西野 和夫
西野はベッドの上に横たわって両手を組んだ腕枕をし、ヘッドフォンでお気に入りの音楽を聴いていた。
「なんだよ、この暗い音楽は。てかここはどこだよ」西野はゆっくりと身を起こした。
部屋の様子を見回していると、足元から女性の声が聞こえてきた。どうやら自分に食事の用意が出来たから下へ降りてくるように言っているようだ。西野は見慣れないドアノブを恐る恐る捻り、部屋を出た。
下に降りると
しかし実際に食してみると、衝撃を覚えた。味云々ではないのだ。今食べたかった味、この時に堪能したかった味が、細胞レベルで身体の中に入ってくるのだ。
「美っ味めぇ!」思わず言ってしまっていた。
「あらあら、普段はそんな事言わないのに。どう言う風の吹き回しかしら」お母さんは仄かに頬を赤らめて言った。そんなお母さんの態度に、西野は我に帰り、腹減ってたんだよ、と照れ隠しの捨て台詞を言った。
翌朝、用意を済ませて家を出た西野は、自分の意思と裏腹に歩を進めた。しばらく歩くと後ろから衝撃を受けて前のめりに両手と膝を付いた。
「よう、召使い。ちゃんと上納金は持って来たか」振り返ると学生服の男たちが五人立っていた。
「い…いきなりなんだよ」西野は恨めしそうに男たちを見上げた。
リーダーと思しき男が他の連中に向かって合図すると、西野は羽交締めにされてポケットを探られた。男の一人が内ポケットから財布を取り出し、リーダーらしき男に渡して中身を探り出した。
「なんだ。全然入ってねぇじゃねぇか。こりゃ放課後にまた仕事をしてもらわねぇとな」リーダーは不敵にニヤついて行ってしまった。
「くそぅ、木村のヤロー。調子に乗りやがって」何故だか初めて見る男の名前が浮かんでつぶやいていた。
学校に着くと上履きシューズがなかった。控えめな女子生徒が、誰かが、と言って教えてくれた。教えられた通りにシューズは廊下に備え付けのゴミ箱の中に入っていた。おそらくはとも言わずとも、木村たちの仕業だろう。腹を立てた西野は担任の女性教師に言い付けに行った。
しかし女性教師は、証拠もないのだから、と取り合ってくれない。朝の出来事を引き合いに木村たちの仕業に違いないと食い下がった。それでも教師は良い顔をせず、彼のお父上は市会議員なのだから、と言い出した。
西野は鼻で笑って、それなら自分の父親は地方検察庁の刑事部長だ、と言ってやった。すると呆気に取られた表情をし
「西野君、大丈夫?あなたのお父さんは……ごめんなさい。とにかく木村君たちとは上手くやりなさい。そうでないとこれからのあなたにとっても生き辛くなるだけよ」と言った。
西野は頭を殴られたような気分になった。確かに自分の父親は検察の偉い人物だったように思っていたが、それはあの事件のせいで都合の良いように記憶を置き換えていただけなのだろうか。西野は吐き気を催しトイレに駆け込んだ。
放課後になり木村たちに捕まった西野は、ホームセンターへ引っ張って行かれ、万引きをして来るように強要された。西野はこれを拒んで
何か嫌な空気が澱んでいる。玄関で靴を脱ぎ、ゆっくりと忍び足で中に入っていった。すると目の高さに母親の下半身が見えた。その下半身は汚物に塗れ酷い臭いが立ち込めていた。西野は足元から崩れ落ちるように
脳裏に昨夜の明るかった母の笑顔が浮かんでくる。
我に返って110番と救急に電話した。虚ろな頭で警察の取り調べに応じ、騒がしかった自宅が静寂を取り戻したところで、母が遺した書き置きを黙読した。
『和夫ちゃん、ごめんね。お母さんはお父さんのところに行きます。いくら騙されたとは言っても、やっぱり人を手をかけてしまっては私たちは被害者家族じゃなく、殺人犯の家族になってしまうものね。
これからの事だけれどもあなたが辛い想いをしなくても良いように長野の伯母さんにお願いしています。あなたはお母さんの旧姓を名乗って、お父さんの事もお母さんの事も忘れて人生をやり直して』読み終えてまた涙が溢れてきた。
『む…無理だ。こんな人生をどんな精神状態で乗り越えたら良いんだ。俺は良家とまではいかないまでも、せめて普通の家に生まれて普通に生きていけば人並み以上の人生を送れる自信があるんだ。なのになんて辛い人生なんだ』西野は自分の能力や努力だけでは抗えない不条理な世の中に脱力した。
その後、長野に移住した西野は、田中 和夫と名を変えて生きた。不条理な世間に逆らうように非行の限りを尽くし、何度も補導を受け、遂には少年院に収監された。
少年院で知り合った悪い仲間に誘われ、保釈後はヤクザの道に進み、組では鉄砲玉として扱われた挙句、懲役十五年の実刑判決が下された。
刑務所の中、自身の人生を反芻していた時、急に意も言われぬ喪失感に襲われた。
そして西野は獄中で首を括り、三十二年の生涯を閉じた。
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