14 それぞれの旅路へ

 宗谷岬は、厚い雲に覆われていた。何層にも重なる雲が、空を奥深く立体的な姿に見せている。

 車から降りた渚と健一は、宗谷岬のモニュメントの前に立った。

 六日前、ここで二人は出会い、旅がスタートした。

 「ゴールだね」

 渚がしみじみと口を開いた。

 「長かったような、短かったような……」

 健一の口から心の中の思いが零れ落ちた。

 「何だか、不思議な感じがするね…… ここで私はおじさんに声を掛けたんだね……」

 渚が健一の反応を探るように話すと、「結局、死に場所は見つからなかった。死に場所なんて無かったんだな……」

 健一は他人事の様に話した。

 「もう変な事、考えないでよ」

 渚は口を尖らせた。

 「大丈夫だよ、生き恥を晒してでも生き抜く。もう後戻りはしない、やる事をやって、あとは野となれ山となれだ……」

 健一は、はにかんで笑った。

 「あとは野となれ……か。 私も運を天に任せて、まな板の上の鯉になってくるわ、煮るなり焼くなり好きにしろってね……」

 渚は背伸びをしながら笑った。

 「飛行機、何時だっけ?」

 健一が言った。

 「十五時…… おじさんは、これからどうするの?」

 「君を空港へ送って、レンタカーを返しておくよ。どうやって東京へ帰るかは、ゆっくりと考える……」

 「おじさん、最後に一枚、記念写真撮ろうよ……」

 渚と健一は、モニュメントの前に立って肩を組んだ。

 渚はスマホのレンズを自分たちのほうへ向けてシャッターを切ろうとしたが、麻痺している右手を思うように動かせない。

 渚のスマホを取り上げた健一が、替わりにシャッターを切ろうとしたが、操作に慣れていないせいか、うまく画角に二人の顔を収められず苦労する。

 痺れを切らせた渚は、スマホを取り返して今度は左手で操作しようとしたが、やはりうまくいかない。

 二人が苦戦していると、そこへキャンピングカーが現れた。

 渚と健一は顔を見合わせ、同時に口を開いた。

 「清三さんだ!」

トドワラで出会った老夫婦、百合子と清三が車から降りてきた。

 「私が撮ってあげるわよ……」

 百合子は、渚からスマホを受け取って、シャッターを切った。

 「また逢えるなんて偶然ね、清三さん、私たちも一緒に写真を撮りましょうよ」

 「あいよ!」

 清三は、車から新品の三脚を取り出して、カメラをセットする。

 渚と健一、それに百合子と清三、四人で並び、セルフタイマーのシャッターが切られた。

 自殺をしようとしていた者、生死を賭けた手術に挑む者、余命僅かと告げられた者、近い将来愛する人を見送らなければならない者。それぞれが、重い荷物を背負って生きている。

 「あらー、みんないい顔をしているわ」

 百合子が嬉しそうに言うと、渚が画面を覗き込む。

 「本当だ! 凄くいい写真」

 清三もカメラのモニター画面に顔を近づける。

 「うん、うん、本当にいい写真だ。百合子さん、これ、お葬式に飾ってね」

 清三は大きな口を開けて笑い出した。

 健一は三人の様子を見て思った。幸せを永続的に感じる事は難しいかもしれない。でも、どんなに辛い思いを抱えていようが、目の前の幸せを感じる事はできるのだ……


 渚と健一は、老夫婦に見送られて稚内空港へと向かった。

 別れ際に百合子は、笑顔を浮かべて言った。

 「いつかまた、どこかでお会いしましょうね」

 この言葉が、二人の胸に留まり、車の中は何となく切ない思いが漂う。

 「百合子さんと清三さんの旅は、いつまで続くんだろう」

 ポツリと零れ出た渚の言葉に、健一は何も言う事が出来ない。

 「清三さん、いつまでも元気でいられると良いね」

 渚は、わざと明るく言ったが、車の中は既に感傷的な色に染まっていた。

 旅の終わり、いくつもの出会い、そして別れ…… 逃れられない寂しさに、健一も、渚も、支配されている。いつかまた、という現実的ではない別れの言葉に悲しみを感じた。

 稚内空港を目指して、車を走らせていると、渚のスマホの呼び出し音が鳴った。

 相手は、香織だった。

 宗谷岬を目指して走っている香織から、電話が掛かってきたのだ。

 渚はスマホの音声をスピーカーに切り替えた。

 「香織ちゃん、今どこ?」

 驚きと、嬉しさのせいで、渚の声は震えている。

 「今ねぇ…… 旭川から名寄へ向かって…… 走っているところ……」

 香織の息が弾んでいる。ゴォーという風を切る音が混ざって、少し聞き取りづらい。

 「宗谷岬には、いつ着くの?」

 渚は大きな声で話した。

 「今晩が名寄で…… 明日が中頓別…… 明後日にはゴール出来るかな、渚は?」

 香織も大きな声で、ひと言ずつ区切って話す。

 「うん、今、空港へ向かっている、これから東京へ帰るんだ」

 「そっか気をつけて帰ってね、ゴールして東京へ帰ったらさぁ…… お見舞いに行くよ…… 必ず行くから元気だしなよ!」

 渚は涙を啜った。

 その音が電話を通して伝わる。

 「渚、泣くなってば……」

 香織の声も、湿り気を帯びていた。

 渚も、香織も、堪えるのに必死で言葉がなかなか出てこない。

 「健一さん、聞こえている?」

 息を整えた香織は、わざと明るい声で呼び掛けてきた。

 「聞こえているよ、香織ちゃん、身体は大丈夫?」

 「うーん、大丈夫とは言い難いけど…… でも確実に前へ進んでいます…… 一歩ずつ近づいていますよ…… 健一さん…… 私は何があっても応援します……頑張って下さい」

 走りながら話しているせいで言葉は途切れがちだったが、余計に思いが伝わった。

 「有難う……」

 健一は、そう言うのが精一杯で、あとは込み上げて来たものを堪えるのに必死だった。

 こんな自分でも誰かに支えられているのだ、と思ったら胸が熱くなった。

 スポットライトの真ん中で蹲っている自分を、暗闇から見つめていた人が、一人、また一人と、光の輪の中に入って手を差し伸べてくれる。そんな心境になった。

 隣では渚が手の甲を口元に当てて、嗚咽を必死に抑えている。

 「それじゃ、切るね」

 香織は、突然電話を切った。

 沈黙が漂い、再び、車の中は感傷的な色に染まった


 健一は、稚内空港のターミナル前にある駐車場に車を停めた。

 香織の電話が切れてから、車内の会話は途絶えたままだった。

 助手席の渚は、何となくソワソワしていた。これまでは、沈黙が漂っても、気兼ねする事なく過ごせていたのに、沈黙が気まずい雰囲気を作ってしまう。別れの時が近づくにつれて、お互いの態度が余所余所しくなっていった。

 ターミナルの中は、時折アナウンスが流れるだけで、静けさが漂っていた。チェックインカウンターの前にはスタッフしかいない。

 「有難う……」

 渚は、健一が持っていた荷物を受け取ると、しんみりとした顔で唇を噛む。

 「こちらこそ……」

 健一は、精一杯の笑顔を作るがぎこちない。

 健一の笑顔を見つめながら、渚は何かを言おうとしたが、今の気持ちに相応しい言葉が思い浮かばず、唇だけが微かに動く。もう二度と会えないような予感が心の隅を掠めていた。

 旅先で偶然出会っただけの人なのに、もう会えないかもしれないと思ったら、心に空いた小さな隙間から、冷たい風がどんどん吹き込んできて、どうしようもなく切ない気分になった。

 このままずっと一緒に居たい、もっともっと旅を続けて行きたい、そんな思いが突然、口を衝いて出た。

 「ねぇおじさん、約束しようよ、来年の今日、宗谷岬で待ち合わせするの。この先、どうなるか分からないけど、約束したらさぁ、なんか、上手く行きそうな気がするんだよね」

 渚の顔が歪んだ。

 笑おうとしているのか、泣き出しそうなのか、健一には分からない。それでも渚の気持ちは伝わってきた。渚の瞳を優しく見つめ、笑顔を浮かべて、うん、と頷く。

 「そろそろ、行くね……」

 渚はどこか虚ろな表情でそう言うと、名残惜しそうにゆっくりと踵を返し、搭乗ロビーへの階段を昇り始めた。白いフレアスカートに、紺色のパーカー、出会った時と同じ服装だった。

 渚を見つめている健一の視界は、滲んだ。

 渚の華奢な背中を見つめていたら、不意に旅の思い出が蘇ってきた。

 宗谷岬で自殺を止められた時の事、ワッカネイチャーセンターで憤った渚の大声、脳腫瘍の話しをしていた時の悲しそうな顔、廃屋ライターの話しを聞いて浮かべていた涙、トドワラで出会った老夫婦との笑いの絶えないひととき、釧路川のカヌーで魅せてくれた幸せそうな笑顔、香織と共に泣き笑いしたひと晩、瑞江の話しを聞いていたときの眼差し、額に汗して植樹をした時のひたむきな表情、空に広がる花火にうっとりとしていた美しい横顔……

 渚はいつも一生懸命生きようとしていた。これが最後の旅になるかもしれないと、その時、その一瞬を、無駄にせず精一杯生きていた。そして、その度に心を揺さぶられた。

 健一の目には、階段をゆっくり昇っていく、渚の背中が弱々しく映った。このまま別れてしまったら、もう二度と渚の笑顔を見られないような気がして、胸の中には、寂しいとも、悲しいとも、言い切れない何とも言えない思いが渦巻いた。

 このまま行かせてしまってはいけない気がして、健一が一歩、足を踏み出そうとした瞬間、階段を昇っていた渚がピタリと足を止め、一瞬、時が止まった……

 立ち止まった渚は、ゆっくりと振り返り、階段を駆け降りて来た。

 目から涙が溢れ出ている。手の甲を目尻にあてがいながら、渚は健一に駆け寄った。

 健一は、渚を真っ正面から受け止めた。

 渚は黙ったまま、健一の懐に顔をうずめる。

 健一は、背中に手を回した。

 渚の身体が震えている。

 何も言わないが、渚が何を伝えようとしているのか、それは分かる気がした。

 お互い、覚悟は出来ている、でも別れるのが辛い……

 健一の心にそんな思いが渦巻いた。渚もそう思っているに違いない、健一は渚を強く抱きしめた。

 しばらくの間、沈黙が漂った。

 館内に、東京行き搭乗案内のアナウンスが流れると、渚は、大きく息を吸い込み、フーっと息を吐き出して、顔を上げた。

 健一の目をじっと見つめる渚の瞳は、スッキリと澄んでいて、迷いの無い顔つきに変わっていた。

 「さっきの約束だけどさ、もしも、来る事が出来なかったらさ……」

 そこまで言うと、渚の瞳は微かに揺れ動き、少しの間、言葉が途絶えた後、再び唇を動かした。

 「その時は…… 今を良き別れとしましょう……」

 渚は、はにかんで言った。

 健一は、頬を歪めて微笑んだ。渚が搾り出した精一杯の別れの言葉、渚はきっと別れの言葉を伝えたかったんだ、健一はそう思った。

 そう思うと、その爽やかな別れの言葉が、余計に健一の心を湿らせる。

 渚は、ゆっくりと身体の向きを変えて、足早に離れていった。

 「渚、必ず、約束を守れよ」

 健一の声がロビーに響いた。

 「健一、そっちもね」

 渚は、振り返らずに右手を挙げた。

 健一は、遠ざかっていく姿をずっと見つめていたが、渚は一度も振り返る事無く、視界から消えていった。その背中に、先ほど見えた弱々しさはなく、向かい風に立ち向かう強さと、未練を断ち切った潔さが感じられた。

 ひと気のないロビーにポツリと取り残された健一の口から、溜息が漏れる。

 いつかまた、ではなく、今を良き別れとしよう、と言った渚の言葉が胸に響き、何とも言えない寂しさに見舞われた。

 懐には、渚のぬくもりが残っている。

 天井を見上げ、ふーっと息を吐きだした健一が、ポケットに右手を突っ込むと、ぐしゃぐしゃになった何枚かの紙幣が指に触れた。それをぎゅっと握り締めて、歩き出す。

 ターミナル出口の自動ドアの前に立った瞬間、ガラスに、自分の姿が映った。

 「これからどうする?」

 ガラスに映っている自分に真顔で話しかけると、ガラスの中にいる自分が、ニヤリと微笑んだように見えた。

 ターミナルの外に出ると、空からポツリポツリと雨が降り始め、雨脚は次第に強くなっていった。

 健一は灰色の空を見上げて、雨粒を顔全体に受け、静かに目を瞑る。

 煩わしい未来を乗り越え、思い出として振り返られるのは、果たしていつになるのだろう……

 先の事を考え始めると、息が出来なくなるほど苦しくなる。

 大丈夫、何とかなる、健一は自分に言い聞かせた。

 思い通りになるかどうかは分からないが、きっと何とかなる筈だ。

 最高の結果がもたらされなくても良い、一年後に渚との約束を果たせれば、そして心の支えが出来れば、それで充分じゃないか…… 目を瞑ったまま、健一は心の声を聞いた。

 閉じていた目を開くと、どしゃ降りの雨が遠くの景色を滲ませていた。

 「まずは飯を食おう…… 全てはそれからだ」

 健一は心の中で呟き、足元に視線を落とした。

 水溜りに落ちた雨粒が、王冠の形をした水しぶきを上げる。

 健一はニヤリと笑って、歩き始めた。

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