13 羽幌

 富良野を出発して、滝川から高速道路に乗り、留萌まで行くと日本海側に出る。

 宗谷岬を出発してから見えていた海は、ずっとオホーツク海だったので、北海道を東から西へ横断した事になる。

 富良野を出発したのが午後二時で、三時間余り車を走らせ、羽幌に到着したのは午後五時を少し過ぎていた。

 渚が移動中に電話で予約したホテルは、花火大会の会場になっているサンセットビーチまで歩いて十五分くらいのところにある。

 「おじさん、今晩の宿なんだけど、同じ部屋でもいいかな?」

 渚は電話をしながら、健一に尋ねた。

 「俺は構わないよ、君が嫌じゃなければ……」

 花火大会が開催される、という事で羽幌の町は賑わっており、満室のところが多く、ようやく和室が一部屋抑えられた、という状況だった。

 「最後の夜だから、朝まで語り明かしましょう……」

 渚が欠伸をしながら言うと、「もう眠そうじゃないか……」、と健一は笑った。

 最後の宿泊地を羽幌にしたのは、花火大会が開催される、という情報を知ったからだ。

 この旅のゴールである宗谷岬へ行くにも、ちょうど良い位置という事もある。

 宗谷岬を出発するときにクリアしていたオドメーターは、羽幌の宿に到着したとき1120kmと表示されていた。生きる事を諦めようとしていた男と、生きる為に越えなければならない試練を抱えている女の旅が、終わりに近づいている。

 ホテルで夕飯を食べながら、健一は、宗谷岬の事を思い出していた。

 これまで仕えてきた者を守るために、無実の罪を被って世を去る。それで、これまでの煩わしい思いが精算できるなら、それで良いと思っていた。信じてきた者に切り捨てられた屈辱を抱えたまま生き続けるなんて耐えられないと思ったからだ。でも今思えば、浅はかな考えだったと、胸に痛みが走る。潔さに酔っていただけではないかと、自らを疑いたくなるくらいだ。

 もしもあそこで渚と出会わなかったら、どうなっていたのだろう?

 本当にあのまま、宗谷岬から身を投げたのだろうか?

 僅か5日前の出来事が随分と昔のように思えてきた。

 渚と旅を始めて色んな人に出会い、色んな生き方に触れ、心を揺り動かされてきた。進むべき道は決まった。もう迷いはない。旅の終わりと共に、全てを打ち明ける。そこに、求める結果など存在しない。自らの信念を貫いて、全てを曝け出す。この身がどうなろうと構わない。全てが終わった時に自分の行動に誇りを持てれば、それで充分だ。そう思ったら晴れやかな気分になってきた。目の前の料理が美味い、渚の笑顔が微笑ましい、離れている家族が愛おしい、そう思えるだけで幸せな気分になれた。

 渚も宗谷岬の事を思い出していた。

 受けなければならない手術を目前に控え、その恐怖に耐えられなくなり、逃げ出すように旅に出た。

 手術を受けなければ、未来は開けないと分かっているのに、前に進む事で失ってしまうかもしれない現実に怯え、時間が止まる事を願った。

 このまま消えてしまいたい、と思ってやってきた最北の地で健一に出会った。何か同じ空気を吐き出しているように思えて、旅のパートナーに誘った。旅を始めて色んな人に会い、色んな生き方に触れ、心を揺り動かされてきた。覚悟は出来た、もう迷いはない。求めるべき結果が得られようが、得られまいが、手術が終わって意識が戻ったら、そこから新たな人生を歩めばよい。どんな状態に陥ろうとも、生き続けて行く事に変わりはないのだから……

 もしも命を落としたら…… それは考えても仕方のない事だ。

 今、この瞬間に幸せを感じられるように、きっと近い将来また、幸せを感じられる瞬間が訪れる筈だ。それさえ信じていれば、恐れるものなど何もない。

 食事を終えて、二人はサンセットビーチまで歩いた。

 「おじさん、手を繋ごうよ」

 渚は、健一の答えを待たずに手を握った。

 健一は渚の右手を握り返す。渚の手は少し汗ばんでいた。

 サンセットビーチには色とりどりのテントが張られており、見物客で溢れかえっていた。

 場内の雰囲気が一気に高まり、程なくして花火が打ち上げられた。

 赤、緑、黄、ピンク…… 大きな花が夜空に広がり、ドーンという音が遅れて轟く。

 打ちあがった花火は夜空だけではなく、鮮やかに海面も彩った。

 沖の船から投げ込まれた水中花火は、水平線に半円球の花を開く。

 会場は大きな歓声に包まれた。

 健一は渚の横顔を見つめた。

 刻々と変化する花火の色が、渚の顔を染めていく。

 空を見上げて、うっとりするような笑顔が瞼に焼きつく。迷いと不安が消え去った渚の顔は、美しく輝いていた。健一は、渚の無事を祈った。手術が成功し、いつかまたこの素敵な笑顔に会える日を待ち望んだ。

 「おじさん、もう大丈夫だよね」

 渚が花火を眺めながら呟いた。

 健一は言葉を返す替わりに、渚の手を強く握った。

 渚は健一の顔を見つめた。静かな笑みを湛え、眉間から皺が消えている。出会った頃は眉間に皺を寄せ、睨むような目つきをしていたが、とっても穏やかな顔をしている。そこに、これから巨大な敵に立ち向かうという気負いは感じられない。力みのない自然な姿で、全てを明らかにするつもりなのだろう。きりっと結んだ口元に意思の強さが感じられた。

 渚は、健一が潔白である事が証明される事を祈った。そしていつか、旅の続きが再開できる日を待ち望んだ。

 花火大会を締めくくるスターマインが次々に打ちあがると、浜辺は大歓声に包まれた。

 最後に大きな大輪の花が空に咲き、観衆の拍手とともに花火大会の終わりが告げられた。

 さきほどまで鮮やかな光に彩られていた空は、元の静けさを取り戻している。

 観衆の波に流されながら、二人は宿への帰途に着いた。

 「終わっちゃったね……」

 渚の笑顔は少し寂しそうだが、同時に清々しさを漂わせている。

 その晩二人は、布団を並べて眠った。

 天井を見つめていた渚がポツリと呟いた。

 「おじさん、もし私が死んでも、私の事を忘れないでね」

 健一も天井を見つめながら、小さな声で囁いた。

 「忘れないよ、でも君は死なない。映画の主人公になるような魅力的な人は、こんな事で死んだりしないから。きっと続きがあるよ」

 「ありがとう…… 私もおじさんの事、ずっと忘れない。どんな事があっても、必ず旅の続きが出来るって信じている……」

 渚の声がくぐもっているように聞えた。

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