優しさ





それから直ぐにマイラが部屋の扉を叩いたので、『リヒト』は獣の姿に戻り、エリスティナは狐につままれたような気持ちのまま着替えを済ませた。


マイラが運んできた朝食を、なんとなく口に運ぶ。

リヒト……獣は、エリスティナの椅子の下で丸くなっている。


「良かったですね。幼獣が元気になって」


マイラが気を利かせて、ミルクと残飯らしきもの——使用人の朝食の残り物か何かだろう——を小さな皿に盛ったものを獣の前に置き、新しいシーツを片手に寝室へと向かった。


「ぁ……」


一粒のマスカットを指先につまんだまま、エリスティナが視線を落とせば、立ち上がった獣がクンクンと飯椀に鼻を近づけ、躊躇いがちにひと舐めする……けれど『グシュン!』と小さなくしゃみをして、隣の皿のミルクを舐めはじめた。


「ねぇ……あなたは、何者なの?」


堂々とした仕草に漂う気品。

着衣に華やかさはないが、整った身なりは明らかに貧民でなはい。それなりの身分、ともすれば爵位を持つ家柄の者かも知れない。


「……そんなあなたが、残飯なんて食べないわよね?」


嵐の夜、この獣を介抱した時から、心を決めていた。


「あのね……」


席を立ち獣の前にかがみこめば、赤い舌でミルクを飲んでいた愛らしい生き物がツと顔を上げる。獣の青い双眸が朝の光を孕んで煌めいた。


「あなたの呪詛のこと。とにかくあなたを、どうにかしてあげたいの。助けて欲しいって言われたまま、放っておけないもの……っ」


獣…——リヒトガルドは、まばたきもせずにエリスティナを見つめている。


「姫様、どうかなさいましたか?」


寝室から戻ったマイラが、怪訝な顔を向けてくる。


(リヒトのこと、マイラに話したい……!)


これまでただの一度もマイラに隠し事などしたことはない。

家族同然のマイラに秘密ごとを抱えるのはあまりに心苦しく、胸の奥がぎゅっと痛んだ。


「マイラっ……には、私の食事を分けてあげてもいい?残飯では可哀想だから」


マイラは少し首を傾げたが、


「承知いたしました。では姫様のお食事を、次から少し増やしましょう」


エリスティナのメイドになる前は、皇后付きの侍女として手腕を発揮していた彼女は二十年来のベテランだ。

ここで『幼獣に与えるものなんて、残飯で十分でしょう』とは言わない。

主君の気持ちや状況を瞬時に察する能力に優れ、エリスティナにとっては第二の母のごとく、良き理解者でもある。


皇宮ここに留まらせる以上、リヒトのことを隠し通せるとは思えない。お父様とお母様にも、きちんと事情を話せば……。呪詛がかりだったお母様なら、リヒトの呪詛を解く別の方法だってご存知かも知れないし、力になってくださるかも——)


エイスティナの母であるセリーナ妃は、『碧目種族』であるがゆえの呪詛がかりだった。

母にかけられていた呪詛の事を詳しく知らないけれど、呪詛がかりだったおかげで両親は出会い、二人は恋に落ちたと聞かされている。


(お兄様たちはダメ! 私の寝所に入ったなんて知ったら、リヒトは殺されてしまうっ)


なにしろエリスティナは、自他ともに認める『双子の兄に溺愛される妹姫』なのだから。





「おかげで生き返った気分だ」


エリスティナの部屋で湯浴みを済ませたリヒトガルドが、彼の身体には小さすぎるガウンを羽織って湯殿から顔を覗かせた。


「や、やっぱり短いわね?! わたしの……っっ」


エリスティナにはふくらはぎ程のガウンの裾は、リヒトガルドの膝の辺りで淫らにはだけていた。他に着替えが無いのだから仕方がない。


「お兄様たちのお洋服、借りられればいいんだけど……」


——マイラなら、すぐに用意してくれるだろうに。


しっかりと部屋に鍵をかけたので誰も入って来られないはずだが、心はそぞろだった。秘めごとをしているというのは、何とも居心地が悪い。


それに———。


リヒトガルドが湯殿にいるあいだは、本当に落ち着かなかった。

扉一枚隔てた向こう側に若い男性が湯浴みをしている。濡れそぼる髪や逞しい背中を想像し、高鳴る鼓動にさんざん胸を叩かれた。


「お風呂っ、上がったのなら……ちょとそこに座って?」


呼ばれてそばにやって来たリヒトガルドからは、まだ冷めやらぬ熱気と石鹸の香りがする。

エリスティナが座るソファの隣に浅く腰を掛ければ……やはり彼の身体は。肩の上にあるその顔を見上げれば、湯浴みのあとの濡れ髪と、男性なのにどこか色気のある顔立ちに見下ろされていて。


リヒトガルドと同年代であろう兄達のそばで育ち、男性には慣れているはずなのに、血の繋がった身内ではない男の前では気持ちが全然違うのだ。


唖然と惚けていれば、いきなり大きな手のひらが目の前に伸びてきたので、思わず後ろにのけぞった。

リヒトガルドは「あ……」と小さく呟いたが、それでも片手は宙にとどめたままだ。


彼の指先が、否応なしにエリスティナの視界に飛び込んでくる。


「待って、髪が——…」

「ぇ?」


とどまればそのまま指先が伸びてきて、唇に絡んでいたひと筋の髪を外してくれる。指が僅かに頬に触れたので、肩が少し跳ねた。


ああ……まただ、この感じ。


頬だけでなく心の奥深くをくすぐられるような……兄達のものとは少し違う穏やかな優しさが、エリスティナをますます惚けさせた。

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