13話 味方
俺は5年前に母を亡くした。
たった一人の家族だった母を。
死因はストレス過多による心疾患だった。
俺が高校生の頃に、遊び人だった父が膨大な借金を作って夜逃げし、以来俺と母は、取り立て屋に追われる貧乏生活を余儀なくされた。
当然のように大学に進学するという目標を断念し、ひたすらアルバイトと就職活動に明け暮れていた俺にとって、学校で目にする全てのことが、まるで違う世界での出来事のように映っていた。
部活に勉強、そして恋愛。
目標に向かって努力する彼らには確かな未来があって。同じ高校生であるはずの俺には、就職という決められた道しか存在しない。
もしかして自分は可哀想な人間なのだろうか。
それに気づき始めた頃にはもう、俺の周りには誰もいなくなっていた。
まだ若い高校生にとって、俺の境遇はいささか刺激的すぎたのだろう。俺だって逆の立場だったら、親父が夜逃げしたやつと今まで通り仲良く出来る自信はない。
初めて孤独というものを噛み締めたあの時のことは、今でもよく覚えている。
それまで普通に話していたクラスの連中も、担任の先生も。みんながみんな俺のことを哀れむような冷たい目で見る。まるで捨て猫でも見てるかのような目で。
以来俺は誰とも関わらずに高校生活を過ごした。
俺が絡めば周りの空気が壊れるのは知っていたから。
やがて俺は就職し、借金返済のために死に物狂いで働いた。
その頃の母はというと、3つの仕事を掛け持ちし、毎日の睡眠時間も3時間ほど。今思い返せば、よくそんな生活が数年続いたなと感心さえする。
『ごめんね。母さんもう疲れちゃった』
最後に訊いた母の声は酷く脆かった。
忘れたくても、脳裏にべったりこべりついて離れてくれない。
そんな壮絶とも言える人生を歩んで来たからだろうか。
絵舞の話を訊いて真っ先に思い浮かんだ言葉はこれだった。
「お前はバカか」
「えっ」
拍子抜けしたように俺を見る絵舞。
今にも泣き出しそうな面に嘆息し、俺は続ける。
「お前が普通じゃなかったら俺は一体どうなる」
「どうなるって……」
「さっき言ったよな。みんなにとって私は異質だって」
「うん……」
「お前はそれを誰かに言われたりしたのか?」
訊けば、絵舞は小さく首を横に振る。
「ならなんで決めつけるんだよ」
「だって私、クラスで浮いてるから……」
「お前がそう思ってるだけで、実際は違うかもしれないだろ」
口ではそう言ったものの。
正直絵舞の気持ちは何となくわかる。
俺も高校時代は自らを異質だと思っていた。
誰に何を言われたわけでもないのに。
俺は勝手にそう解釈して、自分の殻に引きこもったんだ。
「仮に異質だとしてもな、それの何が悪いって話なんだよ」
「悪いよ……だってそのせいで大勢の人を傷つけるんだもん」
「傷つけようが何しようが、それだって立派なお前の個性だろうが。自分では気にくわないのかもしれないけどな、こちとらお前のその個性に人生救われてんだぞ」
勢い任せにそう言って、手に持ったままだった茶碗を置いた。
そして今だ辛気臭い顔つきの絵舞を指差す。
「お前が居ていいって言ったんだろ」
「えっ」
「俺が居場所を失った時、お前がここに居ていいって言ったんだろうが」
「そ、そうだけど」
「なら同居人に遠慮なんてしてんじゃねぇよ」
力強く言うと、絵舞はパチパチと数回瞬きした。
「何も心配しなくていいとか、私は独りに慣れてるとか。随分と勝手なこと言ってたけどな。お前がそんな顔をしてると、せっかくのご馳走が不味くなるんだよ」
「や、やっぱり今日の晩御飯微妙だったかな」
「ああ微妙だね。味も薄いし旨味もねぇ」
ご馳走になってる身で失礼極まりないが。
これだけははっきりと言っておかなければならない。
「でもな。それは料理が悪いってわけじゃねぇんだ」
「えっ、それってどういう……」
「お前がそんな顔してるから、飯も不味くなるんだよ。俺だってあまりお節介を焼きたくはないが、だとしても今のお前は、痛々しすぎて見てられねぇんだ」
俺はあの日、絵舞に救われた。
もしこの子と出会っていなかったら。
今頃どこで何をしてるのかわかったもんじゃない。
「なあ、せめて俺にだけは遠慮しないでくれよ」
彼女の一言で人生が大きく変わった。
ならその恩返しをどうか俺にさせてほしい。
「俺は力になりたいんだ。どこの誰でもない、お前の力に」
「でも、いいのかな。私なんかが誰かを頼っちゃって……」
「そのために俺はここにいるんだ。頼ってくれなきゃこっちが困る」
そう言うと絵舞は俯けていた顔を上げた。
グッと歯を食いしばっているが、その瞳には涙が浮かんでいる。
「ぐすっ……山本しゃん……」
やがて彼女の頬を大粒の涙が伝った。
したりしたりと涙が膝に落ちていく最中。
俺は彼女のそばに歩み寄り、そっと頭に手を乗せた。
「何でもいいから、ぶっちゃけてみろ」
「うん……」
両手でグッと涙を拭った絵舞は、震えたままの唇で呟く。
「山本さん……」
「ん」
「私って、生きてる価値あるのかな」
今にも消えそうなほど力のない声に、俺は息を飲んで折り返す。
「どうしてそう思うんだ」
「私ね、実はこの間同じクラスの男の子に告白されたの」
「もしかして、昨日の夜に悩んでたやつか」
「うん。それでね、私これといった理由もなしに断っちゃって。そしたらクラスの女の子たちから嫌がらせされるようになってね——」
絵舞は言葉を選びながらも、その胸の内をありのままにさらけ出してくれた。
絵舞がクラスの人気者だという男子に告白され、それを断ったこと。それに対してとある女子たちが嫉妬し、彼女たちから執拗な嫌がらせをされること。
絵舞はこれらを、自分が相手の想いに応えられなかった故の出来事だと言った。こんな風にみんなを不幸にしてしまう自分は、生きている価値がないのだと。
「ねぇ山本さん。何で私は私なんだろう」
確かに、そう思ってしまう気持ちはわからんでもない。
俺だって警察にマイホームを奪われた時は、同じ想いを抱いていた。
よかれと思って橋の下に住んで、誰とも関わらない、誰にも迷惑をかけない生活を心がけていたからこそ、居場所を失ったあの瞬間は、自分の存在意義を疑った。
俺は生きている価値のない人間なのだと、何度も自分で自分を卑下した。
絵舞はとても心優しい子だ。
ホームレスだった俺に迷わず手を差し伸べてくれるくらいに。
でもその優しさ故に、傷ついてしまうこともあるのだと思う。
俺はずっと絵舞のことを、歳の割には大人びている強い子だと思っていた。一度人としての道理から外れた俺なんかよりも、よっぽど人として完成されていると。
でもそれは間違いだった。
やっぱりこの子も高校生なのだ。
高校生らしく悩みもするし、高校生らしく傷つきだってする。
独りは慣れてる。
口では何度もそう言っていたが、この子の本音はそうじゃなかった。
今までずっと独りで生きようとして来たその背景に、誰かに認められたい、愛されたいという想いが、確かに包み隠されていた。
だが俺は今日まで、それを見抜けなかった。
その結果がこれだ。目の前で絵舞を泣かせてしまった。
「私、もう学校行かない方がいいのかな……」
「そんなはずない。お前が居なくなって寂しがる人間は大勢いる」
「でも私、誰も幸せに出来ない疫病神だから……」
「お前みたいな優しい心の持ち主が、誰も幸せに出来ないわけがない」
「でも——」
慰めるために繕える言葉はいくらでもあった。
でもそれだけじゃ、涙に塗れた彼女の心は拭えない。
「や、山本さん……? 急にどうしたの……?」
「いいから。じっとしてろ」
思いつきだったのかもしれない。
何かに感化されたように、俺は力強く絵舞を抱きしめた。
言葉は、何もかけなかった。
ただただギュッと、孤独に泣く彼女を両手で包み込む。
それがこの子のそばに居る大人としての、一番の務めだと思ったから。
「いいか絵舞。辛い時は泣いていいんだ。とことん甘えていいんだ。自分の価値なんて自分自身で悩んでも仕方のないことじゃないか」
自分の周りには誰もいない。愛し愛される家族すらも。まるで空白のような日々を過ごす虚しさ。誰かの愛を欲する、誰かに自分を理解してほしいその気持ち。
失って初めて気づく、そんな人として当たり前の感情を、俺だけは理解してあげられる。
「お前はあの時、生き場所を見失いかけていた俺に確かな価値を見出してくれた。俺という一人の人間が、お前の一言で救われたんだ」
絵舞の傷ついた心に、直接語りかけるようにして続ける。
「考えてもみろ。人生諦めかけてたおっさんが、もう一度立ち上がったんだぞ? そうさせただけで、十分お前の存在価値になり得るだろ」
「でも、それは山本さんに動画を編集してほしかったからで……」
「理由なんて何だっていいんだ。大事なのは”今”なんだよ」
あの時の絵舞にどんな考えがあったのかはわからない。
だが事実、俺はこうして新しい居場所を得ることが出来た。
この結果をくれた絵舞が、無価値な人間なはずがない。
「美味い飯が食えて、毎日ゆっくり風呂にも入れて、暖かい布団で寝れる。そんな幸せな”今”を俺にくれたのは——絵舞、お前なんだよ」
どうかこの子には、自分の価値を正しく受け止めて欲しい。
過去の俺のように、青春を、辛く苦しいものにはしてほしくない。
そう願った俺の脳裏に、彼女を象徴する一つの事実が浮かんだ。
「お前は人気YouTuberなんだろ」
「えっ……」
「人気YouTuberの『エルマ』には、15万人の登録者がいる。それだけのファンに支えられてる、愛されてる人間が、他にも当たり前にいると思うか?」
熱く語りかけると。
俺のすぐ隣で、絵舞の髪がファサファサと横に揺れた。
「ならそれは十分お前の価値になりうる凄い事実なんじゃないのか?」
今度はうんうんと、何度も頷いている。
「じゃあ生きてる価値あるのかとか、そんなことで悩む必要なんてないだろ」
そうだ。
この子の後ろには、たくさんのファンがついている。
もちろん動画編集者である俺も。
「安心しろ、お前は独りなんかじゃない」
「うん……」
「15万人プラスアルファの心強い味方がついてる」
「うん……!」
「だからもう、泣くな」
すんすんと、鼻を啜る音が訊こえる。
だいぶ一方的に語ってしまった。
でも、伝えたいことは言えた気がする。
俺の想いは絵舞の心に届いただろうか。
「山本さん」
「ん」
「苦しい」
「……っ⁉︎」
その声で、高ぶっていた気持ちが一気に静まる。
そういえば絵舞を抱きしめたままだった。
俺は飛び退くようにして、絵舞から身を引いた。
「す、すまん!」
「ううん、大丈夫。お陰で元気出た」
まだ瞳に涙が残る彼女は、にへらと柔軟に笑った。
「そうだよね。私は『エルマ』だもんね」
自分に言い訊かせるように言うと、残っていた涙を拭う。
「たかが数人のアンチに心が折れてたら、それこそファンに怒られちゃうよね」
「そうだな。特にお前のファンは過激派が多いからな」
「もー、人のファンの悪口言うのはやめてよー」
あはは、と豪快に笑い合った俺たち。
張りつめていた空気に、ようやくゆとりが回帰した。
「でもありがとね」
「おう」
「山本さんが居てくれてよかった」
そう語った絵舞の笑顔にはもう、先ほどまでの迷いは無かった。学校でのことも、それ以外のことも、今のこの子ならきっと乗り越えていける。
それでまた挫けそうになった時は。
俺がまたその背中を押してやればそれでいい。
何度でも、何度でも。
絵舞が心から笑える、その日まで――。
「飯の途中だったな。さっさと食っちまおうぜ」
「うん、そうだね」
互いの心に初めて触れた、この夜。
俺たちは今日、もう一つ深い絆を築くことが出来たような。
そんな気がした。
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