火の雨が降る街

 本間 静子は米軍の焼夷弾が降り注ぐ街中を、幼い妹をき連れて走っていた。先の空襲で両親を喪っていた静子にとって、妹だけがたった一人の家族であった。防空壕までは十五間(約四百五十メートル)ほどある。道路には崩れた家の瓦礫が落ちていたり、行き交う人々の波で右往左往させられたり、先に行く事を阻まれた。

 静子は妹を抱き抱えた。その瞬間、近くに焼夷弾が落ち、爆風で吹き飛ばされた。炎を纏った木片が静子を襲い、妹を庇い身を呈して守った。髪に火が移り、静子は動く蝋燭のように彷徨い、防火槽に頭から飛び込んだ。

 やっとの事で火が消え、足にしがみついた妹を抱き、再び走り出した。ようやく防空壕に辿り着き、無事な妹を見て、泣きながら抱擁した。しかし防空壕の避難民は顔の大部分が焼け爛れた静子を気持ち悪がり、出ていくように責めた。

 妹を連れて出ようとした静子に、幼い妹は置いていきなさい、と声がかかった。悩んでいた静子だったがこの戦乱の世の中を両親を亡くした女の細腕で守っていく事は困難だと悟り、断腸の想いで一人去っていった。

 家を無くし、家族を亡くし、最愛の人も激戦の戦地に行ってしまった。すべてを失った静子は失意の中、ラジオから流れる玉音放送を聴いた。脳裏に直道の優しい笑顔が浮かんだ。

 それからどうやって生きてきたのだろう。世の身寄りのない女は“パンパン”と言って在日米軍の愛人のような身分になり、洋服を買い与えてもらったり金銭を受け取って懸命に生きていた。しかし静子はそんな事も望めない。美しかった顔は焼夷弾の炎にやられ、普通の仕事に着く事さえままならないで、それでも生きてきた。それはどこかで生きて帰ってくると信じていた、直道の存在があったからであった。

 静子は海外からの帰還船が港に着くと聞く度に出かけたていった。直道はガダルカナル島にいると風の噂で聞いていたが、満州からだろうがロシアからだろうが、帰還船が帰港すると聞けば駆けつけた。

 そして一九四九年の九月、満州の引き上げ船から直道が下船する姿を見つけた。すっかりやつれて髭だらけの面持ちだったが、見た瞬間に気付いた。

 すぐに駆け寄って抱き締めたかった。抱き締めて欲しかった。しかし醜く変わり果ててしまった自分が今更駆け寄ってどうしようと言うのだろう。最愛の人に背を向けて、人混みの中を去っていった。妹の時と同じように。

 生に対する執着とは何というものなのだろう。愛する人と結ばれる事もなく、家族を取り戻す事も出来ないで、混乱から抜け出し成長していく国を見つめて生きてきた。流れから完全に離されて埃が渦巻く吹き溜まりのような場所に身をやつしながらも生き続けた。

 そんなある日、一人の訪問者があった。生き別れた妹だった。あの後、妹は置いていくように忠告した商家の一家に引き取られた。そこで我が娘同然に育ててもらって美しい女性へと成長していた。

 妹は義理の両親に許しをもらい、静子を家に迎え入れたいと言ってきた。妹を捨てるように置いていった負い目だろう。静子はこれを断り、代わりに電化製品メーカーの起業家として成長を遂げていた直道の様子を見てきて欲しいと頼んだ。

 経済誌やテレビなどでも紹介されるほど有名になっていた直道の会社だったので、自宅を突き止める事は容易だった。玄関前に立ち、妹は呼び鈴を押すのを躊躇った。何と言えば良いのだろうか。静子の名を出すと、姉はきっと傷付くだろう。

 ふと張り紙がしてあるのを見つけた。“お手伝いさん募集。住み込み、通いどちらも可”

 妹は意を決して呼び鈴を押した。直道が出て対応したが、まるで幽霊でも見るかのように驚嘆の表情を向けた。妹は張り紙を指指して、これって…まだ募集していますか、と聞いた。直道は我れに返ったように、あ…あぁ、家事は出来ますか、と聞き返した。

 道子は直道の家の家事手伝いを始めた。姉にとって直道はどんな存在なのかは聞かされていなかったが、なんとなくの想像はついていた。その上で直道と言う人間を見ていた。

 会社をどんどん大きくしていくが、偉ぶる事も大仰に振る舞う事もせず、お手伝いだからと道子に無理なお願いをする事もなかった。静子の事をどう思っているのだろうか。気になって名前を伏せた静子の話をした。直道は楽しそうに聞いていたが、会ってみたいとか話した内容以上の深掘りをする質問はしてこなかった。

 帰りには必ず静子の家に行き、直道の近況や道子の目から見た直道の人となりの感想を言って聞かせた。静子は涙ぐみながらも嬉しそうに聞いた。そんな二人を見て、道子はこのままで良いのだろうか、という疑問とこのままそっとしておいた方が良いのだろう、という相反する感情の間を揺れ動きながらも、直道と静子の家を行き来した。

 結局は自分は二人の為に何かをしてあげられる事はないし、静子が自分を庇った事でできてしまった傷の事を考えると、真実を伝える勇気を持てないでいる自分に気がついた。そうして十年もの歳月を費やしてしまった。

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