トラの雨夜の……?
絹に言われるまま、清良がお風呂に入っていた間のこと。
ダイニングテーブルの椅子から立ち上がったトラはペタペタと歩き、二匹の猫の邪魔にならないようにソファの端っこに座った。ピクン、と身体を揺らした茶色い猫『とまと』はむっくりと起き上がり、ポテポテとトラの方に近寄る。
「とまとー、名演技だったな。ご苦労!」
とまとをひょいっと抱き上げたトラは、バンザーイをさせながら後頭部を鼻でぐりぐりした。とまとは「にゃあん」とトラに応えるように小さく鳴き、きゅうと目を細める。
「……ぼっちゃん。閻魔様に舌を抜かれますよ」
清良を泊める部屋の準備をして降りてきた絹は、そんな呑気な様子のトラを見て小さく溜息をついた。
「嘘はついてないよー。猫を連れ帰りたい、ついてきてってお願いしただけ」
「飼い猫を捨て猫に仕立て上げること自体、大噓でしょう」
猫の『とまと』と段ボール箱を持ち、
「上手くいったら清良さんを連れてくるからー」
と言ってトラがこの家を出たのは、夜の8時頃のこと。
そう、つまり『とまと』はもともとこの家の飼い猫だったのだ。トラは捨て猫を装い、清良が見過ごせないような状況を作り上げたのである。
予備校でのアルバイトで清良のスケジュールを完全に把握していたトラは、帰り道であるあの路地でひたすら清良が来るのを待っていたのだ。
天気予報をチェックし、清良の休日も調べ、この日に狙いを定めていたトラは、
「よーし、おあつらえ向きの雨だー!」
と拳を振り上げ、意気揚々と作戦を決行したのである。
そして絹はというと、
「清良さん、あんまりオレに興味示してくれないからさ。もし連れてきたら、清良さんにオレのこととかウチのこととか話してあげてー」
とトラに頼まれていたのだった。
「だってさー、清良さん、全然歩み寄ってくれないんだもん」
「八歳も年上となれば、そりゃ女性は考えますよ。むしろまともです」
「でしょー? すごくしっかりしてるでしょー? でも今みたいにまんまと引っ掛かっちゃったりして、抜けてるとこもあるんだよねー」
「……」
絹は再び溜息をついた。
このぼっちゃんは本当に無邪気で人当たりもよい。誰かの悪口を言ったことは一度もなく、気立てもいいのだが……ときどきとんでもない行動に出ることがあって驚かされる。
思えば子供の頃からそうだった、と絹はトラの数々のイタズラを思い返した。
最近だと、髪を虎縞模様に染めたことだろうか。
「旦那様に何てお伝えすれば……!」
と泣き出しそうになった絹に、
「ちょっとフザけたくなっただけだよー。春休みだけだしさ!」
と、トラは楽しそうに言っていたが。
その動機は様々で、「絹を驚かせたい」「気分転換」「面白いこと思いついた」といずれもまったく悪気が無いものなのだが、純粋すぎるからこその怖さがある。やはりトラに、少し世間知らずなところがあるのは否めない。
どちらかというと飽きっぽい性格のトラは、周りとは広く浅く楽しくマイペースに付き合ってきたが。
そのトラが、
「絹さんどうしよう! これが本当の初恋! オレ、運命の人に出会っちゃった!」
とその虎縞模様の頭で叫び出したときには、絹は
「これは本当に血迷った!」
と本気で心配した。
トラは匂いと人の感情に敏感で、居心地が悪い場所からはそそくさと逃げ、面白そうな場所にはちょいと顔を出し……と、あちらこちらをフラフラしている。
そのトラが何か一つに執着するというのは、かつてないこと。
しかも八歳年上の女性だという。一体何がどうしてそうなった? 予備校講師だと言うが、何だかんだ言っても夜の仕事ではないか。
騙されているのではないか? 場合によっては旦那様に顔向けできない!
……と、トラの保護者代わりでもある絹は胃と心臓をたいそう痛めていたのだが。
「そんなんじゃないよ。本当に真面目で真っすぐな人なんだよー」
「そうは言っても……」
「いまちょっと、作戦決行中なの。時期を見て連れてくるから! その眼で確認して! ね!」
というようなやりとりが夏休み前にあり、この日ついに、トラは清良を家に招き入れ、絹に会わせることに成功したのだった。
「でも、絹さんも名演技だったね。驚いたふりしてさー」
「驚いたのは本当です。まさか本当に連れて来るとは思いませんでしたし」
「で? で? どう思った?」
「……気の毒になりました」
「何でさー!」
「清良さんがぼっちゃんに騙されているからですよ!」
「あ、そっちか。そうなんだよねー。清良さんってちょっと危なっかしいよね。何でも真正面から受け止めて真面目に考え込むからさあ。もう少しユルくてもいいのになー」
でもそこがいいよね、その全部をオレにくれたらいいのに、と呟きつつ、トラが「えへへっ」と照れ笑いをする。
確かに、この「その場さえ上手くいけば後はどうとでも」と適当にやりがちなぼっちゃんには、何事にも真摯に取り組んできたと思われる清良が新鮮に感じたのかもしれない、と絹は考えた。
絹からトラの生い立ちを聞いた清良は、驚いてはいたものの、ただそれだけだった。
その事実をまっすぐ受け止めていた。トラへの態度を変えることもなかった。変に同情的になる訳でも、目の色を変える訳でも、尻込みする訳でもなく。
そしてトラも、普段通りだった。変に見栄を張る訳でも、その場しのぎの耳障りの良い言葉を並べる訳でもなく。
強いて言えばたっぷり甘えん坊……というより、デレデレだったが。
一緒にいること、話しかけられること、怒られること、そのすべてが嬉しくて仕方がない、といった様子だった。
「で、さ。いいよね? オレ、清良さんじゃなきゃ嫌なんだ。絹さんもいいって思った?」
つまるところ、トラはそれが心配だったらしい。
保護者代わりの絹を心配させたくない、絹にも応援してほしい、と。
自由気ままなおぼっちゃま、だけど周りの人間を不快にさせることだけは絶対にしないのがトラだ。
絹の脳裏に、先ほどのトラと清良のやりとりが蘇った。
トラは最初、本宅の客間に清良を案内しようとした。まず警戒心を解くべく猫の件もあってこちらに来てもらったものの、本来この家は絹の家であってトラの家ではないからだ。
しかし清良は、
「とんでもない」
と驚いたように右手を振った。
「何で? 本邦初公開だよー」
「何をバカなことを」
「せっかく来てくれたんだから、案内しようと思ったのに。オレの家に入るの、嫌?」
「そういう問題じゃない。主のいない家に他人が上がり込むものじゃないからよ」
「主、オレ……」
そう言って自分を指差すトラに、清良が
「違う」
とやや食い気味に否定した。
「世帯主はお父様でしょ。そして家を管理し、守っていたのはお嫁に来たお母様」
「由貴子さんのこと?」
「そう。そういう方たちが知らない間に家に入るなんて、泥棒と大差ないわ」
「そうかなー? 考え過ぎだと思うけどなー?」
全然ピンときていないトラに、清良がやれやれといった風に息をつく。
「じゃあ、トラに聞くわね。トラが留守の間にトラの部屋に他人が入ったら? 例えば高校時代の同級生とか」
「……うーん、関係性によるかな」
「ほらね。知らない仲じゃなくても、ちょっと引っ掛かるでしょう」
「うーん……」
「トラはね、周りに愛されてるし多少のことは許されることが多かったと思うのね。それは勿論トラのいいところだし、人徳とも言えるけど」
「うん」
「少しは否定しなさいよ……。まぁ、いいわ。だけど社会はなあなあじゃ駄目なときもあるの。周りはこう思ってくれるはず、こうしてくれるはず、なんて甘いことばかり考えてたら足を掬われるわよ」
「ふうん……」
何と的確な指摘だろうか、と絹はひどく感心した。
ぼっちゃんを見ていて何となく感じていた不安はそういうことだったのか、と目から鱗が落ちたようだった。
確かに清良の思考は少し堅いところがある。しかしトラに必要なのは、これぐらい真剣にトラのことを考え、叱ってくれる人かもしれない。
絹の心は決まった。やや心配そうに絹を見上げるトラに、ゆっくりと、だが力強く頷いてみせた。
「良い方だと思いますよ。とても常識的な方のようですし」
「やったー!」
「ですが、こんな悪巧みはこれっきりにしてくださいね」
真面目なだけに、トラの思い付きの行動に振り回されるであろう未来が見える。
それはさすがに気の毒だ、と絹は何度目になるかわからない溜息をついた。
絹なりにやや語気を強めて言ってみたものの、トラは
「悪巧みって言わないでよ。これは作戦!」
とあまり深くは捉えていないようだった。
「オレ絶対に清良さんに振り向いてもらうからね。絹さんも協力してね!」
「しますけど、ぼっちゃん、あまり清良さんに無理を言っては駄目ですよ」
「わかってるよー」
清良さん、どうかぼっちゃんの傍にいてあげてください。
ときどき突拍子もないことをしますけど、人を傷つけるようなことは絶対にしない、素直な良い子なんです。
大変でしょうが、私も協力いたしますのでなにとぞよろしくお願いします。
……と、心の中で深々と頭を下げる絹だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回はこれにておしまい。
このおまけの話の本当のサブタイトルは、『トラの雨夜のハカリゴト』です。
清良は意外にチョロインかもしれない……が、理性的であろうとするタイプなので、半落ち状態がずっと続くと思われます。( ̄▽ ̄;)
読んでいただき、ありがとうございました。
無邪気なガンダルヴァは底が知れない 加瀬優妃 @kaseyou
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