第3話 で、この少年は何者?

 喫茶店を出てどうしたっけ……。とにかく早足で雑踏を歩いていた気がする。

 馴染みのない駅の改札をくぐって、自分の家に向かう電車に乗って。

 座席に座ったときに、

「あ、本当にもう敦とは終わったんだ」

と気づいて、ぼんやりショックを受けて、涙がすうっと流れて。


 ヤバい、電車の中で泣くとかあり得ない、と思って、慌てて下を向いた。

 そしたら巻いた毛先がハラハラと落ちてきて、

「あー、めかし込んでバカみたい」

と思って余計に喉がキュッと狭まったけどぐうっと堪えて。

 一筋だけ流れた涙を拭って、そのまま寝たふりをしたんだったわね。


 最寄り駅で降りて、今日は外食するつもりだったから家の冷蔵庫には何もないことを思い出した。

 だけど自分で作る気にはとてもじゃないけどなれなくて、すぐそばのコンビニに入って……そうだ、そこで缶酎ハイを買ったんだ。オレンジとか桃とか葡萄とか、カラフルで美味しそうな絵がついているやつを、6本ほど。


 普段、お酒は殆ど飲まない。ビールを飲んだことはあるけど苦くて不味くて、これならジュースを飲んでた方がマシ、とか思っていた。

 サークルの飲み会で潰れそうになった敦の介抱をするのがいつも私の役目だったな、とか余計なことも思い出してまた気持ちが凹んできて、

「えーい、飲んで忘れちまえ!」

とか思ってバカみたいにカゴに入れたんだったわね。


 でもって、敦がいつも翌日にスポーツドリンクをガバガバ飲んでたな、ってことを思い出してスポーツドリンクも3本ほど買ったから、コンビニのビニール袋がパンパンになっちゃって。

 ただでさえ気持ちが滅入っているのに、こんな重いものを持って駅から徒歩20分の道のりを歩くのはしんど過ぎる、と思った時に公園のベンチが目に入ったのよ。


 ここで飲んでいけば荷物は軽くなるなあ、缶酎ハイってジュースみたいなものだって言うし大丈夫でしょ、と。

 そんな無計画な買い物なんて普段の私なら絶対にしないし……まぁ、慣れないことはするもんじゃないわね。やっぱりどこかヤケになってたんだろうなあ、今にして思うと。


 缶酎ハイは美味しかった。確かにジュースみたいだった。

 これならイケるイケる、と調子に乗って飲んだわね。

 空きっ腹に効いたのか、プシュッと何本目かのプルタブに指をかけたところで記憶がぷっつりと途切れて……。


 ――あれっ!? 頑張って思い返してはみたものの、やっぱりこの虎髪少年には出会ってない!


「……ひゃあっ!」


 結局誰なのこの子、と自分の右側を見下ろした瞬間、パッチリと目を開けている少年と目が合い、思わず後ろにあとじさる。

 ガン、と金属の壁に頭を打ち付けて、ただでさえ頭痛がひどいのに余計クラクラしてきた。


「イタタ……」

「大丈夫? セーラさん」

 

 のっそりと上半身を起こし、少年がコテンと首を傾げる。

 な、何だその可愛い仕草は……。年上を悩殺する気か!

 目を開けたら可愛い顔してるんだろうなあと思っていたけど、本当に可愛かった!


 顔が小さくて肌はピチピチ。パッチリ二重で目がクリクリと大きく、鼻すじも通っている。歯並びも完璧だ……。

 華奢に見えるけど首が長くて細身だからそう見えるだけで、鎖骨から肩、腕のラインなんかはちゃんと男の子だ。

 

 正直、テレビの男性アイドルとか全然興味がなかったんだけど、この虎髪少年は彼らにも全く引けを取らないほどの美貌の持ち主だった。

 うぐ、美少年の実物はすごい! 男の前でアワアワなんてしたことないのに、なぜか腰が引けてしまう!


「あのー……」

「ん? 何? 何?」


 少年がふとんから出てきて四つん這いになり、満面の笑顔で私の方にスササーッとにじり寄ってくる。

 これがわんこ系男子というやつか! 威力がすごすぎる!


「ちょ、ストップ! 近寄らないで!」

「ええ~~?」


 私が左腕を前に突き出してビシッと制止すると、少年はあからさまにガッカリ、という顔をしてその場で止まった。

 その様子は、まさに『待て』を食らっている犬のよう。


 ……とりあえず、少年がちゃんとスウェットのズボンを履いていることは確認できた。

 よかった……すっぽんぽんだったらどうしようかと思った。


 少年は渋々その場に腰を落とし、ヤンキー座りの体勢からドスン、とお尻を畳につけた。両足の間で両腕をまっすぐ伸ばし、拳を畳の上に付く。

 まんま、犬がお座りをしているかのようだ。そして首をかしげると、壁にピタリと背を付けて仰け反る私の顔を覗き込むように見上げる。


「潰れたセーラさんを助けたの、オレだよ? ご褒美くれてもいいのにー」

「は? ご褒美?」

「……ちょっとエッチなこと」

「できません!」


 そんな純粋な目をして何てゲスい要求をしてくるんだ!

 何だって見知らぬ少年と……いや、可愛いけど! すごく可愛いけど!

 くるくると表情が変わるたびに胸はときめいてはいるけれども!

 だいたい、ちょっとエッチなことって何? どれぐらいのレベルなのよ?


 バカバカ、頭が沸いてるわ。どんなレベルだろうが駄目でしょ。

 さすがに26にもなってこんな年下の子と火遊びなんてできないわよ。しかもフラれたばかりだというのに。


「えー? オレ、すごく頑張って我慢したのにー。ひどいよー」


 ということは、どうやら一線は越えていないらしい。

 よかった、ギリギリセーフ。


 ……と、安堵の吐息を漏らしたけれども。


「セーラさん、すごくいい匂いするから、もう理性と本能の戦いがすごくて」


という少年の台詞に、再び

「ひえっ!?」

と叫ぶ羽目になり、またガン、と壁に頭をぶつけた。


 い、痛い……。それより、ニオイって何!?

 今、めちゃくちゃ汗をかいてるんだけども! 臭いってこと!?

 いや違うな、いいニオイとか言ってたわね。


「え、あ、は?」

「オレ、鼻が利くの。こんな好みドンピシャの匂いの人、他にいない」


 少年はうっとりとした様子でそう呟くと、次の瞬間には腰を上げ、ジリッとにじり寄って来た。


「だからセーラさん、ハグさせて。今の匂い嗅ぎたい」

「駄目に決まってるでしょ! だいたい、君は誰よ!?」


 いくら顔が可愛いからって何を言っても許されると思うなよ!

 ギロリと少年を睨みつけたあと、とりあえず視界に入った自分の脱ぎ散らかした服を胸に当て、さらに左へと移動して少年との距離を空ける。

 少年は口を半開きにして

「えー」

と不満そうに声を上げると、再び畳に腰を下ろした。


「覚えてないの? ちゃんと言ったのにー」

「ごめんね! だけど、本当に覚えてないの! お世話になったのは確かなようだけど、まずは説明してちょうだい!」


 そう喚きつつ、とにかく服を着なくては、とインディゴブルーの開襟シャツに袖を通す。

 はぁ、もう、下ろしたてなのにクッチャクチャ……。


 少年は

「えー、着ちゃうのー」

とふくれっ面をしながらもどうにか諦めてくれたらしく、傍にあった白い長そでTシャツをバフッと頭からかぶった。

 そしてのっそりと畳から立ち上がると頭をかきながらペタペタと歩き、ビニールの便所スリッパのようなものを履いて事務所側に降りた。


 その姿を視界の端で確認しつつ、さっさとシャツのボタンを締め、白のワイドパンツを履き、ギュッとベルトを締める。

 隅に置いてあった自分の鞄を引き寄せ中身を確認すると、ゆうべコンビニで買い物をしたときの配置と全く変わらなかった。

 スマホで時刻を確認すると、明け方の4時過ぎ。


 コンパクトを取り出して開き、鏡を見ながら使い捨てコンタクトを取り、ティッシュに包んで丸める。いつも鞄の中に入れてあるポリエチレンの袋を取り出して丸めたテッシュを入れ、鞄の隅へ。台無しになった巻き髪を手櫛でほぐしてからまとめ、同じく鞄に入れておいたバレッタできっちりと止める。

 そして眼鏡ケースを取り出し、愛用のワインレッドのフレームの眼鏡をビシッとかけた。


 はい、これで予備校英語講師、矢上やがみ清良の出来上がり。

 さあ、いつもの冷静沈着な私に戻ろう、ときちんと座り直したものの、ズキン、とこめかみが痛んでへなへなと崩れ落ちてしまった。


「イタタ……」

「はい、これ」


 いつの間にか戻って来た少年が差し出したのは、私がゆうべコンビニで買ったスポーツドリンクだった。

 ああ、なるほど……。飲んだ翌日って異常に喉が渇くからスポーツドリンクが必要なのね。

 そしてこの子はコンビニの袋も含めて全部、ちゃんと持ってきてくれたのか。


 ありがとう、と言い、少年から青い缶を受け取る。少年はつまらなそうな顔をしながらも私の向かいに座り、炭酸飲料のペットボトルの蓋をプシュッと開けた。ゴクゴクゴクと勢いよく飲み始める。


 若いなあ、と思いつつそのたびに喉仏が上下に動くのを見て、心臓が少しだけドキリと音を立てた。

 どこから見ても十代のあどけない少年なのに、ところどころ妙に男っぽいのが困るわね。

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