食材を口へ運んだ。
左手に持った箸をぎこちなく動かす渚を横目に見ながら、健一は炉端焼きを味わい、渚が食べるのに苦労していると、それを手伝った。
渚の役に立てているという事が、健一の気持ちを落ち着かせる。ふとした瞬間に蘇ってくる煩わしい出来事を、渚が忘れさせてくれた。
健一は、にこやかに食事をする渚を見つめていたら、不意にトドワラで出会った百合子の言葉が思い浮かんだ。
『幸せと言うのは目の前にあるもの、どんな不安を抱えていても必ず幸せになれる』、という言葉だ。渚も自分も、未来にあるのは不安ばかり。それでも、少なくとも今、この瞬間は幸せである、と言えなくはない。このひとときの安らぎを幸せなのだ、と感じられるかどうか、それは心の持ち方次第なのだな、と健一は思った。
炉端焼きを食べながら、渚が思い出を語り始めた。
幼い頃に母親を亡くし、男手ひとつで育てて貰った話。父親が働いていた美容室が子供の頃の遊び場であった事や、男の子達と一緒に少年野球チームに入っていた事、高校生の時はソフトボールで県大会の決勝戦まで行った事、専門学校で美容師の勉強をした事や、資格試験に合格した事、先輩美容師と恋に落ち、失恋するまでの思い出なども赤裸々に語った。
健一は、ひたすら聞き役に回った。
渚は、一つ一つの思い出を物語の様に、きちんと順序立てて話す。話を聞いているうちに健一は気付いた。渚は、この世に存在した、という証を受け止めて欲しくて話しているのではないか、と。
渚の話しを聞いていると、当時の情景が目に浮かぶ。おてんばな女の子だった、と言う面影は今も残っているし、スポーツに打ち込んでいた、と言うのも頷ける。美容師という夢を実現させる為に一生懸命勉強をしたのだろう。そんな健気なところに胸を打たれ、渚の事を知れば知るほど、情が湧いてくる。
今の渚だって傍目に見れば、聡明で、健康で、活発な女性だ。それだけに抱えている悩みが余計に重たく感じ、彼女の弱いところが透けて見える気がした。
食事を終えた二人は、釧路川に掛かる幣舞橋の袂を散歩した。
渚は橋の下までやって来ると、足を止めて、川沿いの柵にもたれ掛かる。
健一も隣に並んで、川を見つめた。
川面には、ライトアップされた幣舞橋が映りこんでいる。
「やっぱり、何があったのか知りたいな……」
釧路川をぼんやりと眺めていた渚が、ポツリと呟いた。
健一は顔の向きを変えずに、横目で表情を伺う。
ぼんやりと灯る街頭が、渚の瞳の中で煌いて、心なしか潤んでいるように見えた。
「気持ちの整理をつけたいから、もう少しだけ待ってくれ。この旅が終わるまでに、きっと話すから……」
渚は、視線を送ることなく、分かった、とだけ言った。
釧路川を航行する漁船が、川面に映る幣舞橋を滲ませた。
日が暮れて気温が下がり、ややひんやりとした空気が流れる。
船が通り過ぎると、仄かに潮の香りが漂った。
部屋に戻った渚は、窓の外の夜景をぼんやりと見つめながら、旅に出る前の事を思い出していた。
手術の日程が決まり、その事を美容院のオーナーへ報告に行った時の事だ。
ロッカールームへ荷物を取りに行こうと思ったら、部屋の中から聞えてきた話し声……
「渚ちゃん、可哀想だけど美容師としては、厳しいよね」
「右手を自由に動かせないって言うのは、美容師として致命的ですね」
「これからどうするんだろう、美容師一筋で頑張っていたのに…… 私だったら、生きていけないな……」
話していたのは、二つ先輩の麻美さんとシャンプー担当の幹夫だった。同僚たちにそんな風に言われていた事がショックで、荷物を取りに入れず、気づかれないように店を飛び出した。二人の会話に何度も出てきた、美容師として、という言葉が頭の中をリフレインした。
別に酷い事を言われていた訳ではないし、そんな事は分かっていた事だけれど、それが他人の口から出てきた事で本当に絶望的なのだな、という事を思い知らされた気がする。
もう美容師としては無理なのだな、と思ったら胸が暗く波を打ち始め、居ても立っても居られなくなった。大変な思いをして手術を受けても、元に戻る事ができないのなら、手術なんて受ける意味がないし、麻美さんが言っていたように、美容師の仕事が出来なくなったら、どうやって生きていけば良いのだろう。
手術が遅れれば命に関わると言われているけれど、このまま死んだって構わない、とさえ思った。
でも右手の麻痺は酷くなるし、視界はどんどん狭くなっていく。頭痛も度々起こるし、目眩がする事もある。次から次へと起こる身体の異変が怖くてたまらなくて、色んなものから逃げ出したかった。
おじさんには、「日本のテッペンから出直したい……」、なんて前向きな事を口にしたけど、本当は地球上から消えてしまいたいと思った。東京から出来るだけ遠くへ離れたい、ただそれだけだった。
旅に出て気持ちを切り替えるなんて余裕はなかったし、このまま痛みも苦しみも感じる事無く、この世から消えてしまう事が出来たなら、どんなに楽だろうと思った。
宗谷岬の夜空を見上げた時はそんな気持ちで一杯だった。
あの時、もしも出会っていなかったら……
おじさんと巡り逢って、何故か分からないけど直感的な親しみを感じて、この人を救わなければ、という気持ちが湧き上がり、そんな事を考え始めたら、明るく振舞わなければ、という気持ちになってきて、気がついたら旅に誘っていた。
一緒に行動していたら元気が湧いてきて、『自分の不安を打ち消すには、他人の事を心配しろ』、と言った父親の顔が浮かんできた。不安な事が頭に思い浮かんでも、おじさんの顔を見ると、嫌な事を棚上げする事が出来る。おじさんの事を救ったようだけど、実は救われているのは私自身かも知れない。
死んでもいい、と思い始めていたのに、他人の命を救おうとするなんて、何とも皮肉な運命だ。そんな事を考え始めると、やはり、おじさんが死のうとしていた理由が知りたい、生きていけるのに、死を決意するに至った理由とはどれほどの事なのだろう……
窓の外には、先ほどまで健一と眺めていた幣舞橋が、紫色のライトに照らされて浮かび上がっていた。
翌朝、健一は客室電話のけたたましい呼び出し音で、目が覚めた。
相手は、渚からだった。
「おじさん、起きている?」
渚の声がいつもより少し低かったのは、渚も寝起きだったからだろう。
「今、起こされたよ」
「三十分後にロビーね、必ずよ」
電話はそれだけで切れた。
昨晩、深酒をしたせいか、少し頭がぼんやりしている。
渚と別れたあと、健一は部屋に戻り、ミニバーのウイスキーを何本も空けた。
この旅が終わった後どうすべきか、夜更けまで酒を飲みながら考えていたのだ。
選択肢は二つ。ひとつは自分に課せられた罪をそのまま被り、死をもって事実を闇に葬る。もうひとつは、事実を全て打ち明けて、真相を明らかにする。
この旅が始まるまでは、前者を選択する覚悟を決めていた。
しかし、宗谷岬で死にきれなかったのは、心のどこかに未練があったからではないのか、そんな思いが頭をもたげる。この旅が始まり、その思いは日に日に強くなっていった。潔い選択をしたつもりだったが、それは、ただ事実から逃げていただけではないだろうか。それによって本当に守るべき者を、苦しめる事になるのではないか、そんな気持ちが沸いてきた。
健一は、ロックグラスに注いだ琥珀色のウイスキーを眺めながら、忌々しい記憶の紐を解いた。
長年仕えてきた、代議士の剛田から夜中に呼び出されたのは、三か月ほど前だった。
健一は二十台半ばから、次期大臣候補とも言われている大物代議士、剛田の秘書をしている。
剛田とは妻を通じて知り合った。学生時代に付き合い始めた妻と二十五歳の時に結婚し、結婚式で叔父であると紹介されたのが剛田だった。
その後、会う機会が度々設けられ、話しを聞いているうちに、剛田の生き方、考え方に共感する。
証券会社の仕事に嫌気がさしていた健一は、勤めていた会社を退職して、剛田の秘書として、新たな人生を歩み始めた。
政治とは何か、を熱く語る剛田に、健一は心酔していった。志が高く、正義感の固まりのようなこの男に魅了され、この男に付いて行けば輝かしい未来が開けると、生涯を捧げる思いで仕えた。厳しい事を言われた、嫌な思いも沢山した、それでも、果てしなく高い頂を目指すには、試練を乗り越える事など、何てこと無かったし、元より険しい道のりは覚悟の上だった。
健一にとって剛田は、師であり、兄貴であり、夢に向かって邁進する同志だった。
いざ、という時は、命を投げ打つ覚悟さえ持った。
その日、ホテルの最上階にあるバーの個室に、健一は呼び出された。人目を憚るような時間、場所、そして剛田の声音に、ただならぬ雰囲気を感じた。こういう呼び出され方をした事は、二十年以上の付き合いで、一度もなかったからだ。
向かいのソファーに腰をかけた剛田は、煙草をくゆらせながら、マッカラン二十五年シェリーオークのボトルを鷲づかみすると、二杯のロックグラスに注いだ。
一方のグラスを自ら手に取りグイッと飲み干すと、苦々しい顔をして何も言わずに、もう一方のグラスを手に取るよう、顎で差した。
健一が両手でグラスを取り、ひと口含むと、剛田は何の前触れもなく、非情な言葉を口にする。
「何も言わずに、俺の前から消えてくれ……」
剛田は大手の建設会社から賄賂を受け取っていた。
何者かのリークにより、その事実が明るみに出ようとしている。その疑惑に関しては、健一の耳にも届いていたが、当初、剛田はその事を真っ向から否定していた。
健一はその言葉を信じ、疑惑は党内で頭角を現してきた剛田に対する反対勢力の仕業だと信じて疑わなかった。しかし、実際はそうでは無かった。
健一にとっては、晴天の霹靂だった。信頼していた剛田が賄賂を受け取っていた事もそうだが、誠実さを売り物にしていた剛田が嘘をついていた事、そしてその嘘を隠す為に、全ての罪を秘書に負わせようとしている事が、何よりもショックだった。
俄かに受け止められるような事ではなく、考えれば考えるほど、胸が締め付けられるように痛んだ。
「全ては君の独断で行った事だ、そういう事になる。君の家族の面倒はみるから何も心配はいらない」
剛田は、顔色ひとつ変えず、冷徹にそう言い放った。
姿を消せと言うのは、死んでくれという事だろう、健一はそう受け取った。
人生の全てを賭けて、尽くしてきた男から告げられた残酷な言葉。
健一は自分の人生全てを否定されたような気分になり、生きる気力を失った。
抗う事無く、たったひと言、「分かりました」、と口にした健一が席を立つと、剛田は肩を二度叩いた。
一瞬、動きを止めた健一が剛田の目を見つめると、剛田は視線を合わそうとすらしない。
『この男と、視線が重なる事は、もう二度と無いのだな……』
そう思った健一はバーを後にした。
グラスを拭いていたバーテンダーの視線が何かを訴え掛けているように見え、一度足を止めてみたが、何も起きなかった。
剛田に逆らう、という気にはならなかった。
一生を捧げてきた剛田に、逆らって生きていける筈が無いと思ったし、そんな事をすれば剛田の姪っ子である妻の立場が無くなる。
健一は全ての財産を妻に渡し、離婚届を書かせた。
妻は涙を流して嫌がったが、無理矢理、目の前で書かせた。その時の事を思い出すと、胸の奥が激しく痛む。妻は、何があっても支える、と言った。でも、その言葉に甘んじて生活していく事は出来ないと思った。
マスコミから騒がれ、世間から疑いの目を向けられる、そんな状況に家族を巻き込みたくなかった。一刻も早く事態を収束させるには、全責任を背負って精算する、と言う事が、自分にとっても、家族にとっても最善なのだと言い聞かせた。そうする事で、この煩わしい世の中から逃れられるのならば、それで良いと思った。
別れ間際に唇を噛み締めて、泣くのを必死に堪えていた妻の顔が、脳裏に浮かぶ。
それは全てを承知した上で、何もかも飲み込み、諦めを覚悟した姿に思えた。
健一は、『すまない、分かってくれ……』、と心の中で念じ、自らの汚名が、家族に及ばない事をひたすら願った。
逃亡生活は二ヶ月に及んだ。
偽名を使ってホテルを点々と渡り歩き、精根尽き果てて、もはやこれまで、と覚悟を決めて、東京から遠く離れた宗谷岬へやって来た。ここで何の痕跡も残さずに命を絶てば、あらゆる苦悩から解放される。それが唯一救われる手段だと思った。
健一は窓際の椅子に座り、ロックグラスを傾けた。
窓の外にはうっすらと霧が漂い、ライトアップされた幣舞橋が、ぼんやりと浮かび上がって見える。
目を閉じると、瞼に渚の瞳が浮かんだ。
一点の曇りもない澄んだ瞳をした渚の存在が、正しい選択肢が何であるかを示しているように思えた。
健一はいかに死ぬかではなく、どのように立ち向かって行くべきか、を考えた。
『剛田の第一秘書が逃亡』、というニュースは紙面を賑わせ、ワイドショーで連日取り上げられている。
この状況をひっくり返すには、想像を絶するような苦痛を伴うだろう。
果たしてそんな事に耐えられるのだろうか?
いくら考えても、堂々巡りをするばかりで答えは出ない。答えが出ないまま、何本ものミニチュアボトルが空いていった。
剛田が惜しみなく注いでいたマッカランのボトルと、目の前に転がるミニチュアボトルが対峙しているように見えた。
心の中には言葉にならない思いが膨らんでいた。それは怒りとか悔しさと言った単純なものではなく、いくつもの感情が入り混じった複雑なものだった。どす黒くて、ずしりと重たい得体の知れない塊が腹の奥で蠢いている気がした。そしてそれが、生き抜く事を決意させるエネルギーの源になっているように感じられた。
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