洛陽
日は沈みかけ、幾分、涼しくなっていた。それでも背中にはじんわりと汗が滲んだ。
本間 静子の家は分かっているつもりだ。夢で一度見た事が真実だったならば、そこにあるはずだ。夢を信じるのかと問われたら、明確に否定する根拠も肯定する材料もない。しかし表札もかかっていないこの家の玄関前に立った時、間違いなく静子はこの扉の向こうにいると分かった。
扉を叩こうとする手が躊躇われて止まった。もしかしたら都合良く静子と結婚をして会社の危機を救おうとしているのではないのかと思えたからだ。だけどそれは違う。静子を思い、育ててきた会社は、もはや直道にとっては静子との子供そのものなのだ。その窮地を救う手助けをして欲しいと願い出る事に、何の後ろめたさがあるのだろうか。いや、そんな事ではないのだ。ただ思い続けた女をこの手で抱き締めてたいだけだ。
色んな煩悩が渦巻いて玄関に立ち尽くしていると、扉が音を立てて開いた。そこには顔半分が包帯で痛々しく覆われた女の姿があった。
えっ?と立ち尽くす静子。それを見て驚きを隠せない直道。しばらくの静寂が二人の間をすり抜けていった。近くの森では
「こ…こんにちは。今日は良い日和ですね」静子から目線を外す為に空を見上げて、思わず言葉が出た。
「はい。良い小豆が手に入ったので、美味しいおはぎが出来上がりましたわ」静子は伏し目がちに上目遣いに直道を見た。
「おはぎか。懐かしい。食べたいなぁ」直道は空を見上げたままに答えた。
家に上げられた直道の元に、二つのおはぎと直道好みの
「あぁ温いなぁ」直道はお茶を飲んだ後、ため息と共に吐き出した。それを見て、静子は笑顔で見守っていた。直道はおはぎにも手を伸ばした。
「あぁ、甘い…懐かしい味だ」静子の目に映る光景は、詰め襟姿だった学生時代と少しも変わらない直道の姿があった。自分が感じた事を恥ずかしげもなく口にし、悦に入る。若かった頃、そんな姿を見ているのが大好きだった。
「大変ですね。でも大丈夫ですよ、あなたなら」静子はゆっくりと話した。
「うん、そうかもしれないなぁ。だけどね、何かが足りないんだよ」直道はそう言うと、静子の手を包み込むように握り締めた。
「私で務まるのかしら」
「静子じゃなきゃ務まらないんだよ」蜩の鳴き声が静かに流れる部屋で、二十年の時を埋めるように、二人はしばし抱擁し合った。
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