大切な記憶





「……だって! 私、ポロポーズされたのよ?! 婚約してるのよ?? それなのにっ……」


「ですから、そんなに落ち込まなくても。ご心配には及びませんよ? 今夜陛下からもお話があったように、ご婚約の準備はきちんと進んでいるのですから。マイラは嬉しいのですよ……姫様も十八歳の成人を迎えられて。いよいよのだと」


——だから、そうではなくてっっ。


「もういいわよ……」


胃のなかのものが迫り上がるほどの不安にかられ、こんなにも消沈した気持ちでいるというのに。


両親との気が進まない晩餐のあと、部屋に戻ったエリスティナの着替えを手伝うマイラが呆れ顔をするのを見て見ぬふりをする。


泉で水浴びしているところを誰かに見られたかも知れないと、涙目でマイラに訴えた。

ほんとうは……見られただけではない。獣の姿だったとは言え、裸のまま素性も知らない抱きしめてしまったのだ。


『男に変身する獣』、それとも『獣に変身する男』。


どちらかわからないけれど、不思議と恐怖を感じないのは、獣の風貌がキュンとなるほど愛らしいからだろうか……。


拾ってきたけものが、あの男に……いや、あの男が獣に化ける……?! どちらにしたってマイラには言えない。きっと大騒ぎをして衛兵がすぐに駆けつけて。

そうなったら……? は、皇宮の侵入者として殺されてしまうだろう。


——ここに連れて来たのは、私なのにっ。


「姫様が晩餐にいらっしゃっているあいだに、幼獣にはミルクを与えておきましたから。明日には森にお返しくださいね? マイラも付き添いますから」


あれだけ弱っていたのだから、きっとお腹を空かせていただろう。

空腹を満たされたからなのか、けものはエリスティナのベッドの上で丸まって、再び気持ち良さそうに眠っている。


『皇女エリスティナ、私を助けて欲しい』


男の言葉が胸の中を何度も反芻する。

艶めいた声はすがるように哀しげで—— ……エリスティナを羽交い締めにしたのは襲う目的ではなく、ほんとうに誰かの助けが必要だったのではないか。


(助けてくれと言われても。私にいったい、何が出来るのかしら……?!)


心のざわめきを助長させるのは、先ほど見てきたばかりの穏やかな両親の笑顔。

両親は娘の幸せを心から願っている。だからこそ余計に心が痛むのだ。


晩餐の席で伝えられたのは—— …

——エリスティナの婚約が、正式に締結されたという話。


朝からマイラが上機嫌だった理由はそれだ。


隣国の王太子との縁談は、幼い頃から在った。

皇女が成人の儀を済ませるまではと締結を据え置かれていたものが、いよいよ正式な婚約として話を進めるというのだ。


「でも、ご婚礼時期は少し先になるそうですね? お相手国の天主様にご不幸があったとかで……」


マイラに何を言われても、沈んでしまった気持ちは言葉を受け付けない。


けがれて』しまった自分が………

高潔な『あの方』と結婚だなんて——もう、お許しいただけないかも知れない。


それはエリスティナが十歳になったばかりの、遠く淡い記憶のなかの出来事。

翌年に十八歳の成人を迎えるという『あの方』と、初めて顔を合わせた日のことだ。


—— ……お会いしたのは、たった一度きり。


周りを囲む大人たちの笑顔の意味がわからず、キョトンとするエリスティナに、彼は落ち着いた様子でひざまずき——そよ風のように優しい声でこう言った。


『愛らしい姫君。この私の、妻になっていただけますか?』


おぼろな記憶のなかで、幼かった自分がどんなふうだったか、『あの方』がどんな顔でどんな表情をしていたのかすらも、今はもう思い出せないのだけれど。

背中に光を背負ったその男性の髪と翼のような睫毛がキラキラ輝いて、それがとても綺麗だった。


“愛らしい“などというストレートな言葉を男性から投げられたのは初めてで、エリスティナの小さな鼓動は鋼のように打ち、何度も瞬きを繰り返しながら緊張を必死で隠そうとしていたのだけは覚えている。


思えばあれが——生まれて初めて、『恋』に落ちた瞬間だったとも思う。


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