田中 和夫

 田中 和夫は自宅のベッド上で目覚めた。昨夜のバーの出来事はなんだったのだろうか。妙な男に声をかけられ、変な書類に署名捺印させられてからの記憶がまったくない。しかしスマートフォンで調べてみると、やはり裁判は現実のものだった。自分は精一杯頑張ってきた。その自負はある。なのに不可抗力のように恵まれぬ上司に突き当たった事で全てが台無しになってしまったのだ。

 田中は鈴木を殺して、道連れに自らで命を断つしかないと覚悟した。せめて最後にと、田中はふいに学生時代に良く聞いた、さだまさしの案山子と言う曲のレコードをかけた。スローテンポで優しいメロディーに、家族が都会へと出て行った息子を想う歌詞を乗せた名曲だ。

 高校生の頃、父親が詐欺に引っかかり、復讐の為に殺人を犯してしまった後、自らで命を絶った。。それからは辛い人生を送る事を余儀なくされた。

 しばらくして母親は後を追うように自殺し、長野の親戚の元に身を寄せた。親戚の田中姓を名乗り人生をやり直そうとしたが、やがて三ヶ月ほどで父親の事件が知られる事となり迫害を受けた。

 それでも懸命に耐え忍び、高校卒業と同時に、これ以上は伯母家族に迷惑はかけられないと、自主的に家を出た。

 生まれ育った土地に戻った田中は、今の会社にアルバイトとして入社し、人の嫌がるような仕事も率先してこなし、それなりの結果も出した。

 頑張りを認められた田中は、正社員として雇われる事となり、その後も就労姿勢を崩す事なく業務に勤しんだ。その甲斐もあり、周りからも認められ頼りにされた。過去の暗黒だった人生も忘れさせてくれた。

 そんな田中を疎ましく思う存在があった。係長の鈴木だ。鈴木は巧妙に嫌がらせを仕掛け、時に田中の成果を職権を利用して、我が物にする事も珍しくなかった。それでも田中は文句を言う事なく働いた。何故なら父親の事件後の辛かった想いに比べれば、どうと言う事はなかったからだ。

 田中からすれば普通に生活をするだけの給与をもらい、それなりにやり甲斐を持って仕事が出来れば、それだけで満足だったのだ。今考えるとそんな態度も鈴木からすれば気に入らなかったのかもしれない。

 そんな事を考えていると、腹の底から怒りが込み上げてきた。するとレコードからある歌詞が耳に飛び込んできた。

"お前の笑顔を 待ち侘びる おふくろに聞かせてやってくれ"

 田中の瞳から止めどもなく涙が溢れてくる。母親が書き残した手紙の一説を思い起こす。"人を手をかけてしまっては私たちは被害者家族じゃなく、殺人犯の家族になってしまう"

 そうだ。怒りに任せて行動してしまっては、今まで耐え忍んだ事、努力してきた事がすべて水疱と帰してしまうのだ。田中は立ち上がり、意を決して就職斡旋所へ行った。

 係員に色々と条件などを提示して、検索をかけてもらった。まだ三十二歳という事もあり、係員はいくつかの案件を紹介してくれた。

 まだやり直せる、頑張れる。気を入れ直して帰宅した。

 アパートへ帰ると玄関前に人影が見えた。目を細めながら近付くと、その人物が田中に気付いて振り返った。男は深々とお辞儀をして、真っ直ぐに田中を見つめた。

「す…鈴木係長。な…なんの用ですか」田中は自分を陥れて訴えた男にたじろいだ。

「田中さん。今更などと言わずに聞いて欲しい。すべて私が悪かった。この通りだ」鈴木はまた深々とお辞儀をした。

 鈴木は何故かは分からないが、昨夜、妙な夢を見たと言う。学生時代は多少の悪さをしたとしても、検察の上層部にいる父親がそれを揉み消す事も珍しくはなかった。そんな自分はその置かれた環境、生まれた境遇に胡座あぐらを掻いて、なんとも非人道的な言動をしてきたのかと思い知らされたと言うのだ。そして会社には田中のような努力家で忍耐強い人材が必須であるのだと痛感したのだと言った。

「お願いです。どうか会社に戻って、また力を貸してもらえないだろうか」また何かを企らんでこれ以上に自分を陥れようと言うのか。田中は訝しんだが、目を潤ませ身体を小刻みに奮わせる鈴木を見て、何が起きたのかは分からないが、きっと心境に変化があったのだろう、考えを改めたのだろうと思い直して復帰を受け入れた。

 鈴木は安心した表情を作って帰って行ったが、改めて考えてみると、あの鈴木の変化は意外を通り越して青天の霹靂だ。原因を考察するに、どう考えても昨夜のバーでの出来事が起因しているとしか考えられない。

 やはりあの男とのやり取りは夢や幻ではなかったのだろうか。真相を確かめる為、田中はもう一度あの店に向かって歩き出した。

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