交わらない(2)
視界いっぱいにはしばみ色の髪が覆う。
彼の強い眼差しがエリスティナの碧色の瞳を捉えた。
「この身に情けをかけてくれると言うのなら。今ここで私と交わり、この呪詛を解いてくれないか。私を、救うと思って——」
自分がいったいどんな状態になっていて、視界を占拠する男が何を言い放ったのか。何度もまばたきを繰り返すうちに、ゆるゆると動き出した思考が状況を飲み込んでいく。
「……君を無理に奪うような真似はしたくない。これが身勝手な願いだというのも
交わるとか、奪うとか。
聞き捨てならない文言はきっと、男女の性交を示すものだろう。
頬を紅潮させるエリスティナを横目に、男は涼しい顔をしている。
「さっきから、何言ってるの……あなた正気?」
「そう案ずるな。呪詛を解けば、私が君の全ての記憶を消し去る……私が去ったあとは全てが元通りだ。何も残らない」
首筋に吐息がかかる初めての感覚に、背筋がすくんだ。
「ば…………、」
顔は火を噴きそうなほど熱くなり、耳たぶまで赤く紅潮するのはこれ以上ないくらい。
組み敷かれた恥辱や恐怖からではない、そんなものはすでに吹き飛んでいた。
「———バカなのっっ!!」
エリスティナのけたたましい罵声は、リヒトガルドをひどく驚かせるのにじゅうぶんだった。彼が目を丸くした隙にスルリと腕を抜け出し、ベッドの端へと逃げる。
「あなたがどこの誰だか知らないけれど……っ。わたしは帝国の皇女よ……?! こんなことをして、ただで済むと思うの……それに、」
また目頭が熱くなってくる。
何故そうなるのか、エリスティナ自身にもわからない。再び溢れ出した涙で頬がぐちゃぐちゃだけれど、それでも頬を真っ赤に硬直させたまま思い切り叫んでいた。
「じょ、女性を……なんだと思ってるの?! 私はあなたの呪詛を解く道具じゃないのよ? たとえ記憶が消されたって、身体に刻まれた『傷』は……一生消えることなんて無いんだから……っっ」
リヒトガルドの青い双眸が大きく見開かれる。
「そもそも夫婦でもなければ、心を通わせたわけでもないのにっ。名前も知らないあなたとなんて……
エリスティナの言葉を聞きながら、リヒトガルドは目を閉じ、片手で顔を覆う。フウッと小さく息を吐きながら、そのまま額に落ちた髪を所在なげに掻き上げた。
——やはりエリスティナは、覚えていないのだな。
「……ああ、確かに君の言う通りだ。すまなかった」
「は、反省しているようには見えませんけどっ……!?」
リヒトガルドは姿勢を正し、ベッドの上に膝まずくようにして頭を下げる。
「本当に……すまなかった。出逢って間もない君に対する無礼を、どうか許してくれぬだろうか」
エリスティナの視界は、
あれほどの怒りすらも、その瞬間遠のくほどに強く突き刺す視線——先ほど彼が言った『忘却術』は、この瞳を使った『能力』に違いない。
『すまなかった。』
その
美しいものに囲まれて育ったエリスティナでさえも、その刹那な眼差しに心を奪われてしまうのだ。
「ならば、待つ……君が私に好意を持ち、この身を受け入れてくれるまで。私との記憶を心と身体に刻み付けたいと、君自身が望む日が来るまで」
伏せられていた睫毛が、今度はしっかりとエリスティナに向いている。
口元にはわずかな
「待つ……って……」
———— は?!
あなたがいくら待ってたって。
私が受け入れる日なんて来るわけがないでしょう……??
私がお慕いするのは、『あの方』。
——グルジア国の王太子、リヒトガルド様だけなんだからっ。
「出て行って!」
両手を伸ばして、男の胸板を力一杯に押しのける。
「あなたを助けてあげたいと思った。でも無理よ……そんな要求は受け入れられないし、私はあなたの呪詛を解いてあげられない。だから他をあたって? あなたのその容姿なら、すんなり受け入れてくれる
「しかし、私の呪詛は……」
リヒトガルドは言葉を失ってしまう。
———私の呪詛は、『
男が動かないので、エリスティナは彼の胸板を拳で思い切り叩き続けた。
「ここは皇女の寝室よ?! 早く出て行って……! 出て行かないなら、人を呼ぶわよ……」
マイラッ、衛兵ッッ!
虚空に向かって叫べば、男の目がとても悲しそうに揺らいでいる。
そしてクルリと瞬時に『獣』に戻った彼は、素早くベッドを飛び降り——薄く開いた寝室の扉の向こう側へと、見る間に走り去ってしまった。
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