『黒夜』こくや



———私としたことが、呪詛を被るなど迂闊だった!!



ザザッ、ザッ……

白銀の美しい被毛、青いをしたけものが、夜の闇を駆け抜ける。


今夜は星ひとつさえ現れない——『黒夜こくや』。


漆黒の帷はすっかりと降り、昏い森の中は一筋の光さえも見当たらない。在るのは銀の毛並みが草木を揺さぶる雑音と、『彼』の激しい息遣いだけ。


——女と交わる、この姿でか!?


草の茂みに飛び起きた動物たちを散らしながら、彼は走り続けた。


闇のずっと向こうに草木が開けた場所がぼんやりと白く見える。

彼はそれを目指した。

喉の奥から迫り上がる燃えるような渇き……身体中が水の匂いを欲している。


——いったい、どうやって。


絶望感が押し寄せ、心を打ちのめす。


夢中で走るうちに、銀色のけものは既に人間の視界をなくしていた。

光が無くとも次第に瞳孔が慣れ、一里先までもが双眼鏡を覗いたようにひどく良く見える。どうやら鼻も効くようだ。


『ああ……』


彼は小さく声にならない声を発した。


視線の下に在る水溜り。

その深く湛えられた水面を夢中でむさぼる。


乾きが癒えると——

獣の二つの青い双眸は、空を見上げた。


ブルッと肢体を震わせ、胸の奥底に意識を集中させれば、ムラムラと湧き立つような妙な感覚に囚われる。 


……なんだ、これは?!



『ウウ、ウウウッッ——あああああ!!!』



頭の先からつま先まで稲妻が走るような痛み。だがそれはすぐに途絶え、豊かな被毛が白く滲みながら消えてゆく。


長く伸びる手足、銀糸であつらえた彼の着衣とともにがっしりとした体躯を次第に現し、そして最後に人の頭部が現れた。

はしばみ色の髪が、ぬるい風に流れる。


「も……戻れる、のか……?」


視線の下に彼は両手のひらを開き、凝視した。



の妖術……じゃないか……」



手のひらで顔を覆う。

フツフツと込み上げる笑いを堪えるが敵わない。顔を覆っていた手をそのまま口元に充てた。


「フ、ッ……」


これは願ってもない好都合だ、人間の姿に戻れるのだから。彼の胸中を占めていた絶望感が、みるみる安堵に変わってゆく。



——ならば、これからどうする?



碧目ろくもくの種族』と言えば、かのオルデンシア帝国皇室、皇女エリスティナ。


彼はけものの姿に戻り、北に向かって走る。

碧目の血を引く皇女に近づき、より他はない。そして私の『能力』で、皇女の記憶を消し去る……。


国王の亡きあと、一刻も早くを解き、第一王子である自分が王位に就かねばならない。

さもなくば、我が国は欲にまみれた者たちの手に堕ち、亡き父と母の悲願も果たせぬまま帝国の属国に成り下がるだろう。



——妖術を解く為ならば、何だってする——!



闇の森を駆け抜けながら、けものは青く澄んだ鋭い目をギラリと輝かせた。





「姫様。今夜は『黒夜』ですよ」

「マイラ……。空が真っ暗で怖いわ」

「早く眠ってしまいましょう……妖魔が来ないうちに」


「……妖魔?」

「黒夜には妖魔が出て、人間をけものの姿に変えてしまうのですって」


「へぇぇ……」


ベッドに入ると、メイドのマイラが柔らかな夜具をふわりと掛けてくれる。


「怖がらなくても平気ですよ。そんなものは迷信でしょうし、姫様には皆目、関係のない話でございますから」


「……あの闇のなかから、誰かの手が伸びてきそうね」


黒々とした空から身震いする身体ごと背けて——エリスティナ・レティロワイエ・オルデンシアは、母譲りの碧色の瞳をゆっくりと閉じた。






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