契り

《割烹 咲良多さくらだ》の店主、桜田は自慢の出刃包丁を砥いでいた。砥石の上を円弧を描くように刃が滑っている。ある程度経ったところで切っ先を照明に当て、指の腹で磨ぎ具合を確かめた。

 扉が軽い音を立てた。旧知の佐々木が姿を見せた。佐々木は小学高学年からの幼馴染で、今は前科少年の更生に与力している。少年院を保釈された少年たちの保護司と言う訳だ。

「しばらく振りだな、やっちゃん」目尻のしわを深くさせる佐々木を不機嫌な態度で出迎えた。久しく顔を見せなかった佐々木が開店前のこのタイミングで顔を出すと言うのは、例の頼み事に違いないからだ。

 七年ほど前、ある少年院上りの男を引き受けた桜田だったが、半年ほど経ったある日、店の売り上げ金を持ち逃げして姿を消した。程なく捕まった男は、動機について、自分を見下し偉そうな態度が許せなく、思い知らせてやろうと思ってやった、と供述した。

 初見は真面目そうで罪についても反省の色を示していた男を歓迎した桜田だったが、佐々木からの、厳しく接してやって欲しい、との言葉から一般に入ってくる弟子と同じように、愛を以って厳しくした。その想いを裏切りという形で踏みにじられたのだ。

「俺ゃごめんだぜ。あんな想いをさせられるのは一度でもう沢山だ」桜田は包丁の磨ぎが不足と見えて再び砥石に向き合い出した。

「そう言わねぇで頼む。今度の少年やつはやっちゃんと同じなんだ。母ちゃんが男に走って放ったらかしって境遇やつでな。一つ違うのはやっちゃんにはウチの母ちゃんがいた。そいつにはいなかった。分かるだろ?なぁ」佐々木の言うようにいわゆる桜田はネグレクトを受けていた。そんな桜田を救ったのが佐々木の母親だった。佐々木の母親は自分の子供と分け隔てなく接してくれ、食事の行儀作法が悪いだの宿題は出来なくともちゃんとやって提出しろだのと叱ってくれた。これは個人差はあろうが、桜田の場合は放って置かれた事が寂しさとなり、その反動から佐々木の母親の対応が嬉しく思えたのだ。

 そんな想いを抱えて育った桜田にとって、その少年の事は、他人事と捨て置く事の出来ない事由であった。そうして吉田は桜田の弟子入りを果たした。

「吉田 博史っす。り…料理頑張りたいんでよろしく頼むっす」拙い口調を精一杯のやる気に乗せて挨拶した。この態度を桜田は生意気に感じた。何より言葉使いがなっていない。この状態でお客の前に立たせるとなったら、店の看板に傷を付け兼ない。

「お前はとりあえず裏で皿でも洗っとけ。とてもじゃねぇが客前には立たせられねぇ」

「うっす」こんなやり取りから始まった。

 二日目には営業中の厨房奥から破裂音がした。吉田が皿を割ってしまったのだ。この店では滅多にそんな事もない為、お客は騒然となってしまい、桜田は平身低頭に謝った。

「別にわざとやったんじゃねぇだろが」辛辣に注意する兄弟子に腹を立て、吉田が言い返した。

「態ととかそういう事を言ってんじゃないんだよ。ここはお客様のお口に入る物を扱ってるんだ。もっと集中して細心の注意を払えって言ってんだ」こんな事が幾度か起きたが、その度に吉田は我慢した。しかし桜田の目には、何度言っても直らないのはきっと素直さが足りないからであり素質がないから、と映った。

 そして事件は起きた。営業終わりにいつものように兄弟子から叱責を受けた吉田は堪り兼ねて兄弟子の胸ぐらに掴みかかってしまった。その行動で更なる罵倒を浴びる吉田だったが、側で聞いていた桜田は拳で吉田の頬を殴打した。

 壁に背を打ち付けた吉田は赤く染まった口元を悔しそうに噛み締め桜田を睨み付けた。

「なんだ、その目は。手前ぇなんかとっとと出て行きやがれ」吉田はその言葉を受け、板前帽と前掛けを地面に叩きつけ、捨て台詞を残して出て行った。

 その日の夜半に、次の日の仕込みの準備を一人していた桜田の元に、吉田が帰って来た。そして入店祝いにプレゼントした包丁で腹部を刺されてしまった。

 一体、何故にこの様な事になってしまったのか。そう。目の前の吉田は桜田にとっての鏡であった。自分自身を認めていられていない桜田にとって吉田の存在は自身の心を真綿でゆっくりと締め付けてくる、自分を批判する存在だったのだ。

 何故、愛を以って接する事が出来なかったのだろう。自分は厳しく接していたのではない。疎ましい存在を阻害する為に、悪意を以って接していたのだ。

 愛のない厳しさは暴力にしかなり得ないのだ。桜田の目尻は一線の筋を引き後悔と共に生命の灯火も消えていった。

 

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