父子

「それじゃあな。頑張るんだぞ、藤井」大和刑務所の前で刑務官の権藤はやや表情を緩めた。長い刑務官生活の中、こんな気持ちで受刑者を送り出すのは初めてだった。

 いくら誠意を込めて接しても、もう大丈夫だと思っても、やはりどこかに再犯の心配が尽きる事はない。しかし藤井は大丈夫であるとの確信があったのだ。

「権藤さん。いくらお礼を言っても言い尽くせません。本当にありがとうございました」藤井は膝に額が付くほどに頭を下げた。権藤の計らいで紹介してもらった保護司の山村に付き添われて藤井は踵を返した。

 しばらくは山村の紹介してくれた金属加工工場で、寮に入って働く事になっていた。一年間、問題がなければ寮を出て一人暮らしが許される事になっていた。

 職場の人間たちは前科者も多く、社長が温情のある人だったので、今までにない環境で働く事が出来た。仲間も皆、脛に傷持つ者で、藤井に良くしてくれた。そしてあっと言う間に一年が経った。

 会社近くにアパートを借りた藤井の元に来訪者があった。施設の女性だった。藤井が不思議だったのは親の親権だった。捜索願いも出したのだから莉奈を簡単に手離すはずはないのだが。

 女性が言うには藤井が莉奈を連れ去ってから、母親はすぐには捜索願いは出さなかったそうだ。母親は生活保護を受給しており、当初は莉奈がいなくなった事を少し安心したような気持ちでいたようだ。

 しばらくしてケースワーカーの訪問を受けて、莉奈の事を聞かれた母親は、その場しのぎで適当に誤魔化したが、交際相手の男が激怒した。何故ならば子供がいるのといないのとでは、受給金額に大きな隔たりがあるのだ。母親の保護費を当てにしていた事から怒ったと思われた。

 母親は仕方なく捜索願いを提出し、警察が動いたのだ。しかし藤井が莉奈を児童養護施設へ連れて行った事で、莉奈を連れて帰るのに面倒な手続きが必要になった。これにより男女は喧嘩になり、交際相手は母親を暴行し、誤って殺してしまった。

 父親も不明だった為に、莉奈は孤児みなしごとなり、児童養護施設はそのまま莉奈を預かる事になった。

「お母さんが亡くなった事を告げた時、莉奈ちゃんは何と言ったと思いますか」

「それはお母さんの名を叫んだ…とか」藤井は俯いて答えた。施設の女性は首を横に振って続けた。

「おじちゃんは、おじちゃんはいつ迎えに来るの、と言ったんです。私は曖昧に返事をしたのですが、莉奈ちゃん、泣き出しましてね。それであなたに莉奈ちゃんを引き取ってもらう方向を探り始めたんです」たった一ヶ月の共同生活だった。しかし莉奈にとって生まれて初めてできた心から安心できる親だった。藤井からしてみても初めてできた家族と言って良かった。

 環境に閉め出されてしまった二人が、ひょんな事から心を通わせて、本当の親子になった。二人で生きていく道を誰が咎められるのだろうか。

 数日後、莉奈の迎えを明日に控えて藤井が歩いていると、あの日と同じ紫色の灯りが見えた。場所は覚えていなかったが、偶然にしてかち合わせた。藤井はあの黒い男に会えないかと入店した。

 男はいなかったが、前と同じジントニックを頼んで、しばらくいる事にした。前回同様に飲み物を飲み干したタイミングで店内が暗転した。

「どうです。やはりあなたの決断は間違っていましたか」久しぶりの男は正面を見て藤井を見ずに話しかけた。

「お久しぶりです。あなたのお陰かは分かりませんが、罪を償って真っ当な道を歩き出しました。決断が正解だったかどうかは分かりません。多分、これからに懸かっているような気がします」グラスの氷を指で弾くと心地良い音が鳴った。

「良い心掛けです。自分が正しく生きているか、人は常に疑いつつ生きる必要があります。そうする事で決断は正しさをもっていくものなのです」

「ありがとうございました。あの…お礼をしたいのですが、俺はあなたに何が出来るのでしょうか」男を見ると、心持ち透けて見えた。

「私にお礼?そんなものは必要ありません。そうですね。莉奈さんの幸せそうな笑顔と、それを見守るあなたの優しい眼差し、そういう事にしておきましょう」男が言い終わると、店内は急に明るくなり、目がくらんだ。男はいなくなっていた。

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