獣の恋




木々の合間から落ちてくる初夏の日差しがとても眩しい。

森の中にひっそりと在る泉は、周囲の熱を打ち消して涼やかな空気を纏っている。


泉といえども自然にできたものではなく、人の手によって美しく造られた、皇城壁の内側にあるオブジェの一つだ。


ライオンの口から放たれる水しぶきは七色の光のプリズム。

白い大理石は歳月を重ねたことで何とも言えない風合いを得ていて、まるで神殿の中に存在するようなおごそかな雰囲気を保っていた。


「ほら、綺麗でしょう? 雲の合間から差してくる真っ直ぐな光はね、『天使のはしご』っていうのよ……」


遮るものの無い空から『天使のはしご』が降りてきて、木々の合間を通って美しい泉に掛けられる。


腕の中に収まっているけものが、突然くっと顔を上げた。


「あら……どうか、した?」


獣の青い目が、エリスティナを見上げている——すがるような、とても不安そうな眼差しで。


「もしかして、お水が怖い……?」


ふる、ふる、ふる。

獣が、小さな頭を三度振った。


「今、否定……した?」


(そんなはずはないわよね、獣ですもの)



———人間の言葉など、わかるはずがない。



「っ、誰も、いないわよね?」


念のために周囲をよく見渡せども、静けさに包まれた森には人影どころか小動物の影すらも見当たらない。

髪と顔にベットリと付着した泥は、すでに表面が乾き始めていた。


、さっさと済ませちゃいましょう……!」


アンドリュースの手綱を近くの木に結び、獣を泉の縁にそっと立たせる。


「逃げないでね……? 動いちゃダメよ。いい子だから、そこでじっとしていてね」


ブーツを脱ぎ、裸足になる。

ジャケットを脱いでみれば、ブラウスはそれほど汚れていなかった。


「もう少しよ、待っていて……ねっ?」


胸元のリボンをほどき、ブラウスのボタンを外していけば、


ふるふるふるふる。


獣が、また頭を振っている……さっきよりも、ちょっと激しめに。

ややあって、獣はふいっとエリスティナに背中を向けた。


「……ふふっ、おかしな子ね? まるでテレてるみたい」 


細い足に張り付いた白い布も泥で酷く汚れていた。


「濡れたキュロットは、一度脱いでしまったらもう履けないわね……」


そのまま泉に入り、固まりかけた土を洗い流す。鈍痛がまだ続くお尻に水の冷たさが心地良い。


どれにベトベトの顔と、髪——。

これらを洗うとなれば、もう入浴するのも同じだ。

ブラウスと下着をこれ以上濡らすわけにはいかない。


下着も外し、裸の身体をかがめて長い髪に付着した泥を清らかな水に浸ければ、次々と流れ来る清流が白濁りを溶かし去り、エリスティナの金糸のような美しい髪を水面みおもに覗かせた。


気持ちいい……。


「さぁ、次は番よ?」


エリスティナは、泥で固まった獣の被毛に手をかける。

後ろ向きのは、急に背中を持ち上げられてフッと毛を逆撫でた—— ………


——あたたかくて柔らかな胸に身体が触れる感覚。


けものは感じ取る、人の抱かれていることを。


エリスティナは獣を水の中にそっと入れ、立てた両膝の上に座らせて——汚れきった被毛を洗い始めた。

か細い指先が、被毛の下の身体に触れる。



「ほら、とってもいい子。今、綺麗にしてあげる……」



獣は、見上げる。

艶やかに濡れたシルバーブロンドを白い素肌の上に長く垂らし、背中に光を背負った神々こうごうしいものの指先が、自分の身体に触れている。


成熟しきらない滑らかな曲線を描く肢体に、浅い水場に注いだ日の光がキラキラと反射して。

宝石のように煌めく瞳に——吐息混じりの言葉を発する薔薇色の唇に、心を射抜かれる。


先程までは全身が泥にまみれ、汚れきった髪もまとめていたはずなのに……ああ。



————なんと美しいのだろう。



エメラルドグリーンの瞳から目が離せないまま、青い二つの双眸そうぼうを見開いて、獣は頭を振ってイヤイヤを繰り返した。


「もうすぐ終わるから、頑張ってっ」


水の中だというのに、身体中が、顔が……!

みるみる火照っていくのがわかる。



自分はいったい、どうしてしまったのだろう——?



馬から落ちたこの女性の『碧目ろくもく』の双眸を見たとき……神は自分に味方をしたと思った。


彼が求めていた皇女エリスティナに、運よく遭遇出来たのだから。


自らの能力で『記憶』は操作できる——人気ひとけの無いところに連れて行かれるのを良いことに、時を見計らい『碧目ろくもく種族』である皇女エリスティナとつもりでいた。


皇女の記憶を消し去り、事のを自分の中だけに留めておけばいいと。


——自国グルジアの為ならば、この呪詛を解く為ならば何だってする、たとえ人道に反する行いであったとしても。


そうすればすぐに、いや、本当ならばもうすでに……自分にかけられた呪詛など、簡単に解けている筈だったのに。



「……えっ、どうしたの?あなた、平気??」



グルジアを出てからこの数日、けものは水しか口にしていない。

突然に呪詛を被ってしまったと言う驚愕、得体の知れない恐怖、そして——。


途中で嵐に遭い、雨風に打たれ続けながら……

ひたすらに目指した帝国オルデンシア、そして辿り着いた『碧目ろくもく』の皇女。


だからきっと、気が抜けたのだ。

これで……姿を取り戻し、グルジアに帰れると。


目を細めたのは、太陽が眩しかったからでも、体力が限界を迎えたからでもない。

皇女の白い肌が、髪が、艶のある唇が……ひどくまばゆく見えたから。


エリスティナの胸に抱かれながら——けものに姿を変えられたグルジア国の王太子、リヒトガルド・アレクシス・グルジアは——静かにその意識を手放した。


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