『獣』けもの



「痛……っっ……」


ビシャッ!! 

大きな音とともにお尻を打ち、そのまま上手く真横に倒れたので、大事に至らなかったのは良かったけれど。


「やだ、……」


お尻はもちろん、体の左半分がいやな感じに冷たい。不快極まりなくベットリと顔に張り付いているのは——泥にまみれた髪!

馬から落ちた拍子に泥水に浸かったからこうなったのは、考えなくてもわかる。


——私……泥だらけ……っっ?!


キャップも、お気に入りのブラウスもジャケットも、真っ白なキュロットも。

どうなっているのかと想像すればおぞましく……。


あまりの落胆にしばらく呆けてしまう。

先ほどまでの上機嫌は、悲しいほどにさっさと夏空に飛び去ってしまった。


目を見開き、茫然と宙を睨む。



————はあぁっ。


いつまでも座っていたって仕方がない、泥水が冷たく染みてくるだけだ。


重たいお尻は水を吸ってなお重く、鈍く痛んで……ただ腰を上げるのにも少し時間がかかってしまう。


(馬を引いて皇城に引き返さなければならないかしら? 上りの坂道を、泥とお尻を引きずってじゃ辛いわね……)


それにこの髪!

服の汚れはまだしも、髪と顔がドロだらけなのは我慢し難い。


エリスティナの心に、ふと水場の風景が浮かんだ。

以前、兄達と出かけた時に立ち寄った泉がちょうどこの近くだ。


あそこなら、髪と身体の泥をおおかた落とせるでしょう。


「戻るのは、それからでも遅くないわよね?」


目的が決まれば、足取りも軽くなる。

気を取り直してアンドリュースの手綱を引き、泉の方へ道を逸れようとした時だ。


すぐそばの木の影から、小さいものがこちらを見ている。


「 ……? 」


エリスティナが見つめ返せば、ヒュッと木陰に身を隠す。

ちょっと気になったけれど、今はそれどころではない。早く泉に行って、とにかく体に付いた泥を落としたい!


そのまま道を逸れ、泉へと向かって馬を歩かせる。


「 ……?? 」


背後に気配を感じて振り返れば、ヒュッ。

そのはまた木陰に隠れてしまう。


危険なものではなさそうだけど、こんなふうに後をつけて来られては気味が悪い。


「ちょっとあなた、私に何か用かしら?!」


強い口調で声をかけ、勢い良く振り返ってみれば——小さな子犬に似た姿の『けもの』が、中腰のような姿勢のままでこちらを見つめていた。


「 ぇ……嘘…… 」



———二本足で、立ってるっっ!!



極端に短い手足でが立つ姿は、ちょっと異様だけれど何だかとても滑稽で……それに……



——可愛いぃぃ♡



エリスティナの視線はすっかりその愛らしい姿に張り付いてしまった。 


「あ、あなた……そんなふうに、立てるの?」


はギョッとした様子でやや固まったが……そのうち観念したのか、しずしずと両手(?)を下ろした。


『四本足』になったけものが、ゆっくりと近づいてくる。四本の足で歩いていれば、ただの丸っこい子犬にも見える。


「もしかして、アンドリュースの前に飛び出して来たのは……あなた?」


黒っぽく見えていた被毛は、近づくにつれて酷く汚れてそうなったものだとわかる。泥にまみれた毛並みは、ところどころ茶色く固まっていた。


「可哀想に。あなたも……私と同じね」


思わずしゃがんで、腕が届く距離にたたずむけものに両手を差しのべた。

毛並みから覗くふたつの青い目が——エリスティナの『瞳』をじっと見上げる——……



————ビクッ。


けものの目が見開かれ、被毛の背中に緊張が走った。



「あなたを、キレイにしてあげたいわ」



エリスティナはけものを優しく抱き上げた。

青い目をしばたたかせながらも……腕の中のそれは暴れることなく、じっとしている。


「わたしと一緒にをしましょう? 洗ってあげるから……!」




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