9話 唐揚げ
久方ぶりに髭を剃った。
この顎のツルツル感。
今までにはなかった快感だ。
「山本さんご飯だよ——って、髭剃ったんだね」
「ああ、絵舞か。ビックリした」
ついつい鏡に夢中になっていたせいか。
洗面所の扉が開いたのに気がつかなかった。
「撮影はもういいのか?」
「うん、今終わったとこ」
「そうか」
わざわざ俺を呼びに来てくれたようだが。
鏡にキメ顔してたのとか、見られてないよな……。
「ずっと洗面所にいるから何してるのかと思った」
「つい神経質になっちまってな。もしかして髭剃りの音うるさかったか?」
「ううん、全然大丈夫だよ。私も揚げ物してたから」
そう言うと絵舞は、相変わらずの薄着のまま無防備に距離を詰めてくる。
胸の谷間や黒のブラ紐が、俺視点からモロ見えになっていることなど気にもせず、俺の顔を見上げるようにして眺めては。
「髭無い方が断然いいね」
やがて笑顔でうんうんと頷いた。
「何というか、一気に若返った感じがする」
「そ、そうか?」
嬉しい一言に感化されてもう一度鏡を見れば。確かに鏡に映る自分の顔そのものが、数日前とは全く違う気がする。
何と言うかこう。
汚物っぽさがなくなったような。
「髭、そんなに似合ってなかったかな」
「まあ山本さんどちらかといえば塩顔だから」
「塩顔? 何だよそれ悪口か?」
「違う違う。色白で整った顔立ちってこと」
そんな奇妙な単語訊いたことがないが。
「てかお前今、俺の顔が整ってるって」
「うん。普通にイケメンだと思うけど」
耳を疑うような発言に眉を顰めれば、当人はとぼけ顔で首を傾げる。そりゃ自分の顔をブサイクとまでは思わないけど、この廃れ面がイケメンって。
「やっぱりお前物好きだな」
「物好き……だから好奇心旺盛って——」
「好奇心だけじゃそんなズレた一言出ねぇよ普通」
歯に衣を着せずに言えば、絵舞の頬はぷくっと膨らんだ。
「今のお前、フグみたいだぞ」
「もう! そっちの方が悪口じゃん!」
そして両手で胸をポコポコと叩かれる。
痛くはないが、まあまあ怒ってるっぽい。
「あんまり意地悪すると、夕飯抜きにするからね!」
「すみません、全部冗談です、はい」
「もう、山本さんはすぐそうやって調子乗るんだから」
文句を垂れ、足早に居間に向かう絵舞。
俺は首を垂れながらその背中を追った。
洗面所を出た瞬間香る、香ばしい匂い。
見ればテーブルには、昨日以上に豪華な食事が並んでいた。
「お、今日の夕飯は唐揚げか」
「うん。ちょうど鶏肉が余ってたから」
唐揚げとご飯に味噌汁。
それにサラダなんかもある。
「相変わらず凄い手の込みようだな」
「これでも一応料理系YouTuberですから」
唐揚げなんて最後に食べたのは何年前だろう。
思えば学生の頃は、母さんが作ってくれた唐揚げが大好物だった。ホームレスになって食べる機会は無くなったが、まさかこんな形で再会出来るなんて。
「揚げたてのうちに食べよ」
「お、おう。そうだな」
絵舞と向かい合って座り、共に手を合わせる。
好物を目の前にしたからか、若干の緊張を覚えたが、それ以上の期待を胸に俺は唐揚げに箸を伸ばした。
慎重に口元へと運び、ゆっくりと歯を立てる。
「あふっ……」
カリッという音と共に、閉じ込められていた肉汁が一気に溢れ出した。
口の中に広がるのは、鶏の旨味とニンニクと生姜の香ばしい風味。咀嚼すればするほど口内の幸福度が増していき、やがて俺の箸は無意識のうちに白いご飯へ。
この絶妙に味付けされたしょうゆ感。
それにサクサクな衣とジューシーな鶏。
心なしか母さんが昔作ってくれた唐揚げによく似ている。
これだけ絶品な料理を、絵舞は一体誰に教わったのだろう。実家にいた頃、母親にでも教わったのか。だとするなら絵舞の母は、随分と良い教育をしている。
「どう? 美味しい?」
「あ、ああ。凄く美味い」
「それならよかった」
美味過ぎて感想を言うのを忘れていた。
こんなに美味いものを連日食えて、俺は幸せ者だな。
「カップ麺とどっちが美味しい?」
「そりゃ唐揚げに決まってるだろ」
「ほんと? 私の唐揚げの方が好き?」
「たりめぇだ。こんなの比べるまでもねぇよ」
一切の迷いなく言い切れば。
何やら絵舞はにんまりとした笑みを浮かべた。
「じゃあ私は山本さんのお嫁さんになれちゃうね」
「はっ? お嫁さん?」
「うん。だってカップ麺より好きなんでしょ?」
したり顔でそう言われて思い出す。
そういえば先日、そんな冗談を言っていたっけ。
「あ、あれはだな、ただのジョークで」
「えー、でもあの時の山本さんマジっぽかったよー」
「アホ……カップ麺を嫁にしたいおっさんがいてたまるか」
それくらい好きという意味合いで言ったまでのことだ。
カップ麺よりも絵舞の作った唐揚げが好きだからといって、女子高生を嫁にできるわけがなかろう。
「とにかく、俺に女子高生を嫁にする趣味はねぇ」
「もし私が女子高生じゃなかったとしたら?」
「そりゃあ……」
一瞬言葉に詰まると、絵舞は思いっきり吹き出した。
「山本さん、顔真っ赤だよ?」
「う、うっせ! いいから晩飯食うぞ!」
「はーい」
「ったく……」
絵舞のこういう悪戯なところは、どうしても苦手に思ってしまう。
そんな夕飯の一時だった。
* * *
「まだ寝ないの?」
敷いた布団の上で動画を編集していると。
ベッドでケータイをいじっていた絵舞は言った。
「キリいいところまでやっときたくてな」
「でもその動画明日投稿するやつだし、急がなくてもいいよ?」
そうは言うが、どうもまだ寝付けそうにない。それにこれは俺が絵舞から任された唯一の仕事でもあり、俺がここに居る意味でもあった。
生活必需品を買ってもらった上、美味い飯や温かい寝床まで用意してもらうからには、何かしていないと気が収まらない。
それと何より。
絵舞より先に寝るのは気が引けた。
「もう少しで終わるから、先寝てていいぞ」
「そっか。でも無理だけはしないようにね」
「おう、さんきゅな」
微笑み混じりにそう言って、俺は編集作業に戻る。
やはりパソコンに触れている今の時間が、一番落ち着く気がした。
俺の存在が認められている唯一の時間のような。
そんな安心感が、動画を編集する今にはあった。
しばらくテロップを中心に作業を進めて。
一段楽したので、今日はこの辺りで終いにする。
「あ、編集終わった?」
「なんだ絵舞。起きてたのか」
パソコンを閉じて寝ようとしたところ。
ベットで横になっていた絵舞が、ゴロンと身体をこちらに向けた。
「先寝てろって言ったろ」
「うん、でもなんだか寝付けなくて」
「お前もかよ」
やれやれと頭を掻いては、ひとまず今日買ったばかりの布団に横になった。腰や背中が硬い地面から守られてるこの感じ。非常に良い。
「こうしてると、何だか家族みたいだね」
「馬鹿言うな。俺はお前の家族じゃない」
「そうだね。山本さんは山本さんだ」
すぐ隣から飛んでくる、何とも絵舞らしいその言葉。
考えてみれば家族以外の誰かと、ましてや女子高生と並んで寝る機会など普通は無いから、今もの凄く妙な気分だ。
「すまんな。俺のせいで寝付けなかったろ」
「ううん、ちょっと考え事してただけだから」
天井に灯った小さな光を見ながら会話する。
「そういや、お前の実家ってどこなんだ」
「福島の山の方だけど、どうしたの急に」
「いや、ちょっと気になってな」
福島ということは、そう簡単に帰れる場所でもないか。
「よく一人で実家を出る気になったな」
「まあ色々と事情があったから」
「事情?」
気になって折り返したものの。
しばらく待っても絵舞からの返事はない。
「そういえば、新しい布団の寝心地はどう?」
「あ、ああ。一言で言えば最高だな」
「山本さんずっとダンボールで寝てたもんね」
「言うな言うな。思い出すと泣きそうになる」
毛布の中でクスクスと笑う絵舞。
さっきのは、俺の声が届いてなかっただけっぽいな。
「長話も良くないし、そろそろ寝よっか」
「そうだな。もう日付変わるしな」
「電気真っ暗がいい? それともこのまま?」
「お前の好きにしていい。俺はどっちでも寝れる」
「それじゃこのまま小さい電気付けておくね」
「おう」
そうして俺たちは眠りについた。
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