遠い『あの日』に





「まだ熱いわね……」


ぐったりと横たわる銀色の被毛の、エリスティナの指先が触れている猫の額ほどの広さの部分さえも、かなりの熱を持っているのがわかる。

目を閉じてヒッ、ヒッ、と小さく繰り返される呼吸はとても苦しげで、エリスティナの気を引くための演技や何かには見えなかった。



——結局、こうなる。



放っておけばいい。

マイラにそう言ったものの……窓の外が気になって仕方がなかった。けれどなるべく見ないようにしてのだ。


夜中になると雨足は更に酷くなり、嵐のような雨が窓を叩きつけた。


(さすがに、もういないわよね?この雨と風だもの)


あの幼獣……男? が、窓の下で何をしようとしていたのか知るよしもない。もしも彼が、エリスティナが窓辺に顔を覗かせるのを待っていたとしても。


(だからっ。わたしには、あなたの力になれるような事なんて、何も無いのよ……?!)


マイラが灯りを消して部屋から下がり、柔らかな夜具の中に入った後も気になって眠れやしない。

そんな自分に辟易しながら、躊躇いがちにベッドから足を下ろして窓際に向かい、階下を見下ろしたエリスティナはハッと息を呑んだ。


外にはもう『景色』と言う名のものは見当たらず、闇の中で雨が矢の如く空から落ちてくるだけ。

水の矢が降り注ぐびしょびしょの地面に、白っぽい布のようなものが漂っているように見えた。


——しっ、……死んじゃった?!


慌ててマイラを呼んで様子を見に行かせた。

のようなものがマイラの手によって回収された時……かろうじて息をしていたそれは、少しだけ目を開けたと言う。


それから暫くはマイラが一緒にいてくれたが、次の日も早いと言うので下がらせた。

マイラが用意してくれた氷嚢を幼獣の額に当てがおうとしたが、額が小さすぎて……。小動物の世話などしたことのないエリスティナは、すっかり戸惑ってしまう。


「お医者様に、診ていただいた方がいいかしら……?」


幼獣が余りにも辛そうにするので、心配にもなってしまう。

目の前の愛らしい生き物を見ていると、が人間の姿に変わる事など忘れてしまいそうになる。


氷嚢から氷を二粒取り出してハンカチに包み、細長くしてみれば丁度良かった。氷の冷たさが心地良いのか、幼獣の呼吸が次第に穏やかになっていく。


ホッとしたエリスティナが幼獣の顔をよく見てみれば、耳の手前に鹿のような角が生えていて、耳の中の毛はクリーム色だ。

その毛先を指で弾いてみれば、反射的に耳全体が動いた。


——……かわゆい。


あくまでも『幼獣』として見れば、やはりは途方もなく愛らしい。

エリスティナはベッドに頬杖を付き、小さなピンク色の鼻が呼吸を繰り返す様子をいつまでも眺めていた。


「……お熱、下がるかしら」





明るい日差しが瞼に当たるのを感じて、リヒトガルドはうっすらと目を開けた。

頭の中が朦朧もうろうとしている……今まで自分はどこにいて、何をしていたのだろう——?


ふと自分が、祖国グルジア王城の自室で眠っているような錯覚に陥った。


身体が触れる夜具の心地良さに、全ては夢の中の出来事ではないかと思った。

国王の葬儀の夜、部屋に届けられた手紙も、あの妖魔の謎めいた言葉も。呪詛をこうむったことも、豪雨の中に立ち尽くしていたことも——。


身体を起こそうとすれば、石のように重い。

そして自分は——、獣の姿のままだ。


(夢ではないのだな……)


叶いもしない期待を抱いたことに後悔をし、そんな自分に幾分落胆しながら何度かゆっくりと瞬きを繰り返すうち、周囲の様子が少しずつ目に入る。

四隅に装飾が施された豪奢な折り上げ天井に、朝日が反射して煌めいていた。赤紫色の上質なカーテン、どこか見覚えのあるスツール。


(ここは……)


ふと見遣れば、自分が今寝かされているベッドに突っ伏して、エリスティナがすやすやと寝息を立てているではないか。


昨夜の記憶が無いと言うのは、おそらく嵐の中で気を失ってしまったのだろう。

幼獣の姿をしている間は、体力も子犬並みでしかないのかも知れない。


エリスティナのすぐ近くに、中身がすっかり溶けてしまった氷嚢が置かれていた。


(私の事を、介抱してくれたのか?)


もう一度、彼女と話がしたかった。

そして取り乱していたとはいえ、唐突に理不尽な要求をしてしまった事を心から詫びたかった。


グルンと身体を起こし、姿に戻る。エリスティナは良く眠っていたが、思い切って起こすことにした。


介抱の礼を伝えたら——皇城を出て、グルジアに戻ろう。

呪詛は『闇魔力』の一種だ。呪詛を解くための、何か別の方法があるかも知れない。


「エリスティナ……」


ほんのり紅い頬を指先でくすぐれば、う〜んと小さく鼻を鳴らして長い睫毛を揺らしたものの、起きる様子は無い。


彼女には、過去に一度だけ会っている。


八年前。

記憶はおぼろげだが、グルジアと帝国の国交締結と外遊のために、オルデンシアの皇太子夫妻が幼い皇女を連れて訪れた。


リヒトガルドは、遠い『あの日』に想いを馳せる。





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