ラブホテルのベッドの上で目を覚ました吉田 博史の横には、赤いワンピースの女が横たわっていた。

「あんだけやる気満々だったのに、結局、いざとなると役立たずなのね」女は吉田の下半身をまさぐった。触られても気持ち良くない。自分が今すべき事はこんな事でない事は、誰よりも自分自身が一番良く分かっているのだから。

「すまねぇ。また縁があったらきっと埋め合わせすっから」脱ぎ散らかした洋服を一枚づつ着ると、上着を手にしたまま、吉田は飛び出すように部屋を出た。もちろん行き先は一つしかない。

 一方で《割烹 咲良多さくらだ》の店主、桜田は自慢の出刃包丁を砥いでいた。砥石の上を円弧を描くように刃が滑っている。ある程度経ったところで切っ先を照明に当て、指の腹で磨ぎ具合を確かめた。

 磨ぎ終わった切っ先を見つめながら桜田は二年前の事を思い起こしていた。幼馴染の佐々木が訪れた日だ。

 もう二度と受け入れないと決めていた少年院上りの子供を、佐々木の強い説得で折れた。本当にそうなのだろうか。違う。自分は常々思っていた。佐々木の母親が自分にあのように接してくれていなかったら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろうかと。その代わりが、手助けが出来るのであれば、もう一度くらい裏切られたって良いじゃないか。そう思ったからだ。

 でも結局は自分の想いは伝わらなかった。それがなんとも歯痒いし口惜しい。桜田が本枯れ節を削ろうとかんなを出した時、扉が軽い音を立てた。吉田だった。

「何も言いません。もう一回、俺をここに置いてやって下さい」吉田はその場に土下座して言った。その姿を見た桜田は、バカヤロー!、と叫んだ。

「板前が地面に手を着けてどうすんだ。さっさと手を洗って仕込みしやがれ」そう言う桜田の目尻には一筋の光が流れていた。

 厨房には綺麗に洗濯され、しっかりとアイロンが当てられた前掛けと板前帽が畳んで置いてある。吉田は着用前に愛おしそうに頬に充てがった。節削りを代わろうとする吉田に桜田は

「これは俺がやる。冷蔵庫の鰤を捌いてみろ」と言った。鯖や鯵などの小物は捌かせてもらった事はあるが、鰤のような大型魚は初めてだ。

「ずっと見てたろ。やってみろ」桜田の親心に、へぃ、と返事をする吉田だった。

 考えてみれば当初は前回の学習として優しく甘く接するつもりであった。しかし時が経つに連れ、生意気ながらも素直で懸命に頑張る吉田に情が湧いていった。そんな吉田をなんとか一日も早く一人前にしてやりたいと、桜田自身も力が入り、生来の性格も手伝って厳しくするようになった。

 吉田が出て行ってそれが間違いだったと思いもした。しかしこうして張り切って魚を捌く愛弟子の姿を見れば、間違っていなかったと思える。そう。桜田を自分の子供たちと分け隔てなく接してくれた佐々木の母親のように。だから今、自分は親としてここに立っていられるのだから。

 吉田の捌いた鰤の切り身の角は、二人の絆を確固たるものとした事を証明するように、しっかりと立っていた。

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