10 狩勝峠

 釧路から富良野までは230kmもの距離がある。八戸から紹介された狩野瑞江とは、翌日会うことになった。今晩の宿泊地はまだ決まっていない。

 富良野まで行ってしまうか、帯広で一泊するか、渚は決めあぐねていた。

 釧路から富良野を目指すならば、帯広は中間点になる、距離にして120km、町としては大きいが、渚も、健一も求めているのは都会ではなく、自然に囲まれた所が良いと考えていた。

 釧路川カヌーツアーから戻った二人は、ホテルの朝食会場で地図を開き、今晩の宿泊地を検討した。

 帯広を除外するとなると、他に宿泊出来そうなところとしては、トマムに大型のリゾートホテルがある。しかし夏場の観光シーズンともなれば、大勢の客で賑わうだろう。それは、二人にとって好ましくない条件だった。湿原カヌーの緩やかな流れに癒された二人は、穏やかな気持ちのまま過ごしたい、という気分になっていた。

 結局、適当な宿泊場所が決まらないまま、釧路を出発した。

 目ぼしいところがなければ富良野まで行ってしまうのも悪くはない、という結論に達したのだ。

 釧路から富良野へのルートは、道東自動車道を使わずに国道38号線を利用した。

 「カヌー凄く良かったね」

 渚は、釧路湿原の景色を思い浮かべて目を細める。

 「あぁ、あんなに穏やかな時間を過ごすなんて初めてだった」

 健一は、にこやかな表情を浮かべた。

 「『幸せって、掴むものでも、与えられるものでもなく、感じるものなんだ』、って八戸さんが言っていたでしょ。その通りだなぁって思った。美容師になる夢を叶えて、自分のお店を持てたら、幸せになれるって信じていたけど、きっとそうじゃないんだね。八戸さんは、『自分が素晴らしい、と思うところへお客さんを案内して、喜んでくれる姿を見たときに幸せを感じる』、って言っていたじゃない。都会で時間に追われた生活をしていると、何かを感じるって事に鈍感になって、幸せかどうかなんて、分からなくなってしまうんだね」

 「そうだな……」

 「カヌーが滑り出したとき、『静かですね』、って言ったら、『耳をすませば、色々な音が聞えてきますよ』、って八戸さんが言ったでしょ。目を瞑って集中したら、本当に色んな音が聞えてきたよね」

 「あぁ、小鳥のさえずり、川のせせらぎ」

 「うん、虫の鳴き声、風が葉っぱを揺らす音」

 「鳥の羽が風を切る音も聞えたな」

 「聞えた! 草が擦れる音も…… 何か生き物がいるんじゃないか、ってドキドキした」

 「少しでも動くものがあると敏感になったよな」

 「そう、そう、色んな匂いもしたよね……」

 「川の匂い、草の香り……」

 「どこからともなく漂ってくる甘い香り……」

 「土の匂いや、森の匂いも・・・…」

 「うん、それと八戸さんが淹れてくれたコーヒーの香り」

渚は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 「風で、カヌーの速さを感じたよね」

 「風が強くなると、八戸さんがスピードを上げたなって……」

 「なんか、五感が研ぎ澄まされた気がするね」

 「たしかに……」

 「カヌーの上で飲んだ一杯のコーヒーが美味しい、って感じる事、あれも幸せだよね?」

 健一は黙って頷いた。

 二人の会話は、途切れる事無く、いつまでも続いた。

 「また、行きたいな……」

 渚が憂いを帯びた顔で言うと、「きっと、行けるよ」、と健一は小さく頷いた。

 車は、白糠、豊頃、幕別……と小さな町をいくつか抜けて、帯広に到着した。

 時刻は正午を少し過ぎたところ、まだ時間が早い事もあり、ここに泊まるという選択肢は消して、帯広で昼食を取ることにした。

 「帯広と言えば、豚丼でしょ!」

 助手席で、情報調達に余念のない渚が声をあげた。

 健一は運転に専念しているので、渚の案内に黙って従う。

 二人は駅近くの老舗店に入った。

 店内に漂う匂いに食欲が刺激され、健一は一番値段の高い梅を、渚は松をオーダーした。

 丼から溢れるほどに盛られた豚肉に、二人の視線が釘漬けになる。炭焼きされた香ばしい豚肉と、甘辛いタレの味が絶妙に絡み合って、二人の舌を魅了した。

 丼を抱え込んで黙々と食べる健一、渚はぎこちない箸使いでゆっくりと食べる。

 時間を掛けて完食した渚の口元にタレがついていて、それを見つけた健一が指を指して笑うと、渚は頬っぺたを膨らませた。

 賑わう店内の雰囲気に、二人の会話が溶け込んだ。

 渚も健一も、抱えている重荷を忘れて笑い合った。

 「幸せだね……」

 渚がニッコリと笑うと、健一も顔を綻ばせた。

 渚と過ごす時間が、たまらなく楽しい、と感じるようになった健一は、ぼんやりと明日の事を想像した。

 明日もきっと、渚の笑顔を見る事が出来るだろう。

 明後日はどうだろうか?

 きっとこの旅はまだ続いているに違いない。

 では、一週間後は? 一ヵ月後は?

 想像する未来が遠くなるにつれ、心にジワジワと暗い闇が広がり始める。

 健一は、未来の不安を心の奥に仕舞い込んで、この瞬間の幸せを感じ取ろう、と躍起になった。

 それは渚も同じ気持ちだった。


 帯広を出発し、富良野へ向かって車を走らせていると、一時間ほどで狩勝峠という山間部へ差し掛かる。展望台という看板を目にした健一は、休憩がてら車を寄せる事にした。

 駐車場には数台の乗用車と大型トラックが一台止まっているだけだった。平日の昼間という事もあってか、観光スポットと呼べるような賑わいは無く、閉店してしまった店の雰囲気も相まって廃れた雰囲気が漂う。

 そんな中、渚は一人の女性に目が留まった。

 縁石の上に腰を掛けて、おにぎりを頬張っているその女性。肌は日焼けして小麦色、引き締まった細身の身体つきで、シルエットはいかにもアスリートと言った佇まいだが、穏やかな顔つきで、どこか一点を見つめながら、美味しそうにおにぎりを食べる姿が、とても無邪気で愛らしい。

 その姿と、この辺鄙な場所のミスマッチに、渚は興味を惹かれた。

 展望台へ歩き出そうとする健一を尻目に、渚は女性に歩み寄る。

 そして馴れ馴れしく、隣に腰を下ろした。

 女性は渚にチラリと視線を送り、愛想笑いを浮かべると、またおにぎりを口へ運ぶ。

 「もしかして、ここまで走ってきたんですか?」

渚が不思議そうな顔をして話しかけると、女性はおにぎりを口に入れたまま頷いた。

 「どこから?」

 探るように聞くと、「襟裳岬から、宗谷岬を目指して走っているんです」、と事も無げに言う。

 襟裳岬の場所が思い浮かばなかった渚が、視線を宙に漂わせていると、「襟裳岬から宗谷岬と言うと、北海道縦断って事ですね?」、と駆け寄ってきた健一が、驚きの顔を浮かべて話に割り込んだ。

 「えっ? 北海道縦断? 全部、走るんですか?」

 渚の声が上擦る。

 「はい、全部走ります」

 「何キロあるんですか?」

 「たぶん、530kmくらいですね」

 「えー!」

 渚は目を丸くして、驚いて身体を反らせた。

 渚と健一は、矢継ぎ早に質問を浴びせる。

 渚と健一が交互に話しかけ、女性はおにぎりを食べながら、淡々と答えていく。

 女性の名前は田中香織、東京在住の二十九歳で、夏休みを利用して、この旅を実行している。同行者は無く一人旅、二日前に襟裳岬を出発して今日が三日目。一週間程度の予定で宗谷岬を目指している。そんな事が分かった。

 「泊まるところは?」

 「宿を利用したり、キャンプ場にテントを張ったり、日が落ちて近くに宿が無ければ、野宿をする事があるかも……」

 「今日はどちらまで?」

 「今晩は、かなやま湖のコテージか、キャンプ場になると思います」

 際限なく続く渚と健一の問い掛けに戸惑った香織は、二人の前に手の平を広げ、待ったのポーズを取ると、「あの…… そろそろ出発しないと日が暮れてしまうので……」、と申し訳無さそうに言って、ゆっくりと立ち上がった。

 渚と健一は顔を見合わせた。

 「私たちも、かなやま湖へ行こうと思うのですが、そこで話の続きを聞かせて貰って良いですか?」

 渚と健一の宿泊地は、かなやま湖に決まった。

 「えぇ、それは構いませんけど…… お二人のお邪魔じゃなければ……」

 香織は舌をペロっと出す。その可愛らしさに渚は心をくすぐられる。

 「それじゃ、お先に! 後ほど、かなやま湖で……」

 香織は水色の大きなザックをひょいと背負って歩き始めると、徐々に歩くスピードを速め、スムーズに走りへと移行していった。無駄の無い軽快な脚さばきは、素人が見ても上級者だと分かる洗練された走り方だった。

 「車で追いかけますね……」

 遠ざかっていく背中に渚が叫び掛けると、香織は振り返らずに手を振った。

 「襟裳岬から、宗谷岬まで……」

 「530kmだって……」

 「あんな可愛らしいのに……」

 「凄いな……」

 「凄いね……」

 渚と健一は、目を丸くして言葉を投げあった。二人の目は輝いている。それはまるで、目の前に現れた英雄に心を奪われてしまった子供のようだ。二人はワクワクした気持ちを持ち込んで車を走らせる。重荷を背負った二人の姿は、そこに見受けられない。

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