5 知床
二人が乗った車は、知床を目指して走っている。
朝食のレストラン会場から見えたサロマ湖は、湖面にうっすらと霧が掛り、空はどんよりと曇っていた。それは水墨画のように幻想的で、前日とはまた違った一面を見る事が出来た。
サロマ湖を出発して、網走の市内を抜け、小清水の原生花園辺りに差し掛かると、雲は次第に薄くなり、青空が広がり始めた。
車はどこまでも続いて行きそうな直線道路を走り抜け、斜里から知床半島へと入って行く。
「昨日の夜、フロントのお兄さんに羅臼の宿を薦められたの…… お料理が自慢の宿らしいわ、カニが目玉なんだって……」
健一は、渚の旅に計画性がない事を知る。
予め決めた土地を予定通り訪れるのではなく、訪れた土地で出会った人に薦められたところを渡り歩いていく。それが渚の旅のスタイルだった。
『どこがお勧めか?』と尋ねられた人は、何かしら自分に縁のあるところを紹介するものだ。
渚はそれを狙っている。自らが選んだ場所を訪れるのではなく、人づてに縁を辿って旅の進路を決めていく。それが渚の旅のスタイルなのだ。
渚は宗谷岬の宿で、以前アルバイトをしていた若者が、サロマ湖のリゾートホテルに勤めている、という話を聞かされた。それで前夜はサロマ湖へ宿泊した。そしてその若者の紹介で、今晩は羅臼の宿を手配して貰っている。どこへ行くのかよりも、誰に会うのか、という事が渚にとっては大切なのだ。
車内の二人は、昨日とはうって変わって話が弾んだ。
渚の事情を聞いた健一が心を開き、問いかけに応じるようになったからだ。
話しをするようになった健一は、渚の体調を心配している。このまま旅を続けていっても良いのだろうか、と不安を抱えていた。
右手に痺れがあること、それから視野が狭い事、それはこれまで接してきて、気付かない症状だった。でも、ブッフェの時、一皿ずつ何度も料理を取りに行っていたことや、ワッカネイチャーでレンタサイクルではなく、馬車を選んだこと、それに助手席でしきりに右手をさするのは、全て病気のせいだったのかと思うと、合点が行く。
渚は出来るだけ症状を隠そうとしているのかもしれないが、ふとした瞬間に現れる、仕草の一つ一つが深刻さを孕んでいるように思える。こうしている間にも症状は進んでいるのかもしれない、一刻も早く旅を中止させて、病院へ連れて行くべきなのではないか、そんな思いが頭を過った。
ウトロまでやって来た二人は道の駅で昼食を取ることにした。海鮮丼を売りにしている店に入り、健一は鮭とイクラの親子丼を、渚はイクラとウニの二色丼をオーダーした。鮮やかな色をした具材は新鮮さを物語っているようで、丼から零れんばかりのボリュームも相まって、渚も、健一も、目を丸くした。
健一は、丼を抱え込むようにかきこみ、渚は、ひと口ひと口ゆっくりと食べた。渚は、右手でれんげを持っているのだが、その指先は、何とも頼りない。
いち早く食べ終えた健一は、渚が食べている様子をしげしげと見つめた。
昨日までは気にならなかった仕草が、いちいち気になって仕方がない。
健一の視線に気づいた渚は首を傾げ、「なにか、おかしい?」、と言うと、健一は視線を逸らして、「君が重い病気を患っているなんて……」、と小さく呟いた。
「そうだよね…… 美味しい物が食べられて、奇麗な景色が見られて、笑ってばかりいるのに……」
明るかった渚の表情が一瞬で曇る。
「やっぱり、怖いなぁ……」
渚は持っていたれんげを置き、丼をじっと見つめた。
健一には、これまでずっと笑顔だった渚の瞳の奥に陰が見えた気がした。
健一はその陰に光を当てる事が出来ないものかと頭を巡らせた。しかし大丈夫だ、などと無責任には言えないし、だからと言って、このままでは取り返しがつかない事になってしまう。この旅を早く終わらせて、病院へ行かせるべきなのだろうが、この旅が最後になってしまうかもしれない、という状況を慮ると、旅を止める様に言うのも憚られる。
結局、励ますくらいしか出来ないのだが、それにしても相応しい言葉が見つからない。
渚が抱えている困難を思うと、やるせない気持ちで一杯になった。どうせ死のうと思っていたのだから、替われるものなら替わってやりたい、そんな事も頭を過った。どうする事も出来ない無力感に苛まれた健一は、ただ曖昧な笑みを浮かべて渚を見つめることしか出来なかった。
ウトロを出発した車は、知床五湖を目指して走り出した。
これまでは左側に海を眺めながら走ってきたが、この先は峠へ入る。道路の両側は樹林帯となり、左右にカーブを切りながら、徐々に標高を上げていく。登坂の向こう側に見える青空と、道路の両側に生えている白樺の木が、雰囲気を明るくさせる。
知床自然センターの先を左折して暫く走り、イワウベツ川の谷間に差し掛かると、視界が一気に開け、知床の山並みを見渡せるようになった。
渚は、車窓の景色に目を細め、「あれが羅臼岳かしら……」、と呟いた。
健一は頭を屈めて、正面の山を見上げた。太陽の光を浴びて立体的に浮かび上がる山並を、青空と真白な雲が引き立てている。雄大な景色に息を飲んだ。
知床五湖まで3kmという道路標識を過ぎた辺りにエゾシカが現れた。
大小二頭のエゾシカが、道路脇の斜面で草を食べている。
健一は、渚がスマートフォンを構えているのに気づき、ブレーキに足を掛けた。
すると次の瞬間、100mほど先の茂みの中から、突然、黒い影が飛び出してきた。
健一は慌ててブレーキを踏んだ。
ブレーキの音に驚いたのか、親子のエゾシカは茂みの中へ飛び去った。
渚は、何が飛び出して来たのかと目を凝らす。
健一は一瞬、熊だと思った。しかし、熊ではない事が直ぐに分かる。
色は黒いが、熊の様に丸いフォルムではなかったからだ。
それは人だった、黒い服装をした男だ。首から大きなカメラを下げた男が、酷く慌てた様子でこちらへ向かって走ってくる。
男は、しきりと後ろを気にしながら走り、車の前に止まると、両手を広げて仁王立ちした。只ならぬ様子に危機感を持った健一は、クラクションを鳴らして威嚇したが、ほぼ同時に渚は窓を開けて、男に声を掛けていた。
「何があったんですか?」
助手席の窓を覗きこむ男の顔は蒼白で、髪の毛が逆立っている。
「助けてください……」
息も絶え絶えに男はそう言うと、返事を待つ事無く、後ろの席に乗り込んできた。
恐怖で肩が震えている。息が上がっているせいか、口の中が乾いているせいか、言葉がなかなか出てこない。
「熊と鉢合わせしまして……」
男はなんとか呼吸を整えて、搾り出すようにそう言うと、瞬きもせずに窓の外を睨み、荒い呼吸を繰り返した。
男は、しばらくじっと外を見つめ、視線の先に何も起きない事を確認すると、「あー、死ぬかと思った……」、と言い、深い溜息をついた。
そして、奇異の目で見られている事に気づく。
「すみません、ご迷惑お掛けしまして…… 私、廃屋ライターをしている市丸と申します」
男が申し訳無さそうに言うと、渚は頬を引きつらせて、「ハイオク?」、と呟いた。
「廃墟とか廃屋とかを取材して記事を書いているんです。大した稼ぎにはならないので、趣味みたいなものですけど……」
市丸は、頭をポリポリと掻きながら苦笑いを浮かべた。
「こんな大自然の中に、廃屋なんてあるんですか?」
渚は眉間に皺を寄せ、なんとも言えない顔つきで尋ねた。
健一は、市丸が何の断りも無く、後部座席に乗り込んで来た事が気に入らないようで、ずっと不機嫌な顔をしている。
「はい、この辺りは昔、大規模な開拓事業が行われていたようで……」
市丸は、渚が興味を持ってくれたのが嬉しかったのか、目を輝かせる。
全く興味を示さない健一は、市丸が語り始めたのと同時に車を走らせた。
「これから知床五湖へ行くので、そこまで送れば良いよね?」
健一が少しトゲのある言い方をすると、市丸は、「ハイ、助かります」、と苦笑いを浮かべた。
知床五湖やその周辺は、大正から昭和にかけて、国策として開拓事業が行われてきた。しかし、極寒地である事や、水利の悪さ、大きな石に覆われた土地、バッタの食害などがあり、開拓は困難を極め、また国の政策転換もあって、ピーク時に六十戸ほどあった入植者も1970年頃には消え去り、開拓の歴史は幕を閉じた。そして開拓跡地には廃屋が残された。
市丸は、その廃屋を取材していて熊と遭遇したのだ。
「一番新しい廃屋だって五十年以上経っているのに、未だに生活の痕跡がはっきりと残っているんです……」
市丸の話し方が、熱を帯び始める。
「ちゃぶ台の上に茶碗やら箸やらが乗ったままになっていたり、教科書が半分飛び出したランドセルが置かれていたり…… まるでつい最近まで人が住んでいたように見えるんです」
市丸は興奮気味に話す。
渚は熱心に聞いていたが、健一は殆ど話を聞いていない。廃屋を見て昂ぶった思いを誰かに聞いて欲しくて、捲くし立てている市丸が鬱陶しい。それまでの和やかな空気をかき乱された事に、健一は苛立った。
「屋根は崩れ、草に覆われ、周りの自然が開拓者たちの生活を、元の自然に戻そうと飲み込んでいくのに、それでも生活の痕跡だけが残っているんです。ここに暮らしていた家族は何を思って、この土地を離れたんだろうか? そんな事を思い浮かべると、たまらない気分になるんですよね……」
市丸の視線が、窓の外の遠くを漂う。
助手席に座っている渚は、市丸の話に心を奪われ、瞳が大きくなっている。
そんな様子を見て、気を良くした市丸はさらに話を続けた。
「ここでの生活は、今じゃ考えられないほど、過酷だったと思うんです。それでも、子どもが産まれたり、作物を収穫したり、なかなか抜けない切り株を引っこ抜いた時なんかは、小さな喜びがあったと思うんですよね。豊かな生活を夢見て、はるばるこの地へやって来て、いつか幸せを掴むんだって、思っていた訳だろうし…… でもそれが想定外の事の連続で、どうにもならなくなって……」
話をしている市丸の目に光るものが浮かんだ。
「今日一日だけ頑張ろう、明日になったら、よし、もう一日だけ頑張ってみよう。そんな毎日を過ごして、ある日突然、覚悟を決めるのでしょうね、もう駄目だ、と。同じ夢を見て入植した人達を残して去っていくのは、仲間を裏切るようで辛かったろうし、置いていかれた者にしてみれば、さぞや寂しかったろうし……」
粗末な道具しか手に入れられず、樹齢何百年もの木を切り倒し、そこに住んでいた野生動物を追い払って僅かな土地を切り開くのに何年も掛かり…… そうしてようやく手に入れた土地を手放す無念さ、生活の匂いが沁み込んだ家を捨てる悲しさ、そして同じ苦労を共にしてきた仲間の元を去る辛さ。残された者達のやりきれない思い。市丸はそんな事を切々と語った。
抑揚をつけて感情を揺り動かすような市丸の語り口に、渚は吸い込まれていき、気付けば潤んだ瞳から一筋の涙が溢れ出していた。
その姿を横目に見た健一は、市丸の話ではなく、渚の涙に心を動かされた。またそれと同時に市丸の話が、耳に留まるようになっていく。
「去ってゆく者は黙って姿を消すんです。家族のように接してきた仲間に申し訳が立たないですからね…… そして残された者は、空き家になった家を見て、ご近所さんがこの土地を捨てた事を知る。人と人との繋がりがある日、突然途絶えてしまう訳です。それまで家族付き合いしてきたのに、もう二度と会えないかもしれないのに、さよならの挨拶すら出来ずに去って行く。そんな事を想像すると身につまされます。何事もなく一日が終わり、当たり前の様に明日がやって来る、そう思い込んでいる自分の人生を見つめ直さなきゃなって。平凡な日常生活が続く事って、決して当たり前じゃないんですよね」
さよならの挨拶すら出来ずに去っていく…… その言葉が健一の胸に刺さった。
妻と娘の元を去ったのは一ヶ月前のこと。それから一度も連絡を取らずに今日を迎えている。かろうじて今、自分は生きているが、予定では二日前に死んでいる筈だった。死んでしまえば何も考える事は無かった。でも、こうして生きていたら、黙ってこの世を去るという事が、残された者の心にどんな影を落とすのか、気に掛かる。
別に嫌いになって離散したわけではない。そうせざるを得ない事情があったから、仕方が無かったのだ。失踪してしまった夫を、父親を、彼女たちはどう思っているのだろう?
しっかりと眠れているだろうか、きちんと食事は出来ているだろうか、微笑を交し合う瞬間があるのだろうか、ありふれた日常を過ごす事が出来ているのか……
そんな事を考えると、自分が取ろうとしていた行為が身勝手に思えてくる。しかし……
渚は、夢をみて頑張ってきた事が報われず、この土地を去った入植者と、自分の姿が重なった。
美容師をしていた父親に憧れて、専門学校に通い、国家資格を取得して美容師としてのキャリアをスタートさせ、いつかは自分のお店を持ちたいという夢を持って、ここまで一段一段ステップを上がってきた。それなのに……
『この地を去った者達は、その後どんな暮らしをしていったのだろうか…… 私はこの先、どんな人生を歩んで行くのだろうか……』
そんな思いが渚の頭に渦巻いた。
「いやぁ、助かりました。有難うございます」
市丸が、にやけた顔で頭を下げた。
三人が乗った車は、知床五湖に到着した。
渚は、開拓民の話を聞かせてくれた市丸に礼を言うと、旅先にお勧めの場所がないか尋ねた。
「そうですね、羅臼に泊まるのならば、野付半島というところにトドワラというのがあるので、行ってみたらどうですか? 廃屋はないですけど、この世の果て…… みたいな幻想的な景色に逢えると思いますよ」
市丸は、薄ら笑いを浮かべて話した。
市丸と別れた後、渚と健一は知床五湖を散策した。
高架木道と地上の遊歩道を二時間ほど掛けてゆっくりと歩き回った。時より吹く穏やかな風が心地よく、高架木道から見下ろした湖には知床連山が鏡の様に映し出され、その風景は圧倒されるほどの美しさに満ちていたが、渚の頭の中は、市丸が話していた開拓民の事で占められていて、美しいはずの景色がすんなりと入ってこなかった。
『開拓民もこのような景色を見つめて暮らしていたのだろうか…… 目に沁みるほどの青空を見上げて、彼らは何を思っていたのだろう……』
渚は、当時の暮らしを思い描いて、目を細めた。
浮かない顔をしている渚の事を気遣いながら、健一は歩いた。
無口な渚が、頭の中で何を考えているのかは、何となく想像できたので、敢えて声を掛けなかった。出会って間もないが、渚が、他人の心に感情移入しやすい性格だ、という事は分かってきた。
『だから俺は今、ここにいる、生かされている』
健一は渚の横顔を見つめた。細めた目で一点を見つめるような渚の視線の先に映っている物は何なのだろうか、健一は思いを巡らせた。
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