4 サロマ湖(2)
黄昏時のレストランは、静かな歓声に包まれている。
平日と言う事もあり、客はそれほど多くない。殆どの客はガラス張りの窓際席に陣取り、その瞬間を、今か今かと、待ち望んでいる。沈みゆく太陽と、それを映し出して黄金色に輝く湖面は、息を飲むような絶景を生み出していた。
ワッカネイチャーセンターを後にした二人は、湖畔に立つリゾートホテルにチェックインした。チッェクインする時に、渚は江川淳一という名前をフロントの女性に伝え、奥から出てきた若者と挨拶を交わした。
「それでは、あとでゆっくりと話を聞かせてください」
渚はそう言って、淳一からルームキーを二本受け取ると、一本を健一に渡した。それから数時間後、二人は向かい合って、ディナータイムを迎えようとしている。
「ここで話すつもりか? 大声を出すのは勘弁してくれよ……」
健一は、渚の事を警戒している。
渚は、それを分かっている。分かっていて敢えてこの場で話すことにした。
「まずは、食べましょ!」
渚は席を立って、ブッフェコーナーへ向かった。
ブッフェコーナーには鮮やかに盛り付けられた魚介類や、肉料理、サラダ、フルーツが所狭しと並べられている。渚は大きな皿に、サラダを盛り、その横へシェフに切り分けてもらったローストビーフを添えた。席に戻ると、健一に料理を取りに行くよう促す。
健一は渚の目を睨みながら、渋々席を立った。
渚が何を言い出すのか気になって、食事どころでは無いのだが、食べ終えるまで、口を開くつもりが無いようなので、仕方なく料理を取りに行く事にした。
二人は無言で食事をした。料理を咀嚼する音と、食器がぶつかる音がやけに大きく聞える。
健一はいつ渚が話し始めるのか気になって、ちらちらと視線を投げかけてみるが、渚はそれを何食わぬ顔で受け流した。
渚はゆっくりと食事をした。時間を掛けて一つの料理を味わい、食べ終わると、次の料理を一品だけ皿に盛り付けて席へ戻る。そして、それを食べ終えると、またブッフェコーナーへ足を運ぶ。これを何度か繰り返し、ようやくデザートまで辿りついた。
渚は、デザートを食べ終えて、コーヒーをひと口飲むと、きりっと姿勢を正した。
それを見て、健一もなんとなく背筋を伸ばす。
「私ね、あまり長く生きられないかもしれないの……」
渚は、感情を表に出さずゆっくりと口を開いた。その表情は悲しみを浮かべる訳でも、失望を漂わせる訳でもなく、淡々としている。
「私の頭の中には悪性の脳腫瘍というものが出来ていて、放っておくと死んでしまうらしいの……」
健一は思わず息を飲んだ。
渚の言った言葉を、受け止める事が出来ず、顔色を窺う。話し方があまりにもあっさりしていたので、どうせ冗談だろう、と思ったが、渚の表情に、そんな気配は見受けられない。
重く湿った空気が健一の心の中に吹き込み、不気味な黒い雲のような塊を湧き上がらせた。
渚は悪性脳腫瘍を煩っている。
勤務先の美容室でハサミを握った時、右手に痺れが起きたのが始まりだった。最初は気にしていなかったのだが、その症状は日を追う毎に酷くなり、仕事に支障をきたす様になる。渚が勤めている美容院は、系列店をいくつか運営しており、三ヵ月後には新店舗がオープンする事になっていて、渚はその新店舗のチーフを担う事が決まっていた。病気が発症したのは、そんなタイミングだった。渚は何とかしなければと思い、いくつかの病院を受診したが、原因がなかなか特定されず、正式な診断が下されるまでに一ヶ月以上を要した。
そして下された診断が悪性脳腫瘍だったのだ。
この頃には、症状はさらに悪化していて、右手の痺れだけでなく、視野が狭くなり始めていた。両目ともに外側が見えづらいのだ。
医師からは、悪性の腫瘍である事から早期の摘出手術を薦められたが、その難易度は非常に高く、腫瘍を全て取りきるのは難しいと言われている。少しでも残ってしまえば再発する可能性は高い。さらに摘出困難な箇所にあるので、術後の後遺症もあり得る。生死を賭けた大手術とも言える深刻な事態だった。
渚は、手術を受ける以外に選択肢がない、という状況は理解している。しかし、どうしたって大きな不安を拭い去れない。
もしかしたら、もう普通の生活が出来なくなるかもしれないし、麻酔をされて眠ってしまったら、二度と意識が戻らないかもしれない。場合によってはそのまま死んでしまう事だってあり得る。そんな事を考えたら、息を吸う事も吐く事も苦しくなった。がんじがらめの重たい状況に耐えられなくなった渚は、家を飛び出した。
渚はこれまでの人生で、落ち込んだり、不安になったり、選択に迷ったりした時は一人で旅に出ていた。
唯一の家族だった父親が死んで、ひどく落ち込んだ時は、京都の寺めぐりをした。お寺の住職に話しを聞いて貰い、人生の教訓を教わった。たとえ死んでも、誰かの心の中で生きている、という話しを聞かされた時は、ぽっかりと空いてしまった心の穴が塞がったような気分になった。
付き合っていた彼氏と別れた時は沖縄へ行った。透き通った海を一人で眺め、沈み行く夕日に涙を流し、ふと立ち寄った居酒屋で一人ぼっちの食事をしていたら、陽気な島人たちに誘われて、一緒にカチャーシーを踊った。『いちゃりばちょーでー(一度会ったら皆兄弟)』、という沖縄の言葉を教えてもらい、たくさん涙を流して、たくさん笑った。
仕事が行き詰って辞めてしまおうかと悩んだときは、屋久島へ行った。とてつもなく深くて大きな森に入ったら、自分の悩みが、とてもちっぽけな事に思えてきて、悩んでいる事がバカバカしくなった。
旅先で見た景色は飽和状態になった頭と心をリセットしてくれ、旅先で出会った人は人生のヒントを示してくれて、時には背中を押してくれた。だから今回も旅に出る事にしたのだ。
しかし、これまでとは比べ物にならない、重たい荷物を背負った旅立ちだった。
旅に出れば、気持ちが前向きになるかも、という期待もあるにはあった。でも今度ばかりは、これが最後の旅になるかもしれない、という悲壮な思いのほうが強かった。
旅先に北海道を選んだのは、やり場のない閉塞感から抜け出す為には、広大な大地に抱かれる事が必要だと思ったからだ。それに日本のテッペン(北)から、人生を見つめ直して再出発したいという思いもあった。それで出発の地に宗谷岬を選んだ。
しかし、北海道は広い、自由に旅をするとなれば、車を運転しなければならない。渚の右手には痺れがあり、視野は狭くなっている。そんな状態で運転をするのは危険だ。自分だけの事故で済めば良いが、もしも他人を巻き込んでしまったら大変な事になる。レンタカーを借りてはみたが、やっぱり怖かった。
そんな時に健一と出会った。
健一が自殺をしようとしているのは、ひと目で分かった。昔、旅先で出会った人と同じ雰囲気を持っていたからだ。あの時の事を渚は後悔している。もしも声を掛けて、温かい物でも食べさせてあげたら、救う事ができたかもしれないと……
健一は死に直面している。死の恐怖に怯えている自分と、なんとなく同じ空気を吐き出している気がした。そんな事もあって声を掛けた。
渚は、感情を昂ぶらせる事なく、事実だけを淡々と話した。話し終えると、コーヒーをひと口含み、ゴクリと飲み込んだ。さきほどまで湯気が立っていたコーヒーは、すっかり冷めている。
最初のうちは斜に構えて聞いていた健一だったが、渚の話が進むにつれて、次第に引き込まれていった。時折、頬を強張らせながらも、冷静に話す渚の表情が、深刻さを物語っているように思えた。
健一には、別れた妻と娘がいる。恐らく娘は渚と同じ年頃だ。そんな事もあって心に痛みが走った。
もしも自分の娘がこんな病気を患っていたら、そう思うと、居た堪れない気分になってくる。
渚に抱いていた警戒心は消え去り、これまで自分が取ってきた態度が急に情けなくなってきた。屈託のない笑顔を浮かべて、無邪気にはしゃぐ渚が重い病気を抱えていたなんて、思いも寄らない事だった。
「おじさん、お願い。私の旅に付き合って……」
渚は手を合わせ、頭を下げた。
健一は視線を床に落とし「分かった……」と呻くように言った。
断る事など出来る筈がない。それに信頼していた人に捨てられ、生きる気力を失った健一にしてみれば、誰かに必要とされるという事は、救いでもあった。悲壮な覚悟で旅をしようとしている者を手助け出来るのであれば、たとえ束の間でも、生きる事に意味があるように思える。
『死ぬのは、この旅が終わってからにしよう……』
健一は自分に言い聞かせた。
部屋に戻った健一は、窓ガラスに映った自分を見つめた。
窓の外には、昼間は鮮やかな青、夕暮れ時は黄金色に輝いていた湖が闇の中に潜んでいる。時間の経過とともに移ろっていく景色が、自分の心と重なっているように感じた。
図らずも、死んでいる筈の人間が生き残り、死に場所を探していた筈なのに、生きる意味を持つ事になった。今は、渚の存在が心の拠り所になっている気がする。
しかし、その先に待っているのは、やはり闇だ。
この旅が終われば、自分の居場所はなくなる。
「どうするつもりだ?」
健一はガラスに映っている自分に問いかけた。
ガラスの中の自分が、虚ろな表情でこちらを見つめ返している。
肩を落として、部屋の中を見回すと、壁に掛かっていたバスローブの腰紐が目に留まった。
健一は手を伸ばしかけたが、その手を引っ込めて、固く目を瞑った。
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