交わらない(1)




「ねぇ……目を開けて? 話がしたいの。起きてるんでしょう……」


マイラが下がったあとは空気がしんとして、薄暗い寝室に灯るのはベッドの両脇に置かれたオレンジ色の小さな明かりだけ。


得体の知れない獣の隣で、このまま眠るわけにもいかない。


「呪詛がかかってるって本当なの?? あなたは、けもの……? それとも……」


ベッドの上でとぐろを巻いていた獣は、閉じていた目を静かに開いた。

チラチラと揺れる灯りが、獣の二つの目に映る。


むくりと身体を起こしたが、全身に力を込める。

小さな毛の塊がみるみる人間の姿に変わるのを目の当たりにして、エリスティナは両手を口元に当てたまま「ひっ」と声をあげた。


銀の被毛から伸びる長い手足。

エリスティナの背中をすっぽり包んでしまうほどの広い胸板からは、上質な着衣の下にある鍛えられた体躯を容易に想像できてしまう。


最後に獣の青い二つの目が、人間の双眸に変わる様子には思わず息を呑んだ。

またたく間に起こる変化は圧巻で、マイラがその瞬間を見逃してしまったのにも納得がいく。


「——私は人間だ」


長い睫毛から覗く青い瞳がエリスティナを見下ろしている。

聡明そうな眉、高い鼻梁。一文字に引き結ばれた口元は、緩みなくしっかりと閉じられている。


「黒夜に妖魔の呪詛をこうむって、幼獣に変えられてしまった。幸いにもこうやって、人の姿に戻ることもできるが……」



——エリスティナ、君は、私を覚えていないのか?



黒夜、妖魔、呪詛。

マイラから聞いた話を思い出す。

本当に起こっていたのだ、そんなことが。それも自分に身近なところで。


「にん、げん……」


獣が、人間に変えられる呪詛だって、あるのではないか。

もともとが『獣』ならば、身体を見られた事だってさほど気にしなくていいかも知れない……そんなふうに抱いていた淡い期待は打ち砕かれて、頭の上にユラユラと立ち昇って行く。



——彼は、人間。


『人間の、男性』。



「あああああ、あなた、あなた、あなた……っ」

「 ? 」


「わわわ、わたしの、はだっ、はだか、っっ」



———見ました……もの、ね??!!



「あ……」


掠れる声で呟いた男が、掛け布団を胸に掻き抱くエリスティナから目を逸らせた。

口元に拳をるのは、照れているから?!

薄暗い灯りの中ではっきりしないけれど、心なしか頬を染めているようにも見える。


「だがあれは……! 私の意思ではない、君が……ッ」



——そうよ、あなたを洗ったのも抱きしめたのも、私。


だって、何も、知らなかったんだもの!!



ワナワナと震える身体、みるみる押し寄せる絶望感。両手で抑えた口元、目頭がぎゅうっと熱くなって——。


「ああ、もう……どうしよう……」


胸の奥が締め付けられて、それ以上言葉が出ない。

膝の上にぽろぽろと落ちる涙が止まらない。


エリスティナが両手で目元を抑えながらうつむくのを、男——リヒトガルドは呆けたように見つめている。


「何故、泣いている?」

「……なぜ、って……私、あなた、に……っっ」


遠い記憶のなかに生きるエリスティナの大切な『婚約者』を差し置いて、この男に裸体を見られてしまったのだ。


もうこれ以上は恥ずかしくて、とても言葉にならない。

そしてリヒトガルドは、そんなエリスティナの涙の意味がわからない。


「君の涙は、私のせいなのか……?」

「あ、あなたのせいってわけでは、ないけど……」


躊躇ためらいがちに伸びてきた指先が、エリスティナの頬に触れる。

長い人差し指が濡れそぼる頬の涙を拭い、頬に張り付いていた白金の髪をそっと耳にかけた。


驚いてビクリと跳ね上がる肩、だけど火照った頬に触れる指先の動きはとても優しく、穏やかで。

エリスティナの兄達がいつも同じようにしてくれるのを思い出せば、拒む気持ちをも打ち消され……自然とそれを受け入れてしまう。


「理由は知らないが……泣かせてしまったのならすまなかったな。私はすぐに去る、この呪詛が解けたら——」


「た、助けて欲しいって、言ってたけど……その呪詛とやらは、どうやったら解けるの……? わたしに出来ることがあるなら……手伝って、あげたいけれど……」


エリスティナの縁談がどうなろうとも、この男に罪はない。責任は全部、エリスティナ自身にあるのだから。

それに男の事情に足を突っ込んでしまったからには、困っている彼を助けてあげたい気持ちだってあるのだ。



——だから呪詛でも何でもさっさと解いて、早くここから出て行って欲しいっっ。



「エリスティナ……」


衣擦れの音とともに、身体がぐらりと揺らぐ。反動で思わず目を開けば、四つん這いになった男に組み敷かれ、両腕に身体が囲まれていた。


視界いっぱいにはしばみ色の髪が覆う。

彼の強い眼差しが、エリスティナの碧色の瞳を捉えた。


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