君が、私の……



——リヒトガルドの記憶に残る、あの日。

十八歳の成人の儀を迎える前の年だった。


煌めく青い海辺には何艘もの白い船舶が浮かび、港に巣付く海鳥達は船の上を飛びながら陽が落ちるまでさえずる。

三方を海に囲まれた南国最大の貿易拠点であるグルジア国の港は、この日も多くの船と人とで賑わいを見せていた。


海に面して聳え立つ王宮の大広間には、オルデンシアの皇太子夫妻を歓迎するための宴が開かれ、グルジアと友好関係にある諸国から来賓が大勢招かれていた。


「カイル様……セリーナ! グルジアへ、ようこそお越しくださいました」

「お久しぶりでございます、エルティーナ様っ」


幼い娘の手を引いた大帝国の皇妃が、小国家グルジアのいち王妃でしかない母に深々と拝礼をする。

リヒトガルドはその様子を奇妙に思い、眉を顰めて見ていたのだ。


聞けばオルデンシアの皇太子夫妻とリヒトガルトの母は、若かりし頃からとても親しい間柄あいだがらであるという。


「まぁ、リヒトガルド殿下……! ご立派になられましたわね。来年は王太子の戴冠だなんて、お早いものですこと」

「エリスティナ皇女様も、すっかり大きくなられて」


オルデンシアの皇妃はふふっ、と口元に指先を当てて微笑んだ。


「ええ……お言葉通りに」


皇妃の腰元に手を添えている壮年の皇太子も、フッとその口元を緩める。

二人の間に立ち、一文字に唇を引き結んで……母親のドレスの裾をぎゅっと握りしめていたのがエリスティナだ。


「ところで……皇妃様。、覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、勿論ですとも。ねえ、カイル」


皇太子夫妻のうなずきに、両親が安堵の表情を浮かべている。


「兼ねてよりリヒトガルドには、決まった相手がいると伝えておりました」


王妃の隣に立ち、穏やかな表情を浮かべていた国王が、リヒトガルドに唐突な視線を差し向けた。


「息子よ……そなたの未来のきさきになっていただけるよう、皇女殿にしっかりとしておけ」


今思えば、あれはグルジアを帝国に取り込まれないための、国王の策略——政略結婚の促しだったに違いない。

しかし当時まだ若輩だったリヒトガルドは、その言葉を大人達の単なる社交だと思い込んだ。


強く促す国王の視線を受け、皇女の前にスッと膝を立てる。


リヒトガルドの様子を見て、国王達のやりとりを見守っていた周囲の来賓がにわかに騒めき始めた。帝国の幼い皇女に、まもなく成人を迎えるグルジアの王子がひざまずいたのだから。


—— 愛らしい姫。私の妃になっていただけますか。


国王の威圧に、そして周囲からの浴びるような視線に動揺しながら……確かそんな事を言った気がする。


まぁ! と、皇妃が感嘆の声を漏らした。


促されるまま言い放った、精一杯の

幼い皇女に、できうる限りの笑顔を向けたつもりだ。


観光船で、慣れない海を小一時間ほど回遊してきたというエリスティナはすこぶる不機嫌で、周囲の思惑を知るよしもなく『ムッ!』と頬を膨らませる。

目の前に差し出された、リヒトガルドの白い手袋をはめた手を——皇女は、思い切り払いのけた。


周囲のどよめきと、目を見開いた両親の表情が今も目の奥に焼き付いている。


「折角の申し出をすまないが、リヒトガルド殿。娘は十歳になったばかりだ。縁談を決めるには、まだ早い」


皇太子が放った言葉に両親がひどく落胆するさまは……リヒトガルドの心にも、一矢突き刺さった。


これは『社交』ではなかった。

だが気が付いた時には、もう遅かった。



——大切な局面で、自分は失敗をしてしまった。



何をどう間違えたのか。挨拶をしろと促されたあのとき、自分はいったい何をどうすべきだったのか……今でも答えが出せない。

ただ、帝国の皇女との縁組を決めたいという『両親の期待を裏切った』事に違いなかった。





グルジアへの、エリスティナ輿入れの話。

——それがもしも本当ならば。


第二王子はまだ七歳と幼く、皇女との縁組みを受けるには不自然だ。

となれば、苦い記憶とともに流れ去ったはずのエリスティナとの縁談は—— あの日からずっと『生きて』いたという事になる。


それを、当事者である自分に今まで知らされなかった理由が、リヒトガルドにはわからない。そしてグルジアでその理由を知る唯一の人物——国王は、もうこの世にいないのだ。


(グルジアに戻れば、何か答えが得られるだろうか)


エリスティナが、目の前で静かな寝息を立てている。薔薇色の頬に、艶やかな髪がひとすじ落ちていた。


(ならばこの美しい人が……私の婚約者、なのか?)


幼い日のエリスティナは成人前のリヒトガルドには幼子にしか見えず、恋愛の対象とするには程遠かった。


だが——八年の時を経て、彼女が成長した今はどうだ。


泉で見てしまった、そして感じてしまった白い肌の滑らかさを思い出し、リヒトガルドはまたかすかに頬を染めてしまう。


「ティナ……。エリス、ティナ……」


そっと手を伸ばし、頬に落ちた髪に指先で触れれば——パチリ。

唐突に睫毛が持ち上がり、エメラルドグリーンの瞳をその奥から覗かせた。


バッ!!


エリスティナがいきなり起き上がったので、白金の長い髪が大きく肩で跳ねた。


「あ、……あ、なた、……っ」


口をパクパクさせながら、リヒトガルドをやんわりと指差している。


「どうしてるのっっっ」


「ど、どうして……と、言われても」

「もしもマイラが来たら、どうするの……!」


エリスティナの剣幕に、リヒトガルドはすっかり怯み、絶句してしまう。


「す……すまない」

「すまない、じゃなくて。スミマセンでしょう?」


あれほど重く立ち込めていた雲は嵐ですっかり吹き飛ばされ、窓から眩しいほどの陽日が差し込んでいる——今が何時だか知れないが、言われてみればメイドがいつ現れてもおかしくない。


「ほら、何ぼうっとしてるの? 早く獣に戻って!」

「は、……はい」

「お熱が下がったのなら、良かったけれどっ。あなた、何だかわよ……?」

「?!」

「後で湯浴みもしなさいねっ。はぁっ……もう、あなたの名前は? ケモノに戻る前に聞いておくわ」


いきなり名前を聞かれ、リヒトガルドは口ごもった。

エリスティナは臆する事なく、下から綺麗な顔で見上げてくる。


「リヒ、……」

「……え、なんですって? 早くしないとマイラが来ちゃうじゃない」


顔は忘れられているようだが、縁組の話が続いているのならば、皇女は婚約者の名前くらい知っているはずだ。

唐突にリヒトガルドの名を出す事ははばかられた。


エリスティナに詰めよられ、僅かな時間の狭間で思考を巡らせる。


寝室に侵入した呪詛がかりの男に組み敷かれ、怖い想いをさせられた。その野蛮な男が実は婚約者で、グルジアの行方不明の王太子。

そんな事実をいきなり打ち明けたりすれば——叫ばれて騒ぎになるだけでは済まされず、婚約破棄どころか国家間の信頼をも損なう由々しき事態に陥りかねない。


「リヒ、ト……私の名は、リヒトだ」


エリスティナはキョトンと首を傾げて、アーモンド型の丸い瞳を更に丸くした。


「りひ……と?」



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