6 羅臼

 羅臼町は夕暮れ時を迎えていた。海の向うに国後島がうっすらと見渡せる。

二人が知床五湖を出発した時は青空が広がっていたが、峠に差し掛かると雲が広がり始め、知床峠の展望台付近は、すっかりガスに覆われていた。峠道は数十メートル先に何があるのかさえ見通せないほどの濃い霧が掛かっており、ハンドルを握る健一の手は汗ばんだ。

 知床から羅臼までの間、二人の口数は少なかった。知床で知り合った廃屋カメラマンの話が後を引いて、渚が物思いに耽っていたのもあるし、健一は視界不良の峠道を運転するのが精一杯で、渚の事を気に掛ける余裕が無かったというのもある。天候も、車の中も、どんよりとした雰囲気が漂っていた。

 羅臼の宿に到着すると、玄関でおかみさんらしき人が待ち構えていた。

 「淳ちゃん紹介のお客様ですね」

 笑顔がほっこりとした感じで、弾んだ声で話しをするおかみさんは、言葉数の少ない二人の雰囲気を和やかにした。

 「お世話になります」

 渚が笑顔で応えた。

 おかみさんの話によると、江川淳一は、この旅館でアルバイトをしていた事があるそうだ。

 淳一は、学生時代、長い休みに入ると、北海道の各地でアルバイトをしていた。職種は宿泊施設、農家のヘルパー、飲食店と様々で、働く場所も、稚内、羅臼、釧路、北見・・・・・・と挙げたらキリがない。気さくで人柄がよく、誰とでも親しくなれてしまう淳一は、行く先々で人気者になった。しかし、一度離れた土地に戻る事は無く、また新たな土地を訪れて、人の輪を増やしていく。

 淳一は、『いつか大きな事をするから……』、とおかみさんに告げ、羅臼を離れていった。

 渚が、サロマ湖のホテルで淳一と会った話しをしたら、おかみさんは少し驚いていた。少し前までは定山渓にいたそうで、その情報も訪れた観光客からもたらされたと言う。人づてに近況が届くと言うのだから、淳一の奮闘ぶりは疑いようが無かった。

 「うちは料理が自慢の宿なので、夕飯までは、お風呂にでも入って、ゆっくりとお過ごし下さい」

 おかみさんの笑顔と柔らかい話し方が、渚と健一の心を、ほんわかした気分にさせた。

 フロントで手続きを済ませた二人は、それぞれの部屋に分かれた。

 部屋に入った健一の瞼には、おかみさんと話しをする渚の屈託のない笑顔が焼きついている。

 ウトロで食事をしていた時の沈んだ顔とは違い、とても楽しそうな笑顔だった。困難が間近に迫っているのに、気持ちを切り替えて笑う事が出来る渚の健気な姿が、妙に愛おしい。それは親が子に対して抱く愛情とも、好きになった女性に抱く恋愛感情とも違う、友情、それに近いのかもしれないが、それだけではない気がした。


 「うわっ、凄い! カニで一杯!」

 食堂に渚の声が響いた。

 タラバガニ、毛ガニ、ズワイガニが盛りつけられた皿が、テーブルの上で存在感を主張している。その隣には刺身の盛り合わせもあり、バイキングコーナーには野菜や魚介類の珍味が数え切れないくらい程、ずらりと並べられていた。おかみさんが、『うちは料理が自慢だ』、と言っていた言葉に偽りがない事が分かった。

 健一は、ハサミを使って器用にカニの肉を取り出す。渚も同じようにカニを手に取ってみたが、うまくいかない。右手でハサミを使いこなせないからだ。それに気づいた健一は、渚の手に握られていたカニを取りあげると、殻を外して身だけを渚の皿に乗せた。

 健一は次から次へと手際よく殻を外していく。

 その手さばきを、渚は少し悲しそうな目で見つめていたが、健一の優しさが嬉しかったのか、次第に笑顔に変わる。

 「おじさん、ありがとう」

 渚は礼を言うと、太くてプリプリとしたタラバガニの身を頬張った。

 満面の笑みを浮かべ、言葉がなくても分かるほど、顔全体で美味しさを表現している。

 「美味しいか……」

 健一はうっすらと笑みを浮かべて言った。

 微笑んでいる健一の顔を見て、渚は小さく笑った。

 渚は、カニを次から次へと口へ運び、舌を鳴らす。

 健一は、渚が幸せそうな顔で食べてくれるのが嬉しくて、ひたすらカニの殻を外した。

 ところが、ニコニコしながら食べていた渚が、突然食べるのをやめた。

 渚の視線が宙を漂う。

 「私、カニの殻すら剥く事ができないんだね……」

 渚は、思うように動かない指先をぼんやりと見つめて、ボソッと呟いた。

 健一の胸に一瞬、締めつけられるような痛みが走った。

 「出来ない事は、俺がやってあげるからさ……」

 渚のしょんぼりとした顔に耐えられなくなった健一は、明るく言った。

 何とかこの旅が良い思い出になるように助けてあげたい、渚を労わるような目で見つめた。

 「おじさん、やさしいね」

 ぽつりと渚が呟く。

 目を細めて微笑んでいる渚の顔に、どことなく寂しさが漂う。

 これからの事が心配で、健一の心の中にいる渚の存在はどんどん大きくなっていく。渚の事を思うと、自分が置かれている状況を忘れそうになる。皮肉な事だが、健一にとって渚は心の拠り所になっていた。


 食事を終えて部屋に戻った健一は、娘の事を思った。

 娘と同じ年頃の渚が抱えている不安に触れ、ふと思い出したのだ。

 仕事が忙しくて家に居る時間が少なく、たまに家に帰っても、疲れ果て、ちっとも構ってあげられなかった駄目な父親なのに、そんな父親を誇りに思ってくれていた娘。勉強も運動も一生懸命で、一流大学を卒業して、将来が期待される職業に就き、着々と夢を叶えていく自慢の娘だった。

 就職して最初に迎えたゴールデンウィークに親娘三人で行ったハワイ旅行、今、思えばあれが最後の家族旅行となった。夕日を眺めながら歩いたワイキキビーチ、「また来ようね」と言った娘の言葉が、まるで昨日の事の様に思い出される。あの時は、きっとまた、幸せな時間を過ごせるだろうと思っていた。

 それなのに、父親が犯した罪のせいで、きっと今頃、彼女は辛い毎日を過ごしているに違いない。

 そんな事を思うと、やり切れない気持ちで一杯になり、胸の当たりが爛れたように熱くなる。

 自らが犯した罪……

 いや、実際は犯していない。それなのに償うべきなのだろうか?

 生涯を捧げて尽くしてきた人を守るために被った罪……

 命を絶つことで全てを精算できると思い、死を選んだが、果たしてそれで精算した事になるのだろうか?

 家族の事を考えたら、とてもそうは思えなくなってきた。

 守るべき人が間違っているのではないか……

 煩わしい胸の熱さと引き換えに、今まで封印してきた考えが込み上げて来た。


 翌朝、早起きした二人は海岸を散歩した。

 夕食の時に、宿の主人は、「羅臼から見える朝日は日本一早いんだぞ」、と言っていた。

 その言葉が何となく頭に残っていた健一は、目覚めと共に部屋を出ると、渚も示し合わせたかのように部屋を出てきて、二人は廊下で鉢合わせになった。

 「やっぱり気になるよね……」

 渚がはにかむように言うと、健一は頬を緩ませて頷いた。

 二人は一緒に宿を出て、薄明かりの中、砂利の多い砂浜を無言で歩いた。

 朝四時を少し過ぎた頃、国後島の向うから朝日が昇った。

 空に浮かんでいる雲の合間を縫うようにオレンジ色の太陽が昇っていく。群青色だった空が、紫からピンクへ、そして赤みを帯びてオレンジ色へと刻々と変化する。

 「新しい朝の始まりだね、なんだか涙が出てきちゃうな……」

 太陽の神々しさに心を奪われたのか、渚の目から涙が零れた。

 「こんなに穏やかな時を過ごせるなら、手術なんか受けないで、静かに終わりを迎えたほうが良いのかなって思っちゃうな、やっぱり怖いよ…… 手術したあと、自分がどうなってしまうのか分からないんだもん。今よりも悪くなっちゃうかもしれないし、それでも生きていかなきゃいけないって、耐えられない気がするな……」

 健一の心はざわめいた。渚の明るい笑顔とその奥に潜む陰、何とかしてあげたいが、何も出来ないもどかしさ…… それに渚の愛おしさが相まって、心の中が波立った。

 「俺はさぁ、君に声を掛けられたから、今、こうして生きているんだよな。もしもあの時、声を掛けてくれなかったら、もう生きていないと思うんだ。だから君には生きて欲しい、どんな事があっても…… まぁ、自分の事を棚に上げて言える立場じゃないけどな」

 「有難う、おじさんに言われたら少し元気が出てきた。私ね、ずっと揺れているの、生きなきゃ、って思いと、死んじゃったほうがいいんじゃないか、って思いがね。私も、おじさんには生きて欲しいって思っているよ。どんな困難があっても生き抜いて欲しい。心がグラグラ揺れている私が言える立場じゃないけど……」

 渚は苦笑いを浮かべて、健一の目を見た。

 健一はその目を見つめ返して、微笑んだ。

 それから二人はじっと立ち尽くし、時の流れを忘れたかのように昇っていく太陽を眺めた。

 二人を取り巻く状況とは関係なく、何事も無かったかのように新しい一日が始まる。

 気がつくと宿の主人が、二人の傍らに立っていた。

 「ほらっ、あそこ! テトラポットの上……」

 太陽の光が目に焼きついた二人は、目をしばたかせて主人の指の先を追った。

 テトラポットの上に番いのオジロワシが留まっている。

 「殆どのオジロワシは冬の間だけしかいないんだけどね…… ここには夏を過ごすヤツもいるんだ。余程、ここが気にいっているんだろうね。右にいるのがトモカズで、左がモモエ」

 主人はそう言って笑いだした。健一も釣られて笑ったが、渚には何が可笑しいのか分からず、二人の顔を交互に見つめた。

 一羽のオジロワシが飛び立つと、もう一羽もそれに続いて飛び立った。朝日に向かって飛んでいく姿は勇ましくもあり、二羽が寄り添うように飛ぶ姿は、微笑ましくもあった。自由に空を飛びまわる鳥を、健一は羨ましそうに見つめた。煩わしさから解放されて、自由に生きる事ができたら…… そんな思いが頭を渦巻いていた。

羅臼の宿を出発するとき、渚はこれまでのように、次の宿泊地をどこにすべきか、主人に相談した。このあと野付半島へ立ち寄る事を伝えると、それならば釧路がいいんじゃないかと言われ、今晩の宿を釧路に決めた。

 「釧路は都会だから、泊まるところはたくさんあるよ……」、と言われ、宿をお勧めして貰う事は出来なかったが、「釧路は炉端焼きの発祥地だから」、とお勧めの店をいつくか教えて貰った。

 つい先ほど朝食で、どっさりとイクラをご飯に盛せ、お腹が一杯になるほど食べたのに、早くも渚の頭の中は夕食の事で占められ、炉端焼きという響きがひとり歩きしていた。

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