11 かなやま湖

 かなやま湖を見下ろすカラマツ林に囲まれた宿泊施設は、大きなログハウスのホテル棟と、ゆったりとした敷地の中に点在するコテージ棟に分かれている。

 渚はコテージを手配した。コテージは一棟に五人まで宿泊できるので、香織と一緒に泊まれる、その事を渚は喜んだ。同世代の女性が北海道を縦断する、という壮大な挑戦の真只中にいると言う事に刺激され、渚は狩勝峠からずっと興奮していた。

 二人は食材の買出しへ出かけた。

 「香織さんが合流したらテラスでバーベキューをしよう!」

 渚は心を弾ませた。

 渚と健一は、幾寅の町へ繰り出して買物をした。

 町の住民が利用するこじんまりしたスーパーで買物を済ませて、コテージへ向かって車を走らせていると、根室本線の線路沿いを走る香織の背中が見えた。

 狩勝峠を出発してから、すでに三時間以上が経過している。

 香織が走るスピードは特段速い訳ではない。しかし同じストライドで安定したピッチを刻み、西日を受け、逆光の中に浮かび上がるシルエットは、いかにも凛々しく、足元から伸びる長い影は、果てしない距離に挑んでいく勇敢な姿を引き立たせている。

 渚は益々、香織に惹かれた。

 途轍もなく大きな目標に向かって突き進み、凄い事をしているのに、全く気負う事無く、淡々としているところが余計に逞しく思え、心が激しく揺さぶられた。

 「コテージの手配ができましたよ、一緒に泊まりませんか……」

 香織の横に並び掛けた車から叫ぶと、香織は右手の親指を立てた後、軽くお辞儀をした。

 頭に巻いているニコちゃんマークの柄が入ったグレーのバンダナは、汗でぐっしょりと滲んでいる。

 過酷な挑戦をしていると言うのに、香織の顔には薄っすらと笑みが浮かんでいる。自分の脚で旅をすると言う行為を、心から楽しんでいるようだった。

 それから一時間ほど経つと、渚と健一が待つコテージの前に香織が現れた。

 二人の存在に気づいた香織は、少しペースを上げた。

 渚と健一は手を繋いでアーチを作り、香織の到着を歓迎した。

 香織はアーチを潜り抜けると、「あぁー疲れたぁー」、と大きく息を吐きだし、頭に巻いていたバンダナを外す。ハラリと肩に落ちた髪の毛が、女性らしさを際立たせる。

 渚は、香織の爽やかな笑顔をじっと見つめた。

 オレンジ色の夕日が額の汗をキラキラと輝かせている。達成感に溢れた、清々しい香織の顔を見つめていたら、不意に涙が込み上げて来た。涙は見る見るうちに溜っていき、やがて溢れて零れ落ちる。渚は涙を手で拭い、鼻を啜った。

 それに気付いた香織は、「あれ、泣いているの? なんで?」、と渚の顔を指で差して、不思議そうに笑う。

 渚は、涙が溢れ出てくる事に困惑しながら、少し膨れたような顔をして香織を睨んだ。

 「分からないよ…… 勝手に涙が出てきちゃうんだもん……」

 香織は、呆れたように渚を見つめ、じんわりと頬を綻ばせると、腕を渚の肩に回して肩を組んで歩き始めた。

 「お腹空いちゃったなぁ…… 夕飯は何?」

 「バーベキューだよ」

 「うわぁ、楽しみ」

 「早くシャワー浴びちゃいなよ……」

 心の扉を開け放っている渚に、香織はすんなりと溶け込んだ。渚の涙は治まり、嬉しそうに笑っている。

 傍らに居た健一は二人の様子を微笑ましく見つめていた。香織の直向な姿を見て、渚は感情を揺さぶられたに違いない。香織の存在が、渚に勇気を与えている。これが、渚の迷いを吹っ切る切っ掛けになってくれれば…… 健一はそう願った。


 「おじさん、まだ入っちゃ駄目だよ。香織ちゃんが着替えているんだから……」

 シャワーを浴び終えた香織が、スポーツブラに短パン姿でリビングへ出てくると、渚が叫んだ。

 「大丈夫だよ、見られて困る格好じゃないから……」

 香織は頭をバスタオルで拭きながら叫んだ。

 渚と香織は、今日出会ったばかりなのに、まるで幼馴染であるかのように親しく接している。

 年齢では、香織は渚のひとつ上になる。渚は香織ちゃん、と呼び、香織は渚、と呼び捨てにした。

 見掛けの可愛らしさに反して香織は竹を割ったように歯切れが良く、しなやかな身のこなしを見せる一方で、逞しさを兼ね備えている。

 渚が求めている理想の女性像が香織とぴったり重なり、そのうえ年上と言う事もあって、渚は香織を姉のように慕い始めた。香織のようなタイプの女性と、これまでに接した事がなかったので新鮮だった、というのもあるかもしれない。見掛けが美しく、それでいて強い。華奢な身体のどこに逞しい体力と、強い精神力が秘められているのか、渚は香織を羨望の眼差しで見つめた。


 渚と健一は、テラスに出て炭火を熾し始めた。

 渚は、健一の手際の良さに目を見張っている。

 健一は、とても器用な人だ。カニの殻を剥くときもそうだったし、今もそうだ。焚き付け用の薪を器用に割り、そつなく火を熾す。動きに無駄なところがなく、流れるように作業を進めていく。

 渚は、健一のそんな姿に魅力を感じた。そこには亡き父親を慕うような感情も含まれていると思うが、それだけではなく、男として素敵だと思うのだ。

 健一には、優しさ、気遣い、それに包容力がある。歳の差はあるけれど、こんな人ならば、恋愛対象にだってなると思った。健一の仕草に視線を送っていると、ふと胸が高鳴っている事に気付く。

 憧れに似た存在の香織と、魅力的な男性である健一、そんな二人と過ごす時間が楽しくて、渚は鼻唄を歌いながら、燃え始めた炭をうちわで扇ぐ。しかし健一が額の汗を拭い、ふーっと溜息をついた瞬間、健一が纏っている陰の部分が浮かび上がり、心に湿った空気が流れ込んできた。

 『こんなに素敵な人が何故、死のうとしていたのか……』

 渚は健一の顔をじっと見つめ、その頭の中にある闇の部分が何なのかを想像しようとした。

 しかし、いくら健一の顔を見つめてみても、何も浮かばない。

 それでも真剣な眼差しで作業をする健一の身体から、何となく陰の部分が伝わる気がした。

 それは言葉では言い表す事ができない、何日間か一緒に過ごしてきた渚にしか分からない空気感のようなものだ、と思う。この旅が終わるまでに、健一の陰に光を当てる事が出来ないだろうか、渚は健一をじっと見つめた。

 突然、香織がサッシを開けてテラスに顔を出した。

 「ごめんね、お手伝いできなくて……」

 香織は、申し訳無さそうに小さな声で言う。

 「いいよ、香織ちゃんは疲れているんだから、ゆっくり休んで」

 渚が微笑みかけると、香織は苦笑いを浮かべ、「違うの…… 疲れているとかじゃないんだ。わたし弱視だから暗い所が見えないの……」、とさらりと話した。

 それは深刻な口ぶりではなく、些細な隠し事を打ち明けるような言い方だった。

 しかし、渚は眉間に皺を寄せ、只事では無い、と言った雰囲気を曝け出す。

 「えっ、見えないって、どういう事?」

 渚がきつめの言い方をすると、香織は目を細めて、テラスに視線を漂わせた。

 「うーん、テラスに人影が二つあるのは何となく分かるの、でも、どちらが渚かは分からない」

 香織は、渚に向かって話しているつもりだが、二人の視線は重ならない……

 渚の心に突然、暗い影が拡がり始めた。

 「本当に見えないの? 私、ここにいるんだよ」

 「声がするから、分かるよ。でも、顔が見えないの」

 香織は薄っすらと笑みを浮かべた。

 「それって大変な事じゃない…… どうして言ってくれなかったの。そんなんで、走って大丈夫なの?」

 渚は、香織を睨むように見つめたが、香織にその視線は届いていない。

 「明るければ、何となく見えるからね……」

 香織が笑みを浮かべて話すと、渚は、むっつりと黙り込んでしまう。

 強くて美しい、完璧な女性像だった香織に、重い障害があった事がショックだったのだ。

 渚の頭の中には色んな事が浮かんできたが、うまく言葉を繋ぐ事が出来ず、どう語り掛けたら良いのか整理する事ができずにいた。渚の沈黙が、その場の空気を重くしている。

 「香織ちゃん、部屋の中でゆっくり待っててね…… 焼けたら持っていくから。部屋の中で食べよう!」

 健一は、わざと明るく話し掛け、重たい空気を吹き飛ばそうとした。

 「ごめんなさいね、気を使わせてしまって……」

 香織は声がした方角へ顔を向けて話し、苦笑いを浮かべた。

 「いいの、いいの、外は冷えてきたし、虫も結構いるから」

 健一は、努めて明るく振舞う。

 「あっ、そうそう、冷蔵庫にビールが冷えているから、先にやって」

 健一が言うと、「遠慮なく頂きます」、と香織は嬉しそうに笑った。

 「お酒なんか飲んで、大丈夫なの?」

 会話から取り残されてしまった渚がしょんぼりした顔で言うと、「大丈夫、大丈夫、二日酔いにならなければね……」、と香織は明るい笑顔を振り撒いた。

香織は部屋に入り、冷蔵庫から取ってきた缶ビールを床に置き片手でプルタブを起こすと、胡坐をかきながら荷物の整理を始めた。

 香織の後から部屋に入った渚は、その様子を浮かない顔で見つめる。香織の明るさと、沈みきっている自分の心が噛み合わず、それを解消する事ができない自分がもどかしいのだ。

 渚は、香織が障害を抱えていた、という事実を受け止めきれず、混乱している。せめて深刻な障害を抱えているのなら、苦労しているけど頑張っているんだ、という気概でも見せてくれれば、まだ心の整理がつけられそうな気がしたが、香織はそんな事をおくびにも出さず、平然としている。『香織はどうして平気でいられるんだろう』、そう思ったら、何故か苛立ってきた。

 健一が、焼きあがった肉と野菜をアルミの大皿に盛り付けて部屋に運び込むと、渚は香織の隣にドカッと腰を下ろした。健一は二人の前に座る。

 渚の態度は余所余所しい。さっきまでは親しく接していたのに、今は隣に座っていると言うのに不自然な距離が置かれている。

 「香織ちゃん、いつから視力が落ちたの?」

 泣きそうな顔をした渚が、声を震わせながら聞いた。

 「うーん、三年くらい前かな。最初は暗くなると見えづらいなぁって感じだったんだけど、ある時を境に視野が狭くなり始めて、最近は視力もかなり落ちているの……」

 香織は、他人事の様に言う。

 「そんな状態で、北海道縦断なんて危ないよ…… ぜったい無茶だよ」

 渚は声を荒げた。

 「危ないか、危なくないか、って言ったら、危ないよね。だけど、この挑戦は、やってみたかったの、ずっと前からね。なかなか走力に自信が持てなくて、先送りにしていたんだけど、そろそろ行動に移さなきゃなって……」

 笑みを浮かべながら淡々と話す香織に、渚は掛ける言葉を無くした。

 「この先、さらに視力が落ちていったら、一人で走れなくなっちゃうかもしれないでしょ。だったら、やれる事は今のうちにやっておきたいなって思ったの。それにさぁ、挑戦したから渚と出会えた訳だし……」

 渚は上目遣いで、香織の顔を見つめる。その顔は相変わらず明るい。強がっている訳でも無く、投げやりになっている訳でもなく、ごく自然に話す香織の目が、何かを優しく訴えかけているように思えた。

 やれる事をやっておきたい、と言う気持ちが、渚には少し分かる気がした。状況は違うが、大きな不安を抱えている、という点では同じだからだ。

 「香織ちゃん、強いね……」

 渚がボソリと呟いた。

 「強くなんかないよ。私だって毎日不安だよ…… でもね、視力が落ちて、たとえ見えなくなったとしても、生きていかなければいけないでしょ。見えないからって、何もしなくていいって事にはならないし、今までやって来た事を、やってはいけないって事にもならないと思うの。目が見えなくなっても、生きるために必要な事はやらなきゃいけないし、好きな事はやり続けたい。ただ、それだけだよ……」

 肩の力を抜いて、ふわーっと話す香織に、渚は心を揺さぶられた。

 「香織ちゃん……」

 渚は零れ落ちる涙を拭う事もせず、香織に抱きついた。

 「何で、渚が泣くのよ…… 泣くなら、私のほうでしょ……」

 香織は笑いながら渚を抱きしめた。香織の目にも光るものが浮かぶ。

 「わたしね、もうすぐ手術を受けるの……」

 渚は、香織の胸の中で自分の事を話し始めた。

 悪性脳腫瘍の事、身に起きている異変、仕事の事や、夢を諦めようとしている事…… 包み隠す事無く全て語った。今まで健一に言わなかった心の不安も打ち明けた。

 「毎晩、毎晩、不安で眠れないんだ…… 明日の朝はやって来るんだろうか、手術の日が訪れたら、もう目覚める事は無いんじゃないかって…… そんな事を考え出すと、眠るのが怖いの」

 渚の声は消えてしまいそうほど、か弱い。

 ポツリポツリ、と話す渚の頭を香織は撫でた。

 「私も同じだよ…… 眠ってしまったら、もう何も見えなくなっちゃうんじゃないかって、毎晩恐怖に襲われるよ。ずーっとそんな夜を越えてきたし、これからも越えて行かなきゃいけないんだと思う。でも仕方ないんだよね…… 辛い思いをした後には、きっと楽しい事があると信じてやり過ごすしかないんだ。走っているとね、辛い時が沢山あるの、でも辛い時ばかりじゃないから我慢できるんだ。我慢して走り続けていれば、必ず楽になる時が来るからね……」

 香織がひと言話す度に、渚の目には涙が湧いて来て、ポロポロと零れ落ちる。

 「仕方ないじゃん、なっちゃった事はさぁ…… 誰が悪いって訳でもないしね。今、出来る事をするしかないんだよ。渚は大丈夫、手術はきっと成功する。そう信じようよ! 私は信じているよ。そうだ、手術が成功したら一緒に走ろう、私が教えてあげる。それで、もしも私の視力が失われたら、その時は私の目になって伴走してよ……」

 香織は笑いながら渚の肩を叩いた。

 「香織ちゃん……」

 渚の胸の中は色んな思いで一杯だった。話したい事が沢山ある筈なのに、言葉が何も出てこず、代わりに大粒の涙を沢山流した。散々泣いて、泣きつくした後、突然笑い出した。

 香織も一緒になって笑った。

 二人のやり取りを見ていた健一の胸は、熱くなっていた。

 重い障害を抱えて生きていく香織と、立ちはだかる壁にぶつかって行く渚が、健一の心に火を点けた。自分よりもずっと若い二人が、試練に立ち向かって行く姿を目にして、このままでいい筈が無いと思った。二人の姿を見て、逃げ出す、という選択肢は小さく萎み、やがて頭の中から消えた。

 その後、三人の宴は、笑いの場に変わっていく。

 香織は、ここまでの道程で起きた出来事を、楽しげに話した。

 キタキツネの親子が現れて、最初は可愛いなぁ、と思っていたのだけど、振り返るとずっと着いてきていて、怖くなってダッシュで逃げた話しや、峠を越えようとした時に、茂みからガサガサ、と言う音が聞えたので、熊かと思って隠れたら、ガニ股のおじさんがファスナーを上げながら現れた話し、いつまで走ってもトイレが無くて、仕方がないから草むらに入って用を足した話し…… 香織は大げさな身振り手振りで笑いを誘った。

 渚も、知床峠で山から現れた廃屋ライターの話しをした。髪の毛が逆立っていた事や、健一がムッとしていた事、それに知床開拓の話しも加えた。キャンピングカーで旅をしている老夫婦の話もした。宗谷岬で自殺しようとしている人を止めた話しもしたが、それが健一である事は言わなかった。健一が、渚に目配せをしたからだ。

 渚も、健一も、涙が出そうになるほど笑った。この場に居ない人が聞いたところで、面白くは無い話なのだろうが、何を話しても笑える雰囲気だった。

 香織は缶ビールを三本空けた。短パン姿で胡坐をかく香織に、渚はバスタオルを掛けようとしたが、香織はそれを放り投げて笑った。香織にからかわれて不服そうに頬を膨らませた渚も、声を出してお腹の底から笑った。声を出して笑うことなんて殆ど無かった健一も、酒に酔ったせいか身体を捩じらせて笑った。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

 散々笑い話をした挙句、突然、香織はベッドに潜り込んだ。

 「明日の朝、出発が早いから、先に寝るね……」

 そう言うと、さっきまでの格好でそのまま毛布を被り、スヤスヤと寝息を立てた。

 その様子を見ていた渚と健一は、見つめ合って微笑んだ。

 さきほどまでの賑わいが消え、部屋には静けさが漂い、コテージの外からは、キューンというシカの甲高い鳴き声が聞えた。静まり返った部屋の中で、健一が残っていた缶ビールを傾けると、渚は何か言いたそうな目をして、じっと健一を見つめた。

 「この旅、終わりにしようと思うの……」

 突然言い出した渚の声は、少し震えている。

 「そうか、覚悟が出来たんだね」

 「うん、もうこれ以上逃げている訳にいかないしね。実を言うとね、一週間後に入院する事が決まっているの。タイムリミットが迫っているんだ……」

 「そっか…… この旅が終わるのは寂しいけど、前に進むしかないもんな」

 健一はアルミの皿に乗っている焦げた肉の塊を見つめて言った。

 「明日の夜が最後…… 羽幌という町で花火大会があるの。それをこの旅の締めくくりにしようかなって。ラストに花火大会なんて素敵でしょ」

 別れを仄めかす言葉が切なく聞え、健一の心は微かに痛んだ。

 「分かった…… それじゃぁ、俺の話しをしないといけないな…… 話していいかな?」

 健一が姿勢を正すと、「聞かせて!」、と渚も背筋を伸ばす。

 健一は一瞬微笑み、すぐに真面目な顔になるとテーブルの上に肘をつき、両手を目の前で組んで、伏目がちに話し始めた。

 「実はね、ある政治家の汚職問題に関係しているんだ……」

 健一は、宗谷岬で自殺をするに至った一部始終を語った。

 剛田に罪を被るように言われた事を話した時、渚は目を充血させて、唇をわなわなと震わせ、怒りを露わにした。「何故、そんな無茶な命令を呑んでしまったのか」、と健一に詰め寄ったが、健一は頬を僅かに歪めて、小さく頷くばかりで何も答えようとしない。

 渚は、健一と剛田の関係を理解する事が出来なかった。いくら信用していたとは言え、犯した罪を被れ、と言われて、それを受け入れて、命を絶とうとするなんてどうにかしている。今どきそんな人間関係があるものなのだろうか……

 渚は苛立った。しかし苛立てば苛立つほど、深い沼に沈み込むような悲しさに襲われる。

 渚は、目の前にいる健一が急に哀れに思えてきた。信じていた者に裏切られ、事もあろうか裏切った者を守る為に、自らの命を絶とうとする、なんて悲しい人なのだ。そう思ったら健一に話しかける事も、真っ直ぐ見る事も出来なくなった。

 健一の話しが途絶えると、二人の間には沈黙が漂った。

 渚は俯いたまま、健一の気配を感じている。健一が話し続けてくれる事を願い、湧き上がってくる怒りや悲しみを必死に堪えた。窓の外の虫の声や、冷蔵庫の音がやけに大きく聞えた。長い沈黙が続き、健一の溜息が聞えた後、沈黙は破られる。

 「俺がバカだったんだ……」

 健一が再び、話し始めた。

 「俺は、剛田に依存していたんだ、剛田に付いていけば、幸せになれると思い込んでいた。彼に裏切られた時、俺の心は空っぽになった。幸せになる手段を失って絶望したんだ。もうこれまでのような生活は続けられない、家族を守る事も出来ない、命を絶てば全てが終わって楽になれる…… そう思ったら他の事なんて何も考えられなくなったよ…… 君と出逢うまではね」

 渚は、沈んでいた健一の気配が俄かに明るくなった気がした。視線を上げると、微かな笑みを浮かべているように見える。

 「それで、どうするの?」

 渚が呟くと、悪あがきしてみるよ、と健一は唇に力を込めた。

 健一は、真実を打ち明ける覚悟を口にした。

 『代議士の秘書が賄賂を受け取って逃亡』、と言う事件は、新聞やテレビを賑わすニュースになっている。剛田は秘書が犯した罪の責任を取って議員辞職した。辞職した上で、次の選挙で信を問い、再起を図ると宣言している。事件当初は、どん底に落ちていたイメージも、この剛田の決断によって巻き返しが図られている。

 相手は剛田だ、秘書が独断でやった、という証拠を捏造しているに違いない。それをひっくり返す事がどれほど大変か、健一は良く分かっている。でも二十年以上秘書をやってきたから分かる、剛田の弱点がある。

 「剛田は俺の事を信用している。忠誠心の強さを信じて、もうこの世にいないと思っているに違いない。このままなら剛田が捏造した証拠が真実とされるが、俺が行動を起こせば、何かが変わるかも……」

 健一の目に光が差した。

 「俺が出頭したら、何かを起こせる気がするんだ。巨大な敵に立ち向かうのは怖いし、どんな目に遭わされるのか不安だけど…… 一度は死んだ身だから……」

健一が苦笑いすると、渚は、無理矢理に笑顔を作った。

 「おじさん……」

 渚の目から一筋の涙が零れた。

 健一は、渚の涙を親指で拭う。

 「この旅も、終わるんだな……」

 渚の瞳をじっと見つめた。その瞳には自分の姿が、くっきりと映っている。

 渚は、にこやかな顔を繕って、健一を見つめ返した。

 「この旅、楽しかったでしょ?」

 「楽しかったよ、どこへ行くかじゃなく、誰と会うか…… そんな旅、初めてだったよ」

 「私も楽しかった、もっと沢山の人と会いたいな…… でも続きは、またいつかだね」

 渚の視線が遠くを彷徨う。

 「旅の続き、いつか再開したいな」

 この旅が始まってから健一は何ひとつ希望する事を言わなかった。

 そんな健一の口から漏れたこの一言が嬉しくて、渚は満面の笑みを湛えた。

 「しようよ! 必ずね」

 渚の笑顔の中には楽しみだけではなく、複雑な感情が散りばめられている、健一はそんな気がした。


 その晩、ベッドに入った健一はなかなか寝付けなかった。

 剛田の不正を暴くという覚悟を口にしたが、果たして上手く行くのだろうか……

 その事を考え始めると、頭が覚醒してしまい、全く眠気が起こらない。

 具体的にどうすべきかと考えると、何をどうやっても上手く行かない気がした。世間に姿を現し、身柄を拘束され、厳しい尋問を受ける。真実を打ち明けたところで、捏造された証拠を揺るがすには至らず、罪を認めようとしない往生際の悪い犯罪者としてマスコミに扱われ、結局は懲役を受ける羽目になる。刑務所に入る事になるのだろうか、犯罪者になった元夫を妻はどう思い、娘はどんな目をするのだろう。両親が他界しているのが、せめてもの救いか……

 スポットライトの中心で頭を抱えて蹲っている姿を、暗闇の中に潜んでいる大勢の人に見つめられている、冷たく蔑むような目で、そんな気分になった。

 逃げるという選択肢はないが、どうやって生きるかを突き詰めると、大きな不安に苛まれる。やはり、俺の居場所はないのか…… やはり生きる事は死ぬ事よりも難しいのか……

 夢とも現実とも区別がつかないモヤモヤした時を過ごし、気づけば鳥の囀り声が聞え、窓の外が白み始めていた。これから、こんな夜をあと何回越せば良いのだろう。布団を頭から被ろうとすると、ドアの軋む音が聞えた。

 頭を持ち上げて、そちらへ視線を向けると、大きなザックを背負った香織と目が合った。

 「おはよう」

 声を潜めて言うと、香織はペロッと舌を出して、苦笑いした。

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