12 富良野

 コテージは朝霧に包まれていた。

 「香織ちゃん、くれぐれも無理しないでね」

 渚はじんわりと浮かんできた涙を零すまいと必死に堪えた。香織の顔を見つめていると、何故だか涙が湧いてくる。障害を抱えながらも直向きに生きようとする逞しさ、そして健気な姿が琴線に触れるのだ。

 香織は渚の涙を見ると、もらい泣きしそうになる。それが嫌だったから、こっそりと起きて準備を済ませていた。二人を起こさずに黙って出発しようとしたのだが、ドアを開ける時にギシギシ、というけたたましい音が鳴ってしまい、健一を起こしてしまった。

 「渚は泣きべそだなぁ、イチイチ涙を流さなくていいから……」

 香織は笑顔を浮かべて、感情を押し込んだ。

 健一が、「香織ちゃん、頑張ってね」、とニコリと笑うと、「健一さんも、頑張ってね」、と香織は口元をきゅっと引き結んで言った。

 健一が一瞬、戸惑った顔をすると、香織は、その目をじっと見つめ、「昨日、話しているのが聞こえちゃったんだ……」、と小声で言い、微かな笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。

 「私が言うのは生意気だけど、どんなに大変な事だって、目の前の小さな事の積み重ねじゃないかなって思うの…… 襟裳岬を出発したとき、宗谷岬は遠すぎて、想像する事すら出来なかったけど、一歩踏み出す毎に、確実にゴールは近づいているんだよね。一歩踏み出す事は誰だって出来るじゃない、それを繰り返して行ったら、必ず辿り着けると思うんだ……」

 力強い香織の言葉は、乾いていた健一の心にさらりと染み込み、潤いを与えた。

 香織の瞳を見つめ返した健一は、笑顔で大きく頷いた。


 「行ってらっしゃい!」

 遠ざかっていく背中を見つめながら、渚が大きな声で送り出すと、香織は振り返ることなく、拳を高々と突き上げた。

 朝霧に包まれたコテージ前から喧騒が消え、森の中から聞えてくる鳥の鳴き声がやけに大きく感じる。

 香織が居なくなった途端に、その存在感の大きさが際立った。

 「行っちゃった……」

 渚はそれきり何も言わなくなった。香織に対する色んな思いが込み上げてきて、喉を詰まらせる。

 香織の後ろ姿が見えなくなっても、渚はいつまでも立ち尽くしていた。そんな渚の両肩に健一は手を置き、「朝ごはんを作ろう」、と言って背中を押した。

 コテージに戻った二人は、テラスで朝食とりながら、地図を眺めた。

 渚が焼いた目玉焼きと、健一が作ったホットサンド、二人は食事をしながら、この先のルートを確認している。

 かなやま湖周辺は、少し標高が高いせいか、真夏でも朝晩は爽やかで過ごしやすい。

 木漏れ日が降り注ぎ、涼やかな風が肌を撫で、コーヒーの香りに嗅覚をくすぐられる。そんな、ゆるやかな時間が流れていた。

 コーヒーカップ片手に地図上の行き先を指で追っていた健一が、その指を止めた。

 脇道へ逸れなければ、富良野までの道はほぼ一本で、それは宗谷岬を目指している香織が通る道と同じになる事に気づいたのだ。これから出発の準備を整えて走り出せば、富良野までに香織に追いつく。その事を健一が言い出すと、渚は食べかけのホットサンドを慌てて口に押し込んだ。


 渚と健一がコテージを後にして、富良野へ向かって車を走らせていると、国道38号線沿いの布部駅を少し過ぎたあたりで、歩道の上を走る見覚えのある後姿を発見した、香織だ。

 健一がスピードを落としながら車を路肩に寄せると、渚は助手席の窓を開けて、「香織ちゃん、久しぶり……」、と笑いながら声を掛けた。

 すると香織は少し面倒くさそうに笑って、小さく右手を挙げる。

 「富良野まで乗せて行ってあげようか……」

 渚がからかうような言い方をすると、香織はプイッ、と他所を向き、親指を下に向けた。

 昨日の夜、コテージで宗谷岬までの残り距離を計算したら325kmあった。これを香織は四日間で走破しようとしている。

 昨晩の底抜けに陽気だった香織は、ストイックなアスリートに変身していて、今は関わってほしく無い、という空気を醸し出していた。

 いつまでも併走している車に、香織は苦笑いしながら、あっちへ行け、という仕草をした。

 それを見た健一がクラクションを軽く鳴らし、アクセルを踏み込むと、あっという間に香織の姿は遠ざかり、小さくなった。

 渚は窓から顔を出して振り返り、大きく手を振った。

 それに気づいた香織は右手の親指を上に向けたが、既に渚の目からは、その仕草が見えないほど小さくなっていた。渚は香織の無事を祈った。同時に自らの無事も祈り、いつか香織の後日談が聞ける日を待ち望んだ、その時は健一も一緒に、それが渚の願いだった。


 渚と健一は、富良野の北の峰ゲレンデの近くにある喫茶店で、狩野瑞江と待ち合わせの約束をしている。狩野瑞江というのは、釧路湿原のカヌーガイド、八戸に紹介してもらった女性だ。

 待ち合わせの喫茶店は、太い丸太がしっかりと組まれたログハウスで、外見は、長い年月を経た趣きがあり、威風堂々とした佇まいだが、店内から見える丸太はピカピカに磨かれていて、古さを全く感じさせない美しさがある。

 渚と健一は、窓際の席で向かい合って座った。

 二人がコーヒーを注文すると、女性店主が人懐っこい笑顔を浮かべながら運んで来た。

 カウンター席に常連っぽい客が一人いるだけで、店内は静けさが漂っている。

 渚がコーヒーに口をつけると、カラン、コロンという音が聞えてきた。入り口の方へ目を向けると、ネイビーの登山帽に、モスグリーンの長靴を履いた若い女性が立っている。

 「瑞江ちゃん、いらっしゃい!」

 店主が気さくに声を掛けると、カウンター席に座っていた老人も、「おー瑞江、久しぶり」、と親しげに言った。

 狩野瑞江はカウンターのほうへ向かって会釈すると、店内を見回して渚の視線に気づく。

 微笑みながら瑞江が頭を下げると、ほぼ同時に渚も頭を下げた。

 「狩野瑞江と申します」

 瑞江はスラリとしていて、笑うと笑窪が出来るキュートで、明るい雰囲気を持った女性だった。姿勢が良いせいか気高さも感じられる。

 「高田渚です」

 渚が親しみを込めて手を差し出すと、瑞江はすかさず両手で、その手を握った。

 健一も二人に倣って、挨拶を交わす。

 「瑞江ちゃん、コーヒーでいいかしら?」

 「はい、お願いします」

 瑞江の声は、透き通っていて良く響く。

 瑞江は渚の隣に腰掛けた。

 「えーっと、何からお話しましょうか?」

 瑞江は、少し戸惑うような曖昧な笑みを浮かべた。

 「八戸さんからお聞きしたんですけど、壊された自然を元に戻す活動をされているとか……」

 渚は、瑞江の反応を探るように控えめな声で話して、頬を緩めた。

 「分かりました。それでは、私がここで何をしているか、お話しますね……」

 瑞江は背筋をピンと伸ばして話し始めた。

 狩野瑞江は、富良野の北の峰というエリアを拠点にしたNPO法人で働いている。壊されてしまった自然を元の森に戻す活動をしており、森の中に落ちている木の実や、実生から苗木を育て、それを植樹して森を再生していく作業を行っている。スタッフ自らが植樹する事もあれば、参加者を募って、植樹体験のイベントを行う事もある。瑞江は、イベントの際はインストラクターとして指導する。その発声方法が身についているから、話し声が聞き取りやすいのだ、と渚は思った。

 「瑞江さんは、元々、富良野の方ですか?」

 ひと通り話を聞き終えた渚は、なぜ瑞江が富良野の自然復興に力を注いでいるのか、その理由が聞きたくて尋ねた。

 「いえ、出身は宮城県の女川というところです」

 健一はピクっと反応した。女川と言う地名に、聞き覚えがあったからだ。

 それは、剛田の秘書をしていた時に訪れた事がある場所だった。

 「女川って、震災の時に大きな被害を受けたところですよね?」

 健一は黙っていられず、思わず口を挟んだ。

 「はい、あの震災で両親と弟を失いました」

 瑞江は、薄っすらと笑みを浮かべたものの、その瞳には微かな悲しさが漂う。

 健一は触れてはいけない事に触れてしまったような気がして、顔を歪めた。

 しかし、瑞江は気に掛ける事無く、震災の事を淡々と語り始めた。

 東日本大震災……

 それは、平成二十三年に東北地方の太平洋沖で発生した、マグニチュード9.0、最も揺れの激しかった宮城県では震度七を観測するという大地震だった。それに伴って広範囲で壊滅的な被害が発生し、この地震によって発生した巨大な津波は、一万六千人もの命を奪う。

 彼女は、この震災で死亡率がもっとも高かったと言われている、宮城県の女川町で生まれた。

 当時彼女は高校二年生で、両親、弟、祖母と港の近くで暮らしていたという。

 地震が発生したとき、彼女は下校途中だった。仲の良い友達といつものように三人で歩いていると、突然、激しい揺れに見舞われる。大きな地震が起きたら高台へ逃げろ、というのが教訓になっていたので、友達と走って石段を昇り、神社の境内へと駆け上がった。先に避難していた人、後からやって来る人、高台にある神社には多くの人が詰め寄せた。しかしこの時はまだ、迫り来る危機の大きさを誰も想像していない。

 地震から三十分後、不気味な灰色をした山のような津波が、猛烈な勢いで押し寄せてきた。

 怪物と化した波は濁流となり、地上のあらゆる物を押し流し、地鳴りのような音を立てて、次々と建物を飲み込んでいく。周囲には、家がぶつかり合い、壊れる音が響いた。それは断末魔の叫び声のように聞えた。

彼女は、あまりにも現実離れしたその光景に圧倒され、友達と手を繋いで眼下の惨状を無言で眺めた。何が起きていて、これからどうなるのか全く考えが及ばず、口も身体も動かなかったのだ。

 彼女が、真の恐怖と絶望に見舞われたのは、微かに見える自宅のほうへ視線を移した瞬間だった。

 父と母と弟、それに祖母と暮らしていた家に襲い掛かる津波、たくさんの思い出が詰まった家は、一瞬のうちに押し流され、飲み込まれ、跡形も無く消えていく。

 彼女は、呆然とその様子を見つめ、その場にしゃがみ込んで意識を失った。

 そして津波は彼女の家や思い出の品だけでなく、かけがえの無い命まで奪い去る。

 その時、祖母はたまたま出かけていて避難所に逃れる事ができたが、翌日、母と弟の遺体が発見されると、一週間後には父の変わり果てた姿と対面する事になる。

 瑞江はこの震災で、大切な家族と多くの友人、そして住んでいた町を失った。

 過去の辛い思い出を、まるで他人事の様に話す瑞江の隣で、渚は息をするのも忘れてしまいそうなほど、強い衝撃を受けていた。

都内に住んでいた渚にとっても、東日本大震災は記憶に新しい、激しい揺れと停電、公共交通機関が麻痺し、大変な事が起きてしまった、という覚えは今でも残っている。

 でも、被害に関する多くの情報はメディアを通じてのものだったので、テレビで目にした津波の様子や、原子力発電所の爆発事故は、どことなく遠くで起きている出来事、と言う感じがして、身に迫るような危機感はなかった。

 瑞江の生の声を聞いて、渚は目を背けたくなるほどの悲しさに襲われた。

 同世代の瑞江が震災の真っ只中で、どんな思いで生きてきたかを想像すると、今、目の前で話しをしている瑞江の存在が奇跡に思えた。あの時、生き残った者と死んでいった者の間に、境界線など無かった筈だ。想像を絶する世界を目の当りにした瑞江の瞳を見つめると、身体の奥が震えてくる。

 健一は遠い記憶を遡った。

 震災から暫く経ち、剛田と共に被災地を訪問して、ボランティア活動に加わった日の事だ。

 至る所に瓦礫の山が積みあがり、倒壊した建物と置き去りになった車、打ち上げられた船が、そこかしこに見受けられ、とても数ヶ月前、この町が機能していたとは思えないような惨状が広がっていた。

 それは映画のスクリーンの中のワンシーンを観ているようで、俄かには現実として受け止められなかった。何から手をつければ元に戻せるのか、途方に暮れた記憶が鮮明に蘇ってくる。

 そんな中、民家の中から積もった泥を掻き出すボランティアスタッフの姿が目に留まる。彼らは汗まみれになりながら、スコップで一杯ずつ泥を掻き、使えそうな物があれば、水で洗い流して集めていた。一軒の家に何名もの人が入って作業する姿を目の当りにして、こんな事をしていて、いつになったら終わるのだ、自然の猛威の前では、人間の力はこうも無力なのか、と絶望的な気持ちになった。

 あの時、健一は剛田と共にボランティア作業に加わった。

 視察と言う名目で現地に入ったのだが、スーツを着て、現場を眺めている事が恥ずかしくなり、上着を脱ぎ捨て、ネクタイを頭に巻いて、泥だらけになりながら、作業に加わった。お互いの顔に泥がついているのを見て笑い合った。あの時の剛田は、間違いなく政治家として熱い情熱を持っていた。

 そんな思い出も、今となっては霞んでしまう。もしかしたらマスコミ向けのアピールだったのではないか、そんな勘繰りをしたくなる程だ。

 瑞江が富良野へやって来た切掛けは、ボランティアスタッフとの出会いだったそうだ。

 両親と弟、それに多くの友人を失い、生活の場だった町が消え、失意のどん底に陥った瑞江は、一人のボランティアによって救われた。

 『人の手で作られた物は、必ず元に戻す事ができる』

 瑞江にそう言ったのが、今、勤務しているNPO法人の主宰者だった。

 死んでしまいたい、と言う瑞江に、どんな状況に陥ろうとも、やるべき事は必ずあるし、やるべき事をやって生きていけば、必ず必要とされる時が来る。

 彼はそう言って、瑞江を励ました。

 『君は生かされているのだから、その命を無駄にしてはいけない』

 そんな言葉が瑞江を奮い立たせた。家族や友人を失った喪失感は、そう簡単に拭い去れるものでは無かったが、生き残った自分が何をするか、どういう人生を送るかが、命を落とした者への弔いになると信じて、復興活動に力を注いだ。無我夢中で復興活動に加わり、悲しみの高校生活を乗り越えた瑞江は、卒業と共に富良野へやって来た。自然によって壊された街を、復興する活動をしてきた瑞江が、今は、人が壊した自然を、回復させる活動をしている。

 瑞江は、ここへやって来て、『人の手で作られた物は、必ず元に戻す事ができる』、という言葉の真意が分った気がした。街を元に戻すより、自然を元に戻す事のほうが難しい。いや難しいと言うよりも、遥かに時間が掛かるのだ。

 瑞江は、時に抑揚をつけ、それでいて熱くならずに丁寧に話しをした。

 「震災の経験を語り継いで行くのも、生かされた者の務めですから」、と言った時の瑞江の目は、想像を絶する試練を乗り越え、それを受け止めた者にしか出来ない穏やかな光を放っていた。

 二人は呼吸を忘れてしまいそうなほど、話に引き込まれた。そして話しを聞き終えて、溜息をつく。

 すると瑞江は突然、「植樹体験してみませんか?」、と笑窪を浮かべて、沈みがちだった雰囲気を明るくさせた。

 「自然の中に溶け込んで汗をかくと、気持ちがスッキリとしますよ」

 瑞江が曇りのない清らかな瞳で呼びかけると、「はい! やってみたいです」、と渚は思わず手を挙げた。

 店主とカウンター席の老人は、そのやり取りを聞いてニヤリと笑う。


 瑞江が作業をしているフィールドは、ログハウスから車で五分ほどのところにある。

 渚と健一は、瑞江が運転する軽トラックに先導して貰って、そのフィールドへやって来た。

 長靴と軍手、スコップを貸してもらい、植樹エリアに入って行くと、林と林の間にぽっかりと拓けた土地が現れた。元々、ゴルフ場として利用されていた場所だそうで、植樹するエリアは芝生と雑草で覆われている。

 その片隅には、ひざ丈ほどの鉢植えの苗がぎっしりと並べられている。色んな種類があるようで、葉っぱの形や、枝の太さは様々だ。瑞枝はその中から三本の苗を適当に選び、一輪車に乗せた。

 「この苗は、この辺りの森の中に落ちている木の実を発芽させたり、実生を採取して育てたものです。この山の生態系を壊さないように、山の中に自生している植物だけを植える事にしています」

 瑞枝は、このフィールドに入ってから、事あるごとに丁寧な説明をしていく。

渚と健一は、熱心に耳を傾けた。瑞江の話は、なるほど、と頷ける新鮮な事ばかりで、心地よい驚きの連続だった。

 苗の置かれていた場所から、芝生の上を少し移動すると、既に植樹が終わっているところが現れた。その傍に、瑞江は一輪車を止める。

 「それでは、ここに植樹をしましょう……」

 瑞江の指示に従って、二人は作業を進めた。

 マンホールの蓋くらいの大きさで芝生をはがし、コンクリートブロックくらいの深さの穴を掘り、紙の植木鉢に入った苗木を三本固めて寄せ植えする。紙の植木鉢は土の中に埋めてしまえば分解される性質なので、そのまま土に還る。苗木を三本寄せて植えるのは、厳しい自然環境を生き抜くために苗木同士が助け合う役割を果たすためだ。あとは、掘り出した土を覆い被せれば終わりなのだが、これがかなりの重労働になる。芝生をはがすだけでも想像以上に力がいるし、芝生の下の土は粘土質なので固くて重い、ひと堀するだけでも大変だ。この作業をゴルフ場の芝生エリア全てに行おうとしている。

 健一は、被災地のボランティア活動を思い出した。

 泥水に浸かってしまった家屋からスコップ一杯づつ泥を掻きだしたあの時の作業だ。あの時も先の見えない作業をしていると感じたが、それでも朧気ながらゴールは見えていた気がする。何年か先には、人々が生活する姿を、ぼんやり想像する事ができた。

 でも今、行っているこの作業のゴールは……

 大変な作業を積み重ね、何年か経てば、植樹活動は終わるのかもしれない。さらに何十年か経過すれば、植樹された苗木が成長して元の森に戻るのだろう。でも生きている間に、その姿を見ることは出来ないのではないか、と言われた……

 仮に、元に戻ったとしても、それが何になるのか、たった一つのゴルフ場を元の森に戻したところで地球環境には、何の効果も無いだろう。

 結果の見えないこの活動に、健一は虚しさを感じた。

 「狩野さん、この活動の素晴らしさは分かります。でも、この活動に意味があるのでしょうか?」

 健一は、少し遠慮がちに、感じていた疑問を投げかけた。

 渚は、一瞬驚いたような表情で健一の顔を見たが、すぐに視線を瑞江に移すと、二人の視線を集めた瑞江は、その質問を想定していたかのように、落ち着いて話し始めた。

 「仰りたい事は分かります。地球上には破壊されてしまった自然が沢山ある。今こうしている間にも一分間で東京ドーム二個分の自然が失われていると言われています。ごく僅かな土地を何十年も掛けて自然に戻したところで何になるのだ…… そういう事ですよね。そう言われる方は、沢山いらっしゃいます」

 健一は、小さく頷いた。

 瑞江は、健一の目から視線を外さずに真っ直ぐ見つめる。

 「この活動が、地球全体の自然環境に及ぼす効果なんて、無いに等しいでしょう。燃え広がる山火事に一滴の雫を落としているようなものです。でも、だからと言って、やらなくて良いという事にはならないと思うんです。出来るかどうかは抜きにして、破壊された自然を元に戻す、という活動は間違っていないと思います。その中で、私に出来る事が何かと考えたら、この活動ならば出来るなと……」

 熱を帯び始めた瑞江の話し方に、健一は次第に圧倒されていく。

 「もしかしたら、この活動を知って同じような事をしてくれたり、環境問題を意識してくれる人が増えたり…… それによって地球環境が少しでも改善されれば、それは素晴らしい事だし、それこそが私達が求めている最高の結果ですが、もしも何も変わらなかったとしても……」

 瑞江は、ひと呼吸置くと、語気を強めて話しを続けた。

 「何も変わらなかったとしても、この土地にしっかりと足を着け、信じた事をやり続ける事が、私の心の支えになるんです。自分の力で自然を元に戻す、そんな大それた事ではなく、この活動を通じて、私の心に刻まれていく事一つ一つが、私の宝物なんです」

 瑞江は少し照れ笑いを浮かべ、それまでのキリっとした表情を崩し、視線を苗木のほうへ向けた。

 「それに、地位や財産は奪われてしまう事があるけど、心の中にある宝物は、何が起きても奪われる事はないですからね、それと、私がこの世を去っても、育ててきた自然は残るだろうし、この活動に興味を持って下さった方達の心には、私達の思いが伝わって行くと思うんです」

 健一は、心地よい風が吹き抜けたのを感じた。一直線な瑞江の生き方に触れ、積み重なっていた澱を洗い流されたような気分になる。何かをやり遂げるには、目に見える結果だけではなく、自らの心に揺るぎない何かを刻んで行く事が必要なのだ、と気づかされハッとした。

 「瑞江さん、すごいですね…… 感動しました」

 健一は、瑞江の身体から眩しい光が放たれているように思えた。

 心の支え……

 健一は空いていたスペースに、最後のワンピースが填められた様な気分になった。

たとえ打ちのめされても、望んでいた結果が得られなくても、立ち向かう事が生きていく上で、心の支えになるのならば、やらなければならない。

 健一の胸の中に勇気が湧き、身体が震えだした。


 その後、瑞江は既に植樹されているエリアを案内した。

 一年前、二年前、三年前…… 植樹された時期ごとにエリアが分かれていて、植樹されてからの期間が長いところは、それなりに丈は高くなっているが、幹はまだ細くて頼りない。

 「どの木もまだ片手で握れる程の太さしかありません。でも順調に成長していけば、両腕で抱きしめても届かないほどの太さになる筈です。この子達が成長していく姿を想像すると、楽しくなってきます。何十年か経ったら、夏にはたくさんの葉が生い茂って空を覆い、大きな木陰を作ります。秋になったら辺りを覆いつくすほどの落ち葉の絨毯が重なり、冬になって雪に埋もれ、春になると落ち葉が分解されて、それが豊かな土壌になっていく。木の周りには虫や、鳥や、動物が集い、この木を頼りにしている無数の命が育まれる。そんな姿を想像すると、私の夢はどんどん広がっていきます。一本、一本の苗木が愛おしくて仕方ありません」

 瑞江は目を細めながら話をした。

 震災と言う悲劇を経験し、絶望を味わった瑞江の心は今、この活動を通じて満たされている。

 嬉しそうに話をする瑞江の横顔を見つめていた健一は、湧き出した涙が無視できない程増えていることに気付き、手の甲で涙を拭った。

  瑞江の言う通り、ここはまだ森と呼ぶには程遠い状態だ。一度、削り取られた土壌は栄養分が乏しく、そのうえ北海道は冬が長いので、樹木の成長が極端に遅いのだそうだ。

 『生きている間に、元の森の姿を見ることはできない』

 渚は、瑞江の言葉を実感した。

 「必ず、またここへ戻ってきます」

 瑞江との別れ際に、渚が言った。

 「私たちが植樹した苗木の成長を見守りたいので……」

 渚の目が輝いた。

 「是非、お越しください」

 瑞江は二人を笑顔で見送った。


 瑞江と別れた二人は、中富良野にある町営のラベンダー園にやってきた。

 小高い丘の芝生の上に腰を下ろして、目に鮮やかな紫色の斜面を見下ろした。

 爽やかな風がラベンダーの香りを二人の元へ運び、安らぎを与える。遠くへ視線を移すと、広大な富良野平野と雄大な十勝岳の絶景が、心の扉を全開にさせた。都会では見る事ができない大きな青空、そこへ浮かぶ真っ白な雲、大空と大地が生み出す壮大なキャンバスに、二人は息を飲んだ。

 しばらくの間、景色に心を奪われていた渚と健一は、示し合わせたかのように溜め息をついた。

 「なんだか、やられちゃったね……」

 疲労感を漂わせながら話す渚の顔には、満足げな笑みが浮かんでいる。

 「たしかに……」

 気だるそうに話す健一もにこやかだ。

 「世の中には、凄い人たちが沢山いるんだね……」

 「みんな、色んな物を背負って生きているんだな……」

 健一は芝生の上に仰向けに寝転ぶと、徐に口を開く。

 「起承転結って言葉があるだろ、俺はさぁ、もう『結』まで来たと思っていたんだ。俺の人生はもう終わりなんだってね。だけど、まだまだなんじゃないかって気がしてきた。だから七転び八起き、七転八倒して、その先の結末を迎える準備をしなきゃいけないんだな……」

 「私達は、まだまだこれからなんだね」

 横に並んで渚も寝転び、真上の空を見上げた。

 「これからだな……」

 眩しい太陽の光に、健一は目を細める。

 渚と健一は、この旅で出会った人たちの顔を空に思い浮かべ、心に刻まれた記憶を振り返った。

 この旅の終わりが近づき、二人は新たな旅へ足を踏み出そうとしている。

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