人生屋 忌憚 伏平

岡上 山羊

犯罪者の家族

LIFE

『僕は何故ここでこうしているんだろう。何が悪かったんだろう。

 周りの人に、人一倍気を使って生きてきた。周りに迷惑をかけないように、傷付けないように。その報いがこれなのか。人生はなんて理不尽なのだろう』

田中 和夫はまったく項垂れて<LIFE>のカウンター席にいた。田中はこの日、自身の刑事裁判を終え、このバーに来ていた。

 判決は懲役二年六ヶ月、執行猶予三年だった。罪状は職場の上司である鈴木 泰彦に対する傷害罪だった。鈴木は田中の行為を許さず親告した。

 もちろん職場は懲戒解雇となり、この先の人生をどうやって生きていけば良いのか、皆目の見当も付かない。

 そもそもは鈴木の執拗な嫌がらせ、パワーハラスメントに耐え兼ねた田中が、身を振り払うようにしたところ、勢い余って積み上げていた荷物の山に身体を突っ込ませ、腕を骨折したものだ。

 田中は判決はおろか、裁判にかけられた事自体を納得してはいなかった。自分の人生に於いて被告人になったり前科が付いてしまうなど予想だにしなかった。

 周りの知人たちは、執行猶予が付いて良かった、と言い、これで前科の事は忘れて人生をやり直せる、などと言った。

 だけど低空飛行ではあったかもしれないが、田中は確実に人生を歩んでいたという自負を持っていたし、人並みの人生の幕を閉じられるという確信もあった。もうやり直しなど効かないのだ。

 田中はこの日、八杯目のウィスキーを飲み干し、カウンターテーブルにうっ伏した。

 一体、何時間くらい眠っていたのだろうか。ふと、隣りの席から視線を感じ、そちらに目を向けた。そこにはやたらと存在感のある、全身を黒いスーツに身を包んだ男がいた。

「すみません、いつの間にか来られていたんですね」田中は涎を気にして口の周りを袖で拭った。

「いえいえ、気になさらずに。私はずっとあなたの隣りにいましたよ」男は不気味に微笑んでみせた。田中はその雰囲気に、背筋が凍るような思いがした。

「そうですか。それは気付かずにすみませんでした」言いながらも田中は、この存在感でまったく気付かずにいたのだろうかと訝しく思った。

「つまりは田中さんはその上司の鈴木さんにご自分の辛い想いを分かって欲しいと言う訳ですね」田中は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。田中はこの男と話した記憶などまったくないし、況してやこの店に入ってから声を発してなどいないのだ。心の声では大いに喋ったし、恨み言も言っただろうが、決して発言などしていないのだ。

「それではメニューになりますが、あなたが鈴木さんの人生をトレースしますか?それとも鈴木さんにあなたの人生をトレースさせますか」男は田中の顔に鼻の頭がくっ付くのではないかと思えるほどに近付いた。

「ちょ…ちょっと待ってください。一体あなたは何を言っているんですか?」

「お勧めは相手にあなたの人生をトレースさせる事です。さぁ、ご決断なさい。あなたの人生を変える、千載一遇のチャンスなのですよ」男は更に凄んで言った。田中は相手の勢いに押され、それではそれで、と返答してしまった。

「良いご決断です。それではこの書類に署名捺印を。判子がなければ母印で結構です」男はカバンから一枚の紙切れとボールペンと朱肉を取り出した。

 田中は押されるままに署名をし、裁判帰りという事で持っていた判子を押した。すると捺印が始まりの号砲であるかのように、田中の頭の中を金切り音が鳴り響き、意識が遠のいた。

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