第二章
雨のなかで
*
*
「雨、止まないわね」
昨日から降り続く雨はエリスティナの部屋の窓辺を湿らせ、中庭のガゼボを濡らした。重くたちこめた雨雲の下の白いガゼボは灰色に見え、エリスティナ気に入りのガーデンチェアたちは寂しげに濡れそぼっていた。
「お兄様たちとのお茶会もおあずけね……。ねぇマイラ、次の夜会はいつだっけ?」
「夜会、でございますか? 来月の初め、まだまだ先ですよ」
三時のおやつとティーセットを運んできたマイラにむくれてみても、夜会はずっと先なのだし、この雨が止むはずもない。
「あああ〜っ。どうして毎日こうも暇なのかしら……。最近雨も多いわね?」
「八月になれば長雨も止んで、夏のお天道様が顔を出しますよ。それに、これから先はお輿入れのご準備も始まりますから。お忙しくなりますよ? 姫様も、マイラも」
なんと、輿入れの準備とな!
それは楽しみだ。
ドレスや靴、宝飾品の新調に始まり、ダンスの稽古、グルジア国についてのお勉強とかお妃教育とか?! あとは……お料理……いや、これは要らない。
他には、なにかあるかしら。え、もうないんじゃない? 忙しくなるような、大したことないような……。
しかし何より、楽しみなことがある。
「マイラ、『あの方』にはいつお会い出来るの? 婚礼の日までに一度くらいは会えるのでしょう?」
「さぁ、マイラは存じ上げませんが」
「八年ぶりにお会いするのよっ。初めて会った時はわたし、まだ子供だったし……。あの時よりは綺麗になったって、言ってくださるかしら……」
八年前の『あの日』といえば、グルジア国の王太子リヒトガルドは十七歳だ。
何も知らずにいたエリスティナだけれど——王太子はあの時、エリスティナを自分の許嫁として見つめ、
(きっとそのはずよ。だって、プロポーズされたんだもの)
——愛らしいお姫様。この私の、妻になってくださいますか。
ぼやけてはいるけれど、王太子の甘い言葉が心をよぎる。ほら、これはれっきとしたプロポーズ。ねぇ、そうでしょう?
綺麗なエメラルドグリーンの瞳を輝かせながら目を閉じるエリスティナに、マイラは頬を緩めたけれど……その眼差しはどこか不安げに揺れている。
マイラは、案じているのだ——。
小さい頃から空想好きで夢見がち。結婚に対しても空想の延長、甘い生活に憧れる少女そのもので、婚姻というものの『本当の意味』が理解できていないのではないかとも思える。
熱烈な恋に落ちて結ばれた、エリスティナの両親。
彼らの仲睦まじい姿を見て育ったエリスティナだから、それも致し方ないのかも知れないが……グルジア国との縁談はあくまでも国同士の政略的なもの。エリスティナの『甘い夢』とは、必ずしも一致しないのは明らかだ。
もしも嫁ぎ先での扱いが、無邪気なエリスティナが想い描いているものと天地ほどに違っていたら?
彼女はどれほどに傷付き、心を痛めるだろう……。
エリスティナを幼い頃から世話してきたマイラにとってはもう、皇女とはいえ娘同然の大切な存在であり——グルジアの不安定な情勢を耳にすればするほど、夢見る『娘』が案じられて仕方がないのだ。
「大丈夫ですよ、姫様。どんな状況であろうとも、マイラが必ずあなたをお守りしますから」
———この命に代えても。
二歳のエリスティナを初めて抱きしめた日、マイラはそう固く決意をしたのだ。だからこの先何が起ころうと、その気持ちは決して変わらない。
「マイラったらどうしたの? 真剣な顔をしちゃって」
「ああ……いいえ、すみません。あんなに小さかった姫様がお輿入れだなんて……なんだか感慨深くて」
「そんな顔をしないで? マイラはあれほど喜んでくれていたじゃない。王太子様の妻になるのですもの、グルジアの事だってしっかりお勉強しますからっ。いつもみたいに途中で逃げ出したりしないわよ? だから……マイラも期待していてね」
婚約指輪は、いただけるのかしら。
ラエルお兄様がレティア様に贈られた『誓いのリング』は、とても素敵だった。
オルデンシア皇室に生まれた男児は、十歳になると、未来の妻のために『
婚姻が決まればそれらを指輪に変え、生涯変わらぬ愛の誓いとして婚約者に贈る習わしがあった。
でもグルジアには、
「ああ! 『あの方』にお会いする時は、どのドレスを着ようかしら?!」
エリスティナはこれから短い旅にでも出るような笑顔で嬉々とはしゃいでいる。一度帝国を出れば、帝国の皇女にはもう二度と、戻れないというのに——。
皇女の婚礼を喜ばしいと思う気持ちと、皇女を案ずる想い。マイラの心は複雑な想いを抱えてしまうのだった。
窓辺を見遣れば、今朝よりも激しく降る雨が薄く開けた窓際を濡らしている。
「窓を閉めましょうね……」
ソファを離れ、窓辺に向かったマイラの目に、見覚えのあるものが映った。
エリスティナの部屋は皇宮の三階、階下は遠いが、いつも見ている風景の中に違和感を感じる。
「姫様……
マイラの声に、え?、と立ち上がり、エリスティナが階下を覗けば——激しさを増す雨のなかで、
白く濁る雨のせいでよく見えないけれど、この部屋に視線を向けているようだ。
「や……やだっ。あの子、あそこで何してるの?!」
「幼獣は、森へお返しになったのでは?」
(ま……まだ皇宮にいたのっ?)
幼獣を皇宮に連れて来たのはエリスティナだ。
けれど怖い想いをさせられた上に、身勝手な発言を繰り返すあんな男をエリスティナは知らない。
(記憶を消しさえすれば、女に何をしたっていいとでも思ってるんでしょう?! 女性蔑視もいいところだわ)
不躾なその男が
「ほ、放っておきましょう!」
「姫様、よろしいのですか……?」
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