残された言葉
*
*
皇城の裏庭の一角に緑豊かな温室を見つけたのは幸いだった。
一夜をそこで過ごしたが、人が立ち入る気配はない。朝一番に庭師と思われる男がひとりやってきて、一時間ほどかけて落ち葉や朽ちた果実などの掃除をしていったきりだ。
温室内はきちんと温度管理がされていて、その中心部には噴水が新鮮な水を吹き出し、立派に年輪を重ねる木々の中には食用の果実を付けるものもあった。
リヒトガルドは獣の姿のままコッソリと室内に侵入して喉の渇きを癒やし、栄養価の高いキルアの実を拝借して空腹を満たした。
獣のままの姿であれば、それに準じたものを口にすれば疲れや空腹を感じる事はないようだ。
小さな獣の姿であることに不便さを感じることはなく、むしろ人目に付きにくいのは好都合でもあった。
「………クゥ」
噴水の袂に身を落ち着け、初めて声を発してみれば、見た目通り仔犬のような声色で
自らが発した『声』なのに、その余りの頼りなさに何とも言えない焦燥にかられてしまう。
噴水の水辺に己の姿を映してみれば、想像通りの滑稽さに込み上げるものがあった。
身体のほとんどは銀色の被毛で覆われているが、耳元に生えた飾り毛は薄茶がかったクリーム色……これは自身の髪の色と似ている。
一見仔犬のようだが、ピンと立った耳の手前に鹿のような角が生えている形相は——妖魔の子、幼獣のものだ。
「…………」
溜息の一つでも吐きたいところだが、ひと
薄い水色とグリーンの羽を煌めかせた蝶が、何匹も宙を舞っている。
——これが、フレイアという蝶か。
リヒトガルドの祖国、海に面した南国グルジアには飛ばない種類の蝶。
その美しい容姿は本の中でしか見たことのないものだ。
光を浴びて輝く
——彼女……エリスティナの瞳と同じ色だ。
森の泉で彼に向けられたエリスティナの微笑みは神々しくて。
フレイアの
昨夜、その『神々しいもの』を怒らせてしまったのは紛れもなく自分自身だ。
——呪詛を解くためなら何だってする。
そう思って皇女に近づいた。突然に被った妖術に焦り、獣の姿に怯えた。
自分の意思で人間に戻れると思えば頭に血が押し寄せて冷静さを欠き、一国の王太子の誇りまでも失っていた己の残穢が虚しく目の奥をよぎる。
そんな自分を、敬愛する国王は草葉の陰から笑うだろうか。夏の太陽のように眩しく輝いていた、あの笑顔で。
——いつまでも不甲斐ない息子で申し訳ありません、父上。
『女性を……なんだと思ってるの?! 私はあなたの呪詛を解く道具じゃないのよ?』
エリスティナが放った言葉が胸の奥に反芻する……
皇女にもっと丁寧に接していれば。
何かが、違っていただろうか?
いや、そもそも帝国の皇女と交わる——つまりは『男女の契りを交わす』など、叶うはずもない。
それに部屋を追い出された今となっては、皇女と接する事さえも易々と成せるものではなくなってしまった。
——いったい、どうしたものか。
途方に暮れたリヒトガルドが目にしたのは、二人の帝国皇太子が連れ立ってガゼボに向かうところだ。
銀糸のような髪色に、アイスブルーの双眸を持つ双子の皇太子を見まごうはずがない。
ガゼボのすぐ近くに身を潜め、彼らの様子を注意深く伺う——それは皇城の皇宮に侵入できたからこそ叶ったチャンスだ。
三方を海に囲まれた港市国家、グルジア国は古くから南の貿易の拠点であって、その豊かな恩恵を受けられればと数多の国家から渉外要請を受けている。
そして御歳二十五歳の王太子リヒトガルドに寄せられる政略縁談の数々を挙げれば……小さな島国から大国までキリがない。
グルジアと国境を接するこのオルデンシア帝国——、それは兼ねてよりグルジアが最も恐れてきた脅威だ。
国王を筆頭にリヒトガルドに継がれた能力は、『
攻撃性は高いが『
いづれグルジアは帝国に取り込まれるだろうと、亡き国王が口癖のように言っていたものだ。
——させてたまるか。
幼獣は……ガゼボで寛ぎ、話し込む皇太子らの会話に耳をそばだてる。何か有用な情報が得られるかも知れないと思ったのだ。
しかし——、その内容はリヒトガルドが期待していたものとは程遠く、それどころか想像もしていなかった事柄へと派生してゆく。
——エリスティナが、グルジアに嫁ぐだと!?
それだけではない。
リヒトガルドが……王太子が暗殺されたとの噂まで出回っていると言うのだ。
——私はここに居る。王太子の暗殺など、そんな馬鹿げた話があるものか!!
みるみる呼吸が荒くなり、見開かれた目は血走ってゆく。
——だが、待て……。
『事の真相を知りたければ、呪詛を解け。』
星一つ出ない『黒夜』。
自室に届けられた一通の手紙、呼び出された先で遭遇した——妖魔。
『碧目種族の女と交わり契りを結べ。
リヒトガルド……
——いったい、どういう事だ?
『哀れなリヒトガルドよ。
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