9 釧路湿原

 健一がロビーへ下りていくと、渚は一人の男性と話しをしていた。

 「おはようございます、ツアーガイドの八戸と言います」

 テンガロンハットを被った男は、笑顔で自己紹介を始めた。

 「ここから釧路湿原のカヌー乗り場まで、私のバンで移動します。詳しい事は車の中で説明しますので、早速、行きましょう。今日は良い天気なので、絶景がご覧いただけますよ」

 ツアーガイドの八戸は、朝早くから元気な声を飛ばしている。

 ホテルの外は、ひんやりとしていた。玄関前にある温度計は15℃と表示されている。

 健一はTシャツ一枚で来た事を少し後悔したが、レインジャケットを貸してもらえると聞いて安心した。

 八戸が運転するバンで四十分ほど走り、塘路湖の船着場に到着すると、女性スタッフが出航準備を整えて待っていた。

 そのスタッフから渡された上下のレインウェアと、ライフジャケットを身につけ、三名乗りのカヌーに乗り込む。ガイドの八戸が一番後ろ、健一は真ん中で、一番前には渚が座った。乗船時にパドルを渡され、簡単に漕ぎ方を教わったが、ガイドが漕ぐので心配しなくて大丈夫だ、と言われる。

 釧路川カヌーツアーは釧路湿原散策の人気アクティビティーになっている。中でも早朝カヌーツアーは、他のツアー客が少ない時間帯なので、動物との遭遇率が高い。さらに夏場は朝霧が掛かる事が多く、幻想的な景色にめぐり合える可能性が高いそうだ。

 塘路湖を出航したカヌーは、静かな川面を滑るように漕ぎ出していった。

 釧網線の橋の下をくぐると、川面に薄っすらと霧が掛かり、水墨画のような神秘的な風景が広がる。聴こえてくるのは、野鳥のさえずりと、パドルが奏でる水の音、視界から人工的な物が消えていき、広がる景色は人の手がついていない何百年、何千年もの昔から緩やかに変化してきた自然だ。

 ガイドの八戸がひと漕ぎすると、カヌーはスーッと滑らかに進んでいく。蛇行しながら緩やかに流れる釧路川は、大自然の時の移ろいを象徴しているように見えた。

八戸が釧路湿原のツアーガイドをするようになったのは、今から十年以上前の事だ。

都内の大学を卒業して地元の九州へ戻り、ホテルマンとして社会人のスタートを切った八戸だったが、三十歳を目前にして勤めていたホテルが閉鎖され、職を失ってしまう。

 別のホテルを探して就職活動をしてみたが、希望に適う職場が見つからず、一年以上無職の状態に陥った。

 描いていた未来予想図が音を立てて崩れ、心神喪失状態に陥り、引き篭もりの日々を過ごして、人生が終わったような気分になっていたある日、テレビで、『イージライダー』、という映画を観た。

 映画に登場していた二人のバイク乗りに心を奪われた八戸は、身体中が熱くなってきて、居ても立ってもいられず、バイクで旅に出る事を決意する。

 八戸はホテルから湿原へ移動する車内で、自分の事を話していた。

 「仕事が見つからない時に思ったんです、ホテルマンとしてのキャリアにこだわっているから駄目なんだなぁって。山登りで山頂へ向かう道が崩れていたら、いつまでも、その場に居たってしょうがないですもんね…… 一度山を降りて別の道を探すのもありなんじゃないかな、と思いましてね。思い切って人生、もう一度やり直してみようって考えて、それでバイクで旅に出たんです…… 殆どやけっぱちでしたね」

 八戸は運転しながら、ルームミラーでチラチラと後部座席を気にしながら話をした。

 「九州からバイクで日本を縦断したんですけど、お金なんて大して無くても、生きていけるもんなんですよね…… この国は、水はタダみたいなものでしょ、空気を吸って、水を飲み、少々の食べ物を得るために日銭を稼げば、何とか生きていけるんです。目標は今日一日を生き抜く事、明日の事は明日になってから考える、とってもシンプルでしょ…… 多くを求めず、謙虚に生きていたら、どこへ行っても温かい人が居て、助けを求めると、救いの手を差し伸べてくれるんです…… 引き篭もっていた時は、酷い世の中だって思っていたけど、世の中が酷い訳じゃなくて、自分の心が荒んでいたんだ、って事に気づきました…… 九州、本州、北海道と、日本の四季を走ってきて、釧路湿原にたどり着き、雄大な景色に、すっかり心を奪われちゃいましてね…… ちょうどバイクの車検も切れたところだったし、もうここに住んでしまおうと…… 最初は、居酒屋でアルバイトをしていたんですけど、カヌーのツアーガイドをやらないか、ってお誘いがありまして、もともと、人の笑顔が見たくてホテルマンになったんだから、これはいいかもしれないなって……」

 渚は八戸の話に引き込まれた。

 仕事がなくてバイクで日本を縦断する、と言う発想にも驚いたが、旅の途中で巡り合った景色に惹かれて、そこへ住むことを決意した、八戸の自由な生き方に心を奪われたのだ。

 「この仕事をしてみて気づきましたよ…… 大きなホテルに就職して夢を叶えたような気になっていたけど、それがただの幻想だったってことにね。結局、僕はホテルに依存していただけだったんですよね、これで一生安泰だって…… 今、ものすごく幸せです。毎日来ても、決して飽きる事の無い大自然に抱かれて、お客さんに喜んでもらえて、それが生きる糧になって…… 皆さん、お顔が変わるんですよ、カヌーに乗る前と、降りた後の顔がね……」

 車内で自分の過去を語る八戸は、とても饒舌だった。


 塘路湖を出てから、ずっと無口だった八戸が、静かな声で話し始める。

 「どうです、いいでしょう。都会の景色は十年経ったらガラっと変わってしまいますが、ここの景色は五十年遡ってみたところで、大して変わらないです。都会と自然の中では時の流れ方が違うのでしょうね……」

 「不思議な感じですね。違う世界に来ちゃったみたい……」

 渚が周囲をぐるりと見回して言った。

 「本当の贅沢って、こういう事だと思うんですよ。今のテクノロジーだったら、何かを作り出すのって簡単でしょ、東京に出来た馬鹿でかい何とかタワーだって、何年かで出来ちゃう。でもね、この大自然はどんなに技術が進歩したって、決して作り出す事はできないんです」

 八戸は湿原に漂う空気を壊さないように、小さな声で話す。

 「人の時計はせわしないけれど、自然界の時計はゆっくりと。壊された自然を直すのも、ゆーっくり…… だから、一度壊された自然が元の姿に戻るのを、私たちは見る事が出来ないです。子どもの世代、孫の世代でも見る事ができないかもしれません。だから壊しちゃいけないんです。私たちの子孫の為に残しておかないと…… 時は同じ方向にしか流れませんからね…… 決して遡る事はできません」

 八戸はゆるやかな川の流れに合わせて、ゆっくりと静かに話をした。

 ひとしきり話すと、八戸は口を閉じた。

 カヌーは静かに川面を滑っていく。

 スタートして一時間ほど経った頃、川岸にエゾシカの親子が現れた。

 目の前をカヌーが通り過ぎても、動じずに、こちらをじっと見つめている。

 「あの親子、逃げないんですね」

 渚が声を潜めて言った。

 「ここは彼らの土地ですからね…… この中に入ったら、人間が侵入者、僕達が動物を観察しているんじゃなくて、僕らが動物から観察されているんです」

 「ごめんね…… お邪魔してます」

 エゾシカに向かって、渚は小さな声を掛けた。


 カヌーツアーは、二時間ほどで終了した。

 渚は五感をフルに使って、自然を満喫した。

 目を瞑り、視界を閉ざす事で聞えてくる自然の声に耳を傾け、ゆるやかに流れる風を肌で感じた。緑の香りを吸い込んで深呼吸をすると、身体の中の細胞が生まれ変わるような感じがした。ツアーの途中で、八戸が淹れてくれたコーヒーは今までに飲んだ事がない、深い味わいがあった。

 渚は、生きている事を実感した。

 それは健一も同じだった。

 せわしない都会で、神経をすり減らして働き、周りの人より少し多くの報酬を貰って、裕福な生活をする。それが幸せだと思っていた。聞きたくない音に耳を塞ぎ、嗅ぎたくない臭いに息を止め、見たくないものから目を逸らす。自らの目的を達成するために、それは仕方のない事だと諦めていた。

 でも、本当にそうなのだろうか?

 それで幸せだったのだろうか……

 なれの果てが今の自分ではないのか……

 心の底に溜まっていた沈殿物が、自然から伝わってきた清らかな刺激によって、浄化されたような気がした。何かを犠牲にして、幸せを掴み取ろうとして来た、自分の心が波を打った。全てを失った筈なのに、満たされた気分になっている、これは一体何なのだろう…… 幸せとは、こういう事を言うのではないのか、健一は思った。


 細岡の船着場に着岸すると、八戸は、写真を一枚撮らせて欲しいと言った。

 ツアー客の写真を、自らが手がけるホームページで公開するのだそうだ。

 渚は、この旅を始めてから、健一と一緒の写真を撮っていない事に気づき、「いいですよ、撮影した写真、私にもくださいね」、と嬉しそうに言った。

 健一は身を隠して生活してきたので、写真を撮られることに抵抗があったが、嬉しそうに笑う渚の手前、その思いを封印して横に並んだ。

 渚と健一は、パドルを胸の前に掲げるポーズで撮影してもらった。

 渚は満面の笑みを浮かべ、健一は少しはにかんだ顔をしていた。


 細岡の船着場から少し歩いたところに細岡という無人の駅がある。

 渚がトイレに入っている間、健一はホームに立ってみた。

 緩やかにカーブをしながら緑の中に溶け込んでいく線路を見つめていたら、今、居る場所が時代から取り残されているような気分になった。こんなところから人生を再出発できたら……

 そんな思いが脳裏を掠めたが、次の瞬間には忌々しい現実が蘇り、思わず足元に視線を落とす。

 健一の心は揺れている、新たな道を切り拓くべく歩み出そうとしているが、その道筋が見えず、心の中に濃い霧が漂うばかりだ。では生きるのを諦めるか…… しかし、今となっては、それも難しい。渚と出会って回り始めた歯車を、逆に回す事は許されない気がする。

 悶々とした気持ちのまま、時だけが流れていく。

 遠くに見える景色と、目の前に見える赤錆びた線路、健一は胸の中に溜まっていた空気を吐き出した。

 ホテルへ戻る車内で、渚はガイドの八戸に、オススメの場所がないかを尋ねた。

 すると、八戸は、「富良野で面白い活動をしている人がいるから、紹介しますよ」、と嬉しそうに言った。

 「彼女は、壊された自然を自分の手で元に戻そうと、頑張っている子なんです。僕から連絡しておきますから、是非会ってみて下さい……」

 八戸は、ハンドルを握っている指を、車内に流れている音楽に合わせて上下に動かす。歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だ。試練を乗り越えて、この土地に落ち着いた八戸を、渚は羨ましげに見つめた。そんな八戸が、推薦する人はどんな人なのだろう、渚の次の目的地は富良野に決まった。

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