1話 女子高生

「ヤッホー、山本さん」


 意識が静寂の海に落ちかけていた頃。水の音だけだったはずの真っ暗な世界に、脳を刺激するような溌剌とした声が響いた。


「なんだ、また来たのか」


 目を開ければそこには、上から俺を覗き込む人影。

 日の光にも負けないほどの眩しい笑みを浮かべ、慣れたように俺を『山本』と呼ぶ彼女は、その笑顔に似合うフレッシュな制服を身に纏っていた。


「なんだって何よなんだって」


「いや、突然現れるからつい」


 俺は眠い目を擦りよいしょと身体を起こす。

 そして改めて制服姿の彼女を見上げた。


「学校はもう終わったのか」


「うん、ついさっき終わったところ」


「そうか。それはご苦労さんだな」


 そこにはいつも通りの見慣れた形があった。

 茶色がかった長い黒髪に切れ長ながらも大きな目。歳の割には発育の良い身体に反して、まだまだ垢抜けていない歳相応の笑顔と仕草が特徴的な明るい子。


「またまっすぐここに来たのかよ」


「うん、家に帰っても暇だったし」


「はぁ、相変わらず物好きな奴だなお前は」


 ホームレスの俺にとって、思わずため息が出てしまうほどの若さと希望に満ち溢れたその存在は、見た目通りの女子高生。最近で言うJKってやつだ。


「山本さんいっつもそれ言うじゃん!」


「何だよそれって」


「私が物好きだのどうだのって」


「そりゃ事実だからな」


「好奇心旺盛って言ってよ!」


「いや、どっちも意味同じだろそれ」


「響が違うの響が!」


 寝ぼけているからか、いまいちパッとしない意識のまま俺が返すと、そんなことを知る由もない彼女は、遠慮なくその感情を表に現した。


「意地悪ばっかり言うなら、もう帰るからね⁉︎」


「すまんすまん、俺が悪かったって」


 怒ったのか、頬をぷくっと膨らませる。感情豊かなこの子の名は絵舞えま。あいにくと苗字まではわからない、俺たちはその程度の浅い関係だった。


 半月ほど前に偶然出会ったその日から、絵舞は毎日のようにここを訪れては、ホームレスの俺には縁のない話ばかりを楽しそうに語る。


 三日前は確か、最近学校に現れるという野良猫の話。一昨日は面白かったテレビ番組の話。そして昨日は最近流行っているペッパーランチという料理の話。


 社会との関わりが断たれてから一年近く経つ俺にとって、絵舞から出る話のほとんどが馴染みのない夢話のように訊こえるが、それでも余計な気を張らず、誰かと声を交わせるこの時間は、決して嫌いではなかった。


「それで、今日は一体何しに来たんだ」


「うーん、そうだなぁ」


 いつもの調子で尋ねると、何やら絵舞は軽快な足取りで川の方へと近づいていく。そして水面を覗き込むように身を乗り出しては。


「この川って魚とかいるの?」


「魚?」


「うん」


「そりゃ川だからな。魚くらいいるだろ」


「ほんと⁉︎ どこどこ⁉︎」


 目の色を変えて、水中に意識を凝らし始めた。

 どうやら今日は話というよりも、魚に興味を持ったらしい。目の前の好奇心に迷わず飛びつくその姿勢は、やはり高校生だなと実感させられる。


「あんまり近づくと危ないぞ」


「これくらい平気だよ。それより魚どこ?」


「目に見える範囲にはそうそう現れないだろ、多分」


「えぇー、それじゃいないのと同じじゃん。山本さん『獲ったぞー!』して来てよ」


「無茶言うな。結構深いんだぞこの川」


 簡単に言ってくれるが、素人の俺が生半可な気持ちでこの川に入ろうものなら、間違いなく流されて、石ころ同然川底に沈むことになる。


 いくら社会からドロップアウトしたホームレスだからと言って、女子高生の言いなりになって簡単に命を投げ出せるほど、俺の心は病んじゃいないぞ。


「そういうのは濱○本人に頼め」


「だって有名人じゃん。会えるわけないよー」


 まあそうそう会えないけども。

 せっかく乗ってやったのに急に現実的なこと言うなよ。


「こっからでもたまに見える時あっから、また今度探してみたらいいだろ」


「そうだね。また今度探してみる」


 俺が言うとようやく絵舞は諦めて、またしても軽快な足取りで荒れた地面を跳ねる。そして俺のすぐ横にちょこんと座り込んでは、グググっと上に背伸びをした。


「こうも天気が良いと眠たくなっちゃうね」


「まあ、そうだな」


「ところで山本さん、今日は何してたの?」


「昼寝」


「えぇー、またー? 他には?」


「昼過ぎに公園に水飲みに行って、あとは昼寝」


 本来なら空き缶や古雑誌を求めて街に出るとこだが、何分今日は暑いので、出来るだけ日の当たらないところで、日陰者らしく静かに過ごしていた。


「ずっと日陰だと体調崩しちゃうよ?」


「んなことないだろ」


「いやいや、たまには日光も浴びないと」


 そりゃ正常に生きるためには日光は必要不可欠なのだろうが。一日中野外で過ごす俺にとっては、日光など調節の効かない目障りな照明にしかなり得ない。


「日光は十分間に合ってるよ」


「ほんとかなぁ、もしかして山本さん晴れ嫌い?」


「まあな、俺は根っからの引きこもり体質だからな」


「えっ⁉︎ ホームレスなのに引きこもりなの⁉︎ 何それっ」


 あくまで真面目に答えたつもりだが。

 感情豊かな絵舞はかつかつと肩を震わせていた。


「ホームレスなのに引きこもり……クスクス」


「そんなに面白いかよ……」


「だって引きこもりって言うけど、山本さん家ないじゃん!」


「う、うっせ。ここが俺の家みたいなもんなんだよ」


「だとしても引きこもる場所が外って、それ引きこもりになってないよ」


 ……確かに。

 と、思わされそうになった自分を何とか押し殺す。


 そりゃここはただの橋の下だけど、俺にとっては一年近く住み続けてきた大切なホームであって、存在することを許された唯一の居場所なわけだ。


 いくら女子高生に正論をぶつけられようと、小学生に笑い者にされようと、俺は信念を持ってこの場所に引きこもってるホームレスなんだよ。


「あの……いい加減笑うのやめてくれませんかね」


「ああ、ごめんごめん。バカにしてるつもりはないの」


「思いっきりしてただろうが……」


「違うよ! フレーズが面白くてね! ちょっとツボに入っちゃっただけ」


「それを世間一般ではバカにしてるって言うんだ」


 だがしかし、惨めなのには変わりがない。

 本来俺ぐらいの歳になれば仕事にも慣れて、人生にも安定を覚え始めるぐらいの時期なのだろうが。どうして俺はこんな場所で、一日暇してなきゃならんのだ。


「大丈夫だよ山本さん」


「何も大丈夫じゃねぇよ……」


「きっといつか、ちゃんと引きこもれる日が来るって!」


「変な同情はやめてくれ、涙が出てきちまう」


 デタラメだが妙に心のこもった一言に、思わず堪えた感情が溢れそうになる。女子高生に慰められるとか、やっぱり俺はどうしようもなく惨めな人間だよまったく。


「てかお前、なんでいつもここに来るんだよ」


「え、なんでって?」


「何の理由も無しに来てるわけでもないんだろ?」


 俺が訊くと、絵舞はキョトンとして首を傾げた。


「ここに来る理由って何か必要だった?」


「いや、別にいらねぇけどさ。お前には友達とか家族とか、もっと一緒にいるべき人は他にもいるはずだろ? なんで俺みたいな落ちこぼれを構うんだよ」


 絵舞との時間を楽しむ反面、ずっと疑問に思っていた。

 なぜ女子高生である彼女が俺を訪ねてここへ来るのか。


 人としての当たり前の生活を営んでいる一般人からしてみれば、橋の下に住んでる俺みたいな小汚いおっさんは、『異質』以外の何者でもないはず。


 その証拠に近所の小学生たちは、よく俺のことを指差して笑ってる。


 敬遠されて当たり前とも言える俺に対して、そのような対応は間違っていないし、むしろそうなって当たり前の立場であることも自覚してる。


 だがどういうわけか絵舞は、俺をさも普通の人間かのように扱う。出会ったあの日からずっと、一般人に向けるそれと何ら変わりない態度で接してくれる。


「何の理由も無しに俺を構うメリットは何だ?」


 だからこそ俺は訊いた。

 根が優しい絵舞にとっては、少しばかり酷な質問だったかも知れないが、どうかこの子には、俺みたいに孤独な人生を歩んでほしくない。


 未来ある高校生らしく、お互いに良い影響を与えられる仲間と共に、その価値にふさわしい充実した時間を過ごして欲しかった。


 それ故の問いだったのだが。


「私に友達がいないからかな」


「えっ……」


 俺の想いとは真逆を行く一言に、準備していた言葉が詰まる。


「友達がいないって、冗談だろ?」


「ううん。ほんとだよ。私クラスで浮いてるから」


「いやいや、そんなこと……」


 そんなことはないだろ。

 そう言いかけて、俺の言葉は途切れる。もしここで無責任なことを言って絵舞を傷つけてしまったら……そう思うと自然とブレーキが掛かった。


「ああ、ごめん。全然そういうんじゃなくて」


 だがどうやらその心の迷いを見透かされたらしく、絵舞は大げさに両手を振ると、不気味なほど落ち着いた口調で言った。


「私は別に友達いないこと気にしてないからさ」


「そ、そうなのか」


「うん、むしろ独りの方が好きだから助かってる」


 一瞬強がっているのかと思ったが、どうやらこれは本心からの言葉のようだった。だとしてもその歳で友達が一人もいないというのは、少し寂しい気もするが。


「それに今は家族とも離れて暮らしてるから、一緒にいるべき人とかはいないかな」


「それはつまり、一人暮らしってことか」


「そうそう」


「若いのに凄いな」


「全然そんなことないよ。すぐ慣れたし」


 そう言うと絵舞は、住宅地がある方を指差した。


「あっちの方のアパートに住んでるんだけどね」


「へぇー、ここから近いのか?」


「うん、歩いて5分くらいかな」


 その方向で歩いて5分というと、公園やコンビニがある辺りだろうか。何にせよここに来るために、余計な遠回りをしていないようでよかった。


「それよりさ、私からも質問いい?」


「ん、何だ」


「あのね、答えたくなかったら全然スルーしてくれていいんだけどね」


 そう前置きして、今度は絵舞が質問を口にする。


「どうして山本さんは橋の下なんかに住んでるの?」


「えっ」


 それは予想をしていたよりも、一歩踏み込んだ内容の質問だった。思わず漏れてしまった声を誤魔化すように咳払いしては、一度頭の中を整理する。


「もしかして訊かない方がよかったかな」


「ああいや、違うんだ。なんて説明したらいいかと思ってな」


 未来ある若者にどこまで真実を伝えていいものか。訊かれたからには詳しく語るべきなのだろうが、世間話として語るには、内容が少し惨すぎる気もする。


「そうだなぁ」


 しばらく悩み、俺はあくまで慎重に口を開いた。


「端的に言えば失業した」


「失業?」


「ああ。前に勤めていた会社が倒産してな、すぐに再就職先が見つかったら良かったんだが、そう上手くもいかなくて。俺には頼れる友人も家族もいなかったから、生きるためには腹くくって、橋の下に寝床を構えるしかなかったわけだ」


 本当はもっと理由はあるが。

 高校生相手に赤裸々にする話でもない。


「要約すると、運が悪かったんだな俺は」


「それってつまり、ずっと独りぼっちだったってこと?」


「まあ、そうなるな」


 独りぼっちという表現が正しいかはわからないが、もし俺の側に頼れる誰かが居たのなら、俺の人生ももう少しマシになっていたかもしれないとは思う。


 まあ所詮、今だから語れるたらればに過ぎないが。


「そう、だったんだね……なんかごめんね、言いづらいこと訊いちゃったみたいで」


「別にいいさ。もう昔のことだからな」


 俺としては全く気にしていないが、どうやら絵舞にこの話は少し重かったようだ。話をした途端、目尻がぐいっと下がったのがわかる。


「ここにはどのくらい前から住んでるの?」


「かれこれ一年くらい前だな」


「一年も⁉︎」


「ああ、それまではまあまあ良い一軒家に住んでたんだけどな。うちのバカ親父が残した借金のせいで、気づいたら家まで無くなっちまってたわ、アッハッハ」


 少しでもこの空気を変えようと強がってみたが、あいにくと絵舞は俯いてばかりで、高笑いする俺には全く気づいていないようだった。


 きっとこの子なりに同情してくれているのだと思う。

 俺みたいな落ちぶれた人間の話を訊いて、まるで自分のことのように受け止めてくれるなんて。ここまで誰かに寄り添える絵舞は、本当に優しい子だ。


「だからまあ、なんだ。お前も作れよ、友達」


「友達?」


「ああ、そしたら少しは人生楽しくなるだろうからよ」


「でも私、友達いなくても十分楽しいよ」


「友達が出来れば今よりもっと楽しくなるかもしれないだろ」


 それにもし自分がどうしようもない窮地に追い込まれた時、独りでどうにかしようとするよりも、信頼できる誰かが側に居た方が心強いに決まってる。


「でもでも、私、山本さんと話せればそれで満足だし」


「俺と話せれば満足って。おいおい、あんまり大人をからかうなよ」


「からかってなんかないよ。ほんとだよ?」


 そう溢す絵舞の表情は真剣だった。

 だからこそ俺はため息を吐いてしまう。


「あのな絵舞、俺はホームレスなんだぞ」


「それはもちろん知ってるけど」


「知ってるならそんな悲しいこと言うもんじゃない」


 本心であるが故にその言葉を肯定することは出来なかった。なぜなら俺がこれを肯定してしまえば、絵舞の価値までもが俺と同等に成り下がってしまう気がしたから。


「いいか、これからは俺みたいな落ちこぼれの相手なんかしてないで、ちゃんと価値のある人間と仲良くするんだ。そうすればきっと将来のためにもなる」


「価値ある人間って、将来って、何」


「将来は将来だ。夢の一つくらいお前にだってあるだろ?」


 絵舞が人を差別しない優しい子なのは知っている。

 そしてその善意を憎からず思ってしまっている自分がいるのも。


 絵舞と過ごすこの時間だけは、自分が『人』で居られるような気がして。こんな自分と向き合ってくれる、誰かと対等でいられるこの時間が、ただただ心地よくて。いつからか俺は心のどこかで、この子を求めてしまっていたんだと思う。



 でも——。



「今日限りで終わりにしないか」


「えっ」


 それは決して許されていい感情じゃない。


「今日で終わりって……?」


「言っただろ。俺はお前の貴重な時間を奪えるほど価値ある人間じゃないんだよ」


 全てを失った俺とは違い、絵舞には確かな未来がある。俺なんかじゃ触れることさえできないような、眩しくて無限大の可能性を秘めた未来が。


 そんな未来ある若者に社会の底辺と成り下がった俺が、いつまでも馴れ馴れしくするもんじゃない。絵舞はもっと自分に利を与える存在と一緒にいるべきなんだ。

 

「お前はもう、明日からここには来るな」


 俺は自分を殺し自ら彼女を突き放した。

 あれだけ良くしてくれた心優しい絵舞を。


「俺は独りでも生きていける。だからもう構うな」


 心が痛まないと言えば嘘になるかもしれない。

 だが俺は一人の大人として、この子を自分の二の舞にはさせたくない。絵舞にはこれからもずっと、心から笑って生きていて欲しかった。


「わかったら今日はもう家に帰れ。あそこに置いた鞄忘れんなよ」


 一方的に語っては意味もなく立ち上がり、絵舞から距離を置くようにして、川の方へと荒れた地面を進む。


 今俺の後ろであの子はどんな顔をしているのか。少し気になりはしたが、俺は決して振り返らずに、見えるはずもない魚を探して、じっと水の中を見据えた。


 これでいい。

 そう何度も自分に言い訊かせながら。

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