板前の師弟

口論

「何度言ったら分かりやがんだ。もっと丁寧に食材を扱いやがれ」

「何度言われたって分かるかよ、頭ごなしにばっか言いやがって。このクソじじい」売り言葉に買い言葉なのだろうか。親方の桜田からいつも通りの罵倒が飛び交う。それにヤンチャ気質が抜け切らない、板前見習いの吉田博史が言い返す。

「なんだと手前てめぇ。一昨日おととい来やがれ」

「上等だよ。辞めてやらぁ」吉田は桜田からプレゼントされた包丁をまな板の上に叩きつけようとしたが、静かに置いて店を出て行った。

 吉田は憂さが晴れないまま街を彷徨った。ふと紫色の電飾看板が目に入った。《Bar LIFE》と記されている。

「ふん。やけ酒でも喰らうか。怠惰ついでに良い女でもいればラブホにでも時化しけ込んでよ」文字通りに自暴自棄の気持ちのままにドアをくぐった。

 店内は疎らだった。まだ空が赤らんでいる時間帯なので無理もなかろう。カウンター席に腰を下ろすが、長いカウンターの割りにバーテンダーは一人だった。

「いらっしゃいませ」バーテンダーは綺麗な指先で棋士が会心の一手を打つようにコースターを置いた。

「バーボン。何がある」吉田は心持ちのままにぶっきらぼうに言った。バーテンダーは棚に一塊に並べられたボトルを指し示した。どうやらリキュールの種類ごとにきちんと整理されているようだ。吉田の経験上、こういう店は間違いがない。

「じゃあジャックの七番をロックで」吉田は斜に構えて言った。

 バーテンダーが回すマドラーがグラスの中を美しい円を描いて踊った。グラスはコースターの上に静かに着地した。

 吉田は一気に三分の一量ほど喉に流し込んだ。喉に焼けるような痛みが走った。桜田からは舌が鈍るので決してアルコールの強い酒は控えるよう言われていた。この行為こそが吉田にとっての自暴自棄の現れであったのだ。

 三杯ほど飲み進めると、隣にタイトな赤いワンピース姿の女が着席した。女はまるで吉田を誘惑するような視線を投げかけてくる。思えば少年院から出所してから一度も女と交っていない。滲み出るように性欲が湧出してきた。

「なぁ、この後どこかの部屋にでも時化込まないかい」出来るだけ野太い声を出した。

「そうね。じゃあ最後に私からの一杯を飲み干して」吉田はいきり立って一気に喉に流し込んだ。すると頭の中で金切り音が鳴り響いた。

「いつまでも子供でいられる訳ではありませんからねぇ。親父さんの態度それはあくまでも照れ隠しの親としての悪態なのですから」まるで化けたように赤いワンピースの女は真っ黒なスーツ姿の、胡散臭い男に変わっていた。

「な…なんだよ、手前てめぇ」吉田は驚きのあまり蒸せてしまった。

「良いですか。桜田さんの想いが分からなければ、あなたは一生後悔する事になるんですよ。分かりますか」男の存在感に圧倒され、吉田は椅子から滑り落ちてしまった。

「分からないのであれば仕方ありません。さぁ、桜田さんの立場から自分自身を見つめ直すのです」男は吉田の両肩を掴んで椅子に座り直させると、顔を大いに近付けた。吉田は無言のまま目を見開いて頷くしかなかった。

「この書類に署名捺印なさりなさい」吉田は男に言われるがまま奮える手でミミズが這ったような文字で署名をし、奮える指で母印を押した。そしてそのまま意識は遠のいていった。

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