第2話 そうね、そうだったわ
そうだ、昨日は珍しく定時に予備校から帰れたんだった。四月に入って、ようやく春期講習も終わって。生徒の募集時期ではあるけど、授業のコマ数はそう多くない。その分、新規受付の準備とかやることも多いんだけど、どうにか片付けて。
生徒の質問に掴まることもなく、緊急職員会議もなく。
一度マンションに戻り、ピッチリと後ろにまとめていた髪を下ろす。変なクセがついてしまっていたから大急ぎでシャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かし、化粧水をピチャピチャと顔に当てながら、この間買ったインディゴブルーの開襟シャツを下ろそうかな、と考える。
普段愛用している眼鏡はやめて、結婚式に出席するときぐらいしか使わない使い捨てコンタクトを入れる。夜だし暗めの店内でも映えるようにと普段のメイクよりしっかりと陰影をつけ、赤味がやや強めのリップを選んだ。
毛先を巻いて、銀色の小さな輪が揺れるイヤリングをつけると、鏡には普段の自分とは全然違う姿が映っていた。
恋人の敦とは、私が大学1年、敦が大学3年のときから付き合ってるから、もうすぐ八年になろうとしている。
学部は私が文学部、敦は工学部と違うけど、サークルが一緒だった。新入生の私にサークルの勧誘の声を掛けたのが敦だった……という、どこにでもある出会い。
敦は院まで行ったから私たちの卒業は同時だった。だけど普通の会社員をしている敦と予備校講師の私はなかなか時間が合わなくて、頑張ってたけど、お互い責任ある立場になればなるほど自由は利かなくなっていった。
昨日のデートも、四か月ぶりにやっと合った休みだった。
だから当然敦は普段の私はおろかすっぴんだって知ってるし、そうめかし込む必要はないんだけど、会わない間にフケた、手を抜いている、とは思われたくなかった。会っていない期間が長かったから、尚更。
それに……もう八年も付き合ってるし、
「この人と結婚するのよね?」
と何となく思ってたし、そろそろそういう話もしないと駄目ね、と段取り屋の私は考えていた。
プロポーズとか何もなかったけど、将来はあの町に住もうか、とか、出来る限り仕事は続けたいよね、とか、そういう話もしてたと思う。
ひょっとしたら今日のデートでそういう話が出るんだろうか、という淡い期待もあった。
ああ、でも……今思い返すと、そんな話をしていたのはもう一年以上も前だ。ここ半年ぐらいはそもそもなかなか会えてなかったし。そして、会えなくても平気な自分になってしまっていたし。
三か月ぶりのデートの待ち合わせは、いつも使っていた駅前でもお洒落なレストランでもなく、お互いの最寄り駅ですらない初めて行く喫茶店だった。
七時に待ち合わせなんだからすぐに食事に行けばいいのに、何で喫茶店を挟むんだろうとは思ったわよ。
嫌な予感がしなかったとは言わない。
でも――私は無理矢理ねじ伏せた。だって、考えたくないことだったから。
* * *
「ごめん、清良。俺……他に好きな人ができた」
久しぶりだね、今日はどこに食べに行く?……と、たわいのない話を始めようとした私を制して、敦はいきなりぶちかました。
とにかく最初に言わないと駄目だと思ったのだろう。会話が弾めば弾むほど切り出しにくくなる。
テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた私達。その間に置かれた、手つかずのアイスコーヒー。
その中の氷がカラン、と音を立て、止まっていた時間が動き始めた。同時に、私の頭の中も。
「……片想い?」
「……いや……」
「じゃあ『好きな人』じゃなくて『恋人』ができていたってことよね」
要は二股状態になったってことでしょ? そういうの、誤魔化さないでよ。
「ああ……まぁ……うん」
「会社の人?」
「うん」
「いつから?」
「半年……いや、三か月ぐらい前かな」
事情聴取をしているうちに、なかなか会えなかったのは敦が会おうと言わなくなったからだ、ということに気づいた。
そして私も、無理に時間を作ってまで会おうとする努力はしていなかった、ということも。
不思議と、心は落ち着いていた。
多分、敦と会ったのが三か月ぶりで、しかも半年以上エッチはおろかキスもしていなかったからだろう。
どこの誰かも分からない女を抱いた手で私にも触れていたとしたら、気持ち悪さが先に立って激しく詰っていたと思う。
その点だけはマシだったな、と思いながら目の前の敦を見る。
テーブルの上に置いた両手を組み、右と左の親指をくるくる回している。後ろめたかったり、言いたいことを飲み込んでいるときの敦の癖だ。
自分のやりたいことに没頭するあまり周りに気を遣えない私と違って、敦は優しくて気が利くし、真面目だ。
私に会おうとしなかったのも、会っても何もしなかったのも、あっちの女に義理立てしていたから、かしらね。
変なところで敦の真面目さが出たわね、と妙に冷静になってしまった。
「あ、そう。ところで、どうしてこの喫茶店を選んだの? この駅自体、あまり使わないよね?」
「……」
「彼女の最寄り駅、かな? このあと彼女の家に……あっ、ひょっとして彼女が報告でも待ってるとか?」
「……っ!」
敦はビクッとして顔を上げると、何かを言おうとして、すぐにふるふると首を横に振った。
「清良のその、人の言動の裏を読むクセ、好きじゃない」
「裏なんて読んでないわ、ただ状況分析しただけよ」
「そうやって淡々と詰められると叱られているような気分になる」
「それは自分に後ろめたい気持ちがあるからでしょ?」
清良のそのハッキリ何でも言うところが好きだ、とか言ってたのにね。
自分は気にしぃですぐ人の顔色を窺ってしまう。だけど、清良の前だとゴチャゴチャ考えなくて済むからって。
変われば変わるものね。
「それで……清良は、どうする?」
「は?」
どうする、って何? 私に決定権があるの?
じゃあ、私は別れません、そっちの女と別れてと言ったらそうするの?
違うわよね。
私が「じゃあ、別れましょう」と言うのを待ってるんでしょ。そう言うって解ってるから。
「どうするって、敦はどうしたいの?」
「えっ!?」
「私に頭から言われるのが嫌だったんでしょ。だったらちゃんと自分の意見を主張しなさいよ。最後だし、ちゃんと聞くわ」
テーブルに両肘をつき、両手を組んで顎を載せる。
ほら、ちゃんときっかけはあげたでしょ? 匂わせもしたわよ。
私たちの間に終止符を打つのは、敦なのよ。私じゃない。
そのことは、しっかりとその胸に刻みなさい。
最後の責任ぐらい果たして。そんな卑怯な人間ではなかったはずよ。
「え……と……」
「ん?」
「清良と、別れたい。別れて、彼女の傍にいたい」
「そ、わかった」
私はテーブルから腕を下ろすと、さっと透明なアクリル製の伝票差しに入っていた伝票を抜いて立ち上がった。
「え、ちょっと……」
「もう私に用は無いでしょ」
「いや、でもここは俺が払うよ」
「奢られたくないの。じゃあね」
これ以上、敦の顔を見ていたくはなかった。
落ち着いていたはずだった。けれどはっきりと「彼女の傍にいたい」と言われて、心臓が抉られた。
そうか、私の傍にはもういなくていいって。むしろいたくないって。
敦は、そう思ったんだね。
はっきりと、そっちの彼女を選んだんだ。
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