5話 マイホーム

 普段とは違う、鼻腔を刺激するような出汁のいい香りで目が覚める。ぼんやりとした意識のまま重い瞼を上げれば、そこには見覚えのない天井が。


「どこだよ、ここ」


 いつもの冷たいアスファルトじゃない。俺の下には柔らかな絨毯が敷かれていた。おまけに邪魔な日差しもなく、寝起きに眼球を焼かれるような不快感もない。


「ん……毛布……?」


 むくりと身体を起こせば、肩に掛けられていた毛布が、するりと腰に落ちた。この奇妙な現実に、今だぼやけたままの目を、しぱしぱとさせていると。


 突然俺の視界に、エプロン姿の女子高生が飛び込んで来た。


「あ、山本さんおはよー」


 女子高生は俺に気づくと、笑顔で手を挙げた。

 奇妙に更なる追い打ちをかけるようなその出来事に、一瞬脳が麻痺するも、徐々にはっきりとするその顔立ちを見て、俺は今の自分が置かれている現状を思い出す。


「ああ、なんだ絵舞か」


「なんだって何よ。誰だと思ったの?」


「見知らぬJKに誘拐されたのかと思った」


「ゆ、誘拐……? 私そんなことしたつもりないけど」


 不安げな顔をする絵舞を、俺は冗談だとなだめる。

 そういえば昨日、俺はこのどこまでも親切な女子高生に夕飯をご馳走されたのだ。おまけに風呂や洗濯まで面倒をかけて、最終的には一泊までしちまった。


「とりあえず顔でも洗って来たら?」


「お、おう。そうさせてもらう」


 言われるがまま立ち上がり、洗面所に向かう。

 途中横目で台所を見れば、どうやら絵舞は朝ご飯を作っているようだった。当然のようにお椀が二つ用意されているのには、申し訳なさと少しの安心を覚えた。


 冷たい水で顔を洗い、俺は居間に戻る。

 するとテーブルには、朝ご飯が並び始めていた。


「すまんな、何から何まで」


「いえいえ、好きでしてることなので」


「何か手伝うことあるか?」


「ううん、あとご飯よそうだけだから大丈夫」


「そうか」


 言われて俺は、昨日と同じ場所に腰を下ろす。

 そして思い立ったように台所を見たが、どうやら今朝は何の撮影もしていないようだった。エプロンの下に制服を着てるあたり、このあと学校に行くのだろう。


 ならばその時にでも、一緒にここを出るとしよう。

 そう思っているうちに、ご飯が到着し朝食となった。


 今朝のメニューは炊きたてのご飯にわかめと豆腐のお味噌汁、そして、出汁と醤油が効いた卵焼き。朝ご飯には丁度いい顔ぶればかりが揃っていた。


 10分ほどでさらっと食べ終わり、俺はいち早く自分の食器を片付ける。その際せめてもの礼儀として、絵舞の使った食器も片付けさせてもらった。


 食器を一通り片し終え、居間に戻る。

 すると絵舞は、小さめの紙に何かを記載していた。


「あ、山本さん。片付けありがとね」


「ああいや、それはいいんだが」


 覗いてみると、どうやらそれは携帯番号のよう。


「これ、私のケータイの番号と家の鍵ね」


「え……これを俺に預けてどうするつもりだよ」


「どうするって、私今から学校行かないとだから」


 そう言うと立ち上がり、鞄を肩に下げる絵舞。

 そのままスタスタと玄関へ向かい、おもむろに靴を履き始める。


「今日は3コマで終わりだから、帰りは12時過ぎくらいだと思う」


「いやいや待て、俺も一緒に」


「じゃあ行ってきまーす」


 呼び止める俺にかまわず、ひらひらと手を振りながら行ってしまった。ガチャリと閉まる玄関の前で、俺は帰るという選択肢を失い立ち尽くすしかない。


「俺、ケータイもってねぇっての……」


 連絡先を渡されたところで、俺には連絡できる手段がなかった。それに家族でもない見知らぬおっさんに家の鍵を渡すとか、やっぱりあの子はどうかしてる。


「昨日洗濯した服はベランダに干してあるからね」


「おおぅ……りょうかいした」


「じゃあね〜」


 一度は締まった玄関が急に開いてドキッとしたが、それだけ伝えると絵舞はすぐに行ってしまった。俺は絵舞が階段を下っていくのを確認した後、施錠をして居間に戻る。


「さて……これからどうしたものか」


 壁に掛かった時計によれば、現時刻は7時半過ぎ。

 確か絵舞は昼過ぎに帰ると言っていたから、このままだと5時間近くも、この家主不在の女子部屋に、たった独りで居る羽目になってしまう。


「絵舞の部屋……か」


 独りになったからだろうか。

 絵舞が居た先ほどまでとは部屋の空気がまた違った。


 改めて見ると、JKらしくない質素な部屋だ。

 ここへ来る前は、ぬいぐるみとか、化粧品とか、そういう物が置かれている部屋をイメージしていたのだが。あるのは生活するのに必要最低限なものばかり。


「あの棚……」


 彷徨っていた俺の視線は、やがてとある棚の前で留まった。

 思い返せば昨日、絵舞は下着を探してあの棚を漁っていたっけ。

 ということはつまり、あの棚にはあの子の下着が……。


「……って、馬鹿か俺は」


 魔が差した思考を一瞬で振りはらう。

 家主不在を狙って下着を漁るとか、普通に考えて最低だ。


 そもそも俺は大人で、あの子はまだ子供だろう。

 下着一つで何をこんなにもドキドキする必要がある。


「はぁ……寝るか」


 このままだといずれ心が疲れる。

 人の家で勝手に行動を起こすのもまずいだろうし。

 悩んだ結果、俺はひとまず絨毯の上に横になることにした。


 幸いまだ少し眠い。

 ここは昼過ぎまで寝て、絵舞の帰りまで時間をスキップするのが得策だろう。






 * * *






 二時間後目が覚める。

 起きて時計を見たときは、まだ9時半かと絶望したが、そこから二度寝をしたり、ぼーっと天井を眺めているうちに、気づけば時計の針は11時を記していた。


「あと一時間……長いな」


 普段ならいくらでも暇を受け入れられるのに、今日に限っては妙に心が落ち着かない。やはり他人の、それもJKの家に一人で居るとなると、知らず知らずのうちに気を張っているのだろうな。


「……帰るか」


 このまま1時間、気を張りながらここにいるのも一つの選択肢ではある。が、どうせ暇なら散歩がてらに、我がホームの様子を見に行く方がマシだろう。


 預かった鍵をどうするかだけが問題だが、よくよく考えればここが絵舞の家なのはわかっているし、絵舞が帰宅しそうなタイミングで、またここへ返しにくればいい。


「服は……バッチリ乾いてるな」


 俺は絵舞から借りた服を脱いで、洗濯カゴに入れた。代わりにベランダに干されていた俺のジャージを着れば、柔軟剤のいい香りが瞬く間に俺を包み込む。


 念入りに戸締りを確認した後、俺は家を出た。

 すると相も変わらず、雲一つない青空が上空を占めていた。


 肌を刺すような日の光に晒されながら、俺は独りマイホームを目指す。今までこそ不快でしかなかったこの日差しも、不思議と今日は、清々しさを感じるいい光だった。


 それに思いのほか、いつもよりも足が軽い。

 これなら五分と掛からず、橋の下に着きそうだ。


「ん」


 マイホームのすぐ近くまでやって来て。

 俺は景観に合わない謎の自転車に眉を顰めた。


「なんだこのチャリ」


 後ろに白いカゴが付いているからして警察か。

 だとすれば、こんなところに一体何の用だろう。


「お巡りさんも散歩でもしてるのかね」


 特に気にせずマイホームに続く階段を下る。

 そして影の掛かった橋の下を覗いてみれば。


「ん……」


 マイホームよりも先に、二人の警官が目に入った。

 何やら警官たちは、俺の寝床をまじまじと見つめている。


「何の用だよ……」


 その背中からして、気軽に声を掛けていいような空気でもなさそうだが……。


 と、ここでようやく俺の存在に気づいたようで。

 警官は揃って振り向き、俺に訝しげな視線を向けた。


「あ、もしかしてあなたがここの住民?」


「え、あ、いや……まあ、そうですけど」


「なら丁度よかった。今日限りでここ、使えなくなるから」


「えっ……」


 男性と女性。特に年齢が俺より下であろう、男性の警官から前置きもなく出たその言葉に、俺の脳はフリーズする。


「つ、使えなくなるってのはどういう」


「言葉通りの意味だよ。あたなには今日限りでここを開けてもらうことになる」


 訳がわからず眉を顰めると、頬を掻いた女性の警官が代わって続ける。


「実はね、ここ最近あなたに向けての苦情が凄くてさ」


「苦情……ですか」


「そうそう。この辺りは子供たちの通学路にもなってるから、あなたみたいな人が住んでると、どうやら学校に保護者からのクレームが行くらしいんだよね」


 そんなことを迷惑そうに言われましても。

 俺はこの辺りを通る子供たちとは無関係ですし。むしろ一方的にバカにされて、クレームを入れたいのは俺の方なんですけど。


「だから悪いんだけど、今すぐここを出て行ってもらえる?」


「い、いや……今すぐここを出て行けったって、行く場所が」


「行く場所ならあるでしょ」


 女性の警官は自信に溢れた面持ちで言った。


「どうやら昨日はそこで寝泊まりしてたらしいけど」


「えっ……な、何のことですか」


「とぼけないでよ。夜中見張ってたからわかるのよ」


 その一言で、俺の反論する気力は消滅した。

 それと同時に全身から一気に血の気が引いて行く。


「あなた、昨日はここに居なかったでしょ」


 何となくではなく、確信を持って放たれた警官のその指摘は、後ろめたさで溢れる俺を絶望させるのに、十分過ぎるほどの威力を持ち合わせていた。そしてその指摘は、やがて追い込まれた俺に『犯罪』という二文字を彷彿とさせる。


「私たちも暇じゃないの。だから早いこと従ってくれると助かるんだけど」


「し、従う……それはつまり”自首”しろと……?」


「そうそう、早く”自粛”してここを開けてくれないと。正直言って迷惑よ」


 女子高生の家で一晩寝泊まりした。

 それは確かに法的に見ればアウトだが、だからと言ってよからぬ事を仕出かした訳でもないし、むしろ俺は紳士的な対応を心がけていたつもりだ。


「あ、あれは、そんなんじゃなくてですね」


「そんなんじゃないって何が」


「だからその……成り行きと言うか、何と言うか」


 ここで素直に引き下がったら、間違いなく俺は逮捕される。

 そしてホームレスである資格さえも剥奪されて、あれほど良くしてくれた絵舞にも、余計な迷惑を掛けてしまうことになるのは避けられない。


 いくら相手が社会の秩序を守る法の番人様とはいえ、こんな不当な逮捕を許していいはずがなかろう。絵舞のためにも、俺が潔白である事を証明しなくては。


「とにかく、他に行く場所があるならそっちに移動すること。いい?」


「えっ……あっ……はい? い、移動ですか?」


「何度もそう言ってるでしょ。何今更驚いてるの」


 そう言うと警官は、俺が寝床としていたアスファルトへ。

 二人掛かりで地面に敷いていたダンボールを引っ剥がす。


「え、何してんすか」


「何って、あなたの居場所を撤去してるのよ」


 まるで虫でも払うかのように、警官は軽い口調で言った。

 俺にかまわず、黙々とマイホームを破壊するその様子から、自分が大きな勘違いをしていたことに気づかされる。





「それじゃ、もうここには住まないこと、いいね」


 僅か数分で、俺の寝床だった場所はただの更地に。

 ダンボール一つ残らないこの不条理に、俺はただ立ち尽くすしかできない。


「はぁ……ようやく面倒な一件が片付いてよかったよかった」


 はっきりと訊こえてくる、警官たちの会話。

 それを背中で訊いているうちに、俺はようやく現状の惨さを理解した。


 俺は今、自分の居場所をあいつらに奪われた。

 一年間住み続けてきた、存在することを許された唯一の居場所を。


「クレームって、ここにはもう住むなって……」


 ……ふざけるな。

 フツフツと湧き上がってくる怒りを、ギリギリのところで何とか飲み込む。


 ただでさえ、他人に迷惑を掛けない生活を心掛けてきた。

 にもかかわらずこの仕打ちだ。

 当然納得できるわけもないし、怒りを抑えるのがやっとだった。


「あ、そうだ、カップ麺」


 何も無いアスファルトをぼーっと眺めて思い出す。

 あの警官供、俺の唯一のご馳走まで持ち帰りやがった。


「ちょ! その袋! それだけは返してくれ!」


 こうして俺はたった一つの居場所を失った。

 大好物のカップ麺だけは何とか守りぬけたからよかったが、それ以上に失ったものは大きく、崖っぷちだった俺を絶望させるには十分過ぎる痛手だった。

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