第4話 何かグイグイくるわね

 少年の名は佐久間さくま虎太郎こたろう、というらしい。年齢を聞くと、高校を卒業したばかりの18歳。八歳も年下だった。


「春休みになったからさ、ちょっと冒険して頭も虎にしてみた」

と無邪気に笑う。

 ちょっと信じられず、ひょっとして家出少年か何かじゃないかと思い

「本当に?」

と訝しむと、

「春休みに車の免許も取ったよ。ほら」

と免許証を見せてくれた。


 真っ黒な髪の少年が真面目そうな顔で写っている。

 あー、これは女の子にモテそうねー。虎髪の少年はちょっとバカっぽいけど、真っ黒な髪の少年は賢そうな好青年に見えるわ。


 だけど、現住所やら生年月日やら書いてあるこんな大事な物、簡単に他人に見せていいのかしらね。

 人懐っこいのはいいけど危なっかしいわね、と思いながらも記載内容を確認した。現住所は横浜になっている。


 どうして東京の、しかもこんなプレハブ小屋で寝泊まりしているのかと聞くと、春休みの間、伯父さんの伝手でマンションの建設現場でアルバイトをしていたのだという。

 このプレハブ小屋はその近くの空き地に臨時的に建てられたものだったのだ。横浜まで帰るのが面倒なときは寝泊りに使っていたらしい。


 そう言えば、駅から3分ぐらいのところで冬の間中ずっと工事してたっけ。十階建ての新築マンションで、もう殆ど出来上がっていたんじゃなかったかな。

 私が飲んでた公園のすぐ目の前にあって、

「こんなところを借りるのはどんな人間かしらねー」

とか思いながら見上げた気がする。

 そう言えば、そこから少し離れた場所に空き地があって、その建築会社が資材置き場にでも借りてるのかプレハブも建ってたわ。そうか、あそこか……。


 自分の現在地が分かってホッとする。私のマンションまでは徒歩15分といったところだ。


「あなたの素性はわかったわ。それで、ゆうべは何があったの?」


 スポーツドリンクを一本飲み干すと、だいぶん頭痛も収まり落ち着いて考えられるようになってきた。

 少年が持ってきてくれた二本目のスポーツドリンクを受け取りながらそう聞くと、少年は

「ええー?」

と再び不満そうな顔をした。


「もうちょっとオレに質問とかないの? 興味なし?」

「いや、そういう問題じゃないから」


 どうしてこの子は八歳も年上の私にグイグイ来るのかしら。


「あのね、佐久間くん」

「トラ」

「は?」

「トラって呼んで、セーラさん」

「……」


 まぁこの名前だし、みんなにそう呼ばれてるのかな。

 これだけ愛嬌あるし、可愛いし、きっと学校でも人気者だったに違いない。


「あのね、トラ」

「うん、何?」

「ゆうべは何があったの? ほら……何しろ、起きたときの状態があんな感じだったし……」

「オレが脱がしたんじゃないよ? セーラさんが脱ぎ始めたの。ヒドイよね」


 なぜかトラの方がムスッとして口をへの字に曲げている。

 私の半裸はそんなにひどかったかしら。無表情だし愛想も無いけど、スタイルだけはなかなかのもんだと自負していたのに……。

 え、まさか。


「私、何かした?」


 ひょっとしてトラに襲いかかったのかしら、とビクビクしながら聞いてみると、トラはぷるぷると首を横に振った。


「ううん。いきなり服を脱ぎ始めたと思ったら『寝る、お休みー』って言ってさっさと布団に入っちゃった」

「ああ……」


 ちょっとうっすら思い出した。暑いし服も苦しいしでポポイッとその辺に投げた気がする。寝る時はノーブラだし。

 くたびれて帰ってきたときはそういうこともあるのよね。


 ホッとして息をつくと、トラの方は相変わらず口を尖らせていた。


「ただでさえ匂いが良すぎてグラグラしてるのに、あんな全力で誘惑するとかさー。オレ、男だよ?」

「そ、それはごめん……」


 その男とやらの事情はさすがに分からないけど、すごく迷惑をかけたことだけは確かだわ。

 でも、さっきから言っている『匂い』って何なの?


 自分でクン、と二の腕の匂いを嗅いでみるけどもよくわからない。

 化粧品の匂いのことを言ってるのかなあ。私自身があまり香りがキツイのは苦手だから、なるべく無香料に近いものを選んではいるのだけど。


 私の仕草に気づいたトラが

「無理だよ、セーラさん」

と相変わらず不満そうな顔でぼやいた。


「多分、普通の人にはわかんないよ。オレの特技みたいなものだし」

「特技?」

「人って、感情で匂いが変わるんだよ。公園にいたときのセーラさん、すごく悲しそうで匂いも暗く沈んでて、オレも悲しかった」

「……」


 バイトを終えたトラはプレハブから出て帰ろうとしたとき、公園で私を見つけたらしい。公園で酒を飲みながらボロボロ泣いているから、かなり驚いたそうだ。

 そしてこのまま放っておけない、と私に話しかけてくれたらしい。


「どうせ私はいつもしかめっつらよ。言うことキツいし、可愛げないし、顔が怖いとか威圧的とか言われるわよ。だけど……だけど、敦はわかってくれてたはずなのに。八年も付き合ってさあ。なのにもう、要らないんだって。たった三か月の彼女がいいんだってさ。もう、何なんだろうね。私の傍にいなくていいって、何だろうね。いなくても清良は大丈夫だろって意味かな。……でも、私が先かもしれない。私が、敦はもう居ても居なくてもいいって態度だったのかな。そうなのかな。でもこれって私が悪いの?」


と、怒涛のように喋り捲り、エグエグと子供のように泣いていたらしい。

 そしてそのうち糸が切れたようにバタリとベンチの上に倒れ、そのまま眠ってしまったという。

 困ったトラはこのままにはしておけない、と私を背負い、荷物も全部持ってこのプレハブ小屋に運んでくれたらしい。

 あああ、何たる醜態……。未成年の子に介抱させるなんて……。


「オレじゃなかったらどこかに連れ込まれて大変なことになってるよ、きっと」

「それは、本当にありがとう。……だけど、見知らぬ酔っ払いに話しかけちゃ駄目でしょ。そういうときは警察に通報するとかしないと」


 警察のお世話になんかなってしまったら大変なことになる。だからトラには非常に感謝してはいるんだけど、一般的にはあまり正しい対応とは言えないだろう。


 どうも言動が危なっかしいし、思えば生徒と同じぐらいの年齢だ。

 何となく教師魂が刺激されて注意すると、トラは

「だって、顔は知ってたし」

とますます不満そうに頬を膨らませた。


「え?」

「いつもさ、ビシッとパンツスーツ着てすごく早足で歩いていく、カッコイイお姉さんがいるなあって思ってたんだ」

「いつも?」

「日によって朝だったり昼だったりしたけど、資材置き場とマンションの前を通って駅に行ってなかった?」

「……ああ」


 そうか、春休みの間バイトをしてた、と言ってたわね。

 空き地を通り過ぎてマンションの前を経由して、は確かに私の通勤経路だわ。


「キャリアウーマンってやつかなあと思ったけど、時間が不規則だし変だなって。セーラさんって何の仕事してるの?」

「予備校の講師よ。朝出と午後出があるの」


 まぁ、東京には予備校なんてゴマンとあるし、これぐらいはいいでしょと素直に答える。


「予備校のセンセーなんだ! スゲー!」

「そうスゴくもないわよ。結局、教採落ちて学校の先生にはなれなかったんだから」


 結果、予備校に就職。浪人生が授業を受ける昼部門と高校生が授業を受ける夜部門を掛け持ちして授業をしている関係上、出勤が朝だったり昼だったりするんだけど。


「キョウサイ?」

「教員採用試験。公立学校の先生は地方公務員だからね」

「ふうん……。どの教科教えてるの?」

「英語」

「あー、それならオレ、セーラさんに習えばよかったー! 英語苦手で大学落ちまくったんだよねー!」


 それからトラは、自分の大学受験の話を始めた。

 英語が大の苦手で数学と物理が得意。学校の先生も

「理系教科が強くても大学には受からないぞ」

と言われたものの、反対を押し切って受験。結果は散々で、すべり止めで受けていた一つの大学にだけ受かったらしい。

 浪人する気は無いので、4月からはその私大に進学する予定。


 だけどトラにとってはそれは完全なる敗北で、それもあってややヤケになり、髪を虎縞模様にしてしまったという。


 お前は反抗期を迎えた中学生か、と思ったけど彼なりに鬱憤を晴らしたかったんだろうと黙っておいた。

 まぁ、お酒に飲まれて寝てしまう私も、鬱憤を晴らしたかっただけの駄目な大人だしね。


「それでも、全部駄目なら行こうと思って受けた大学でしょ」

「うん、まぁ……。一応志望してたトコではあるし」

「何学部?」

「工学部の建築」

「へぇ。じゃあ、大学でやりたいことが見つかったら、その分野に合わせて行きたい大学院に行けばいいじゃない」

「大学院?」

「私の同級生にもいたわよ。行きたかった大学には落ちて滑り止めの大学に進学したけど、どうしても諦められないって、頑張って。その行きたかった大学の大学院入試を受けて合格したのよ」

「うわっ、すご!」

「卒業時は総代だったしね。外の大学院に行くのはなかなか難しいけど、別に不可能じゃない。どの大学に行ったかじゃなくて、大学で何を勉強したか、将来は何をやりたいか、よ。大学に落ちたぐらいで、人生が終わる訳じゃないんだから」

「……」


 あ、うっかり仕事モードで話をしてしまった。酒飲んで大暴れしてた女にこんな話をされても説得力がないわよね。

 ……と思ったけど、トラはうんうん頷いている。


「オレ、やっぱりセーラさん、好きだなー」

「は?」

「最初は、カッコイイお姉さんだなーと思ってて、あるとき匂い嗅いで、すっごく気になっちゃって」

「……ん?」

「そしたら酔っぱらってボロボロに泣いててびっくりしたんだけど」

「う……」

「でも、話できて嬉しい。声もすごく好き」

「それは、どうも……」

「それに急に進路相談してくれたりして、優しいよね」

「いや、これは優しいとかじゃ……」


 何というか、こう職業病というか。誰彼構わず教え諭したくなってしまうというのは、やっぱり駄目よね。敦もそういうところが嫌だったんだろうなあ、きっと。正義面っていうのかな。それで最後にダメ出しされたんだろうし。

 だけどトラみたいに全肯定されても、それはそれで恥ずかしいし、居心地が悪いわね。どうしたものかしら……。


「別に、優しさで言ってるんじゃないわ。甘ったれるな、って言いたいだけよ」


 反動でややキツめの口調になり、ぶっきらぼうにそう返したものの、トラは「そう?」と聞き返し、小首をかしげてニコニコしている。

 何なの、その顔は。やりにくいわね。


「だいたいねぇ、そういう受験した大学一つ一つに受験料というものがかかっているの。それをすべて払ってくれたのはご両親でしょ?」

「んー、まぁ」

「君がスベリ止めと言っているその大学だって、ご両親がお金を収めてくれたから行けるのよ。感謝しなさい」


 ふん、と荒めに息をつき、腕組みをする。

 まぁ、高校卒業したばかりの子に親の有難みを解れと言ったところで、無理だとは思うけどね。

 ちらりと様子を盗み見ると、トラはふいっと横を向き、一つ溜息をついた。


「金さえ出しておけば大丈夫、と思ってるような人たちなんだけどなー」

と、淋しそうに呟く。


 見知らぬ人間に頭から言われて怒るかふてくされるかするかと思ったのに、予想外の反応で内心驚いてしまった。

 何だか、悪いことを言った気になってしまう。どうも私に変なフィルターをかけて見ているみたいだから株を下げようとはしたんだけど、トラを傷つける気はなかったのよ。


 ……家で上手くいってないのかしら。だから春休み中、実家から離れてアルバイトなんてしていたのかしら。

 思えば、家に帰らず自由に寝泊まりしていいなんて、放任もいいところよね。


 うーん、どう対応したらいいんだろう、と頭を悩ませていると、トラは打って変わってニコッと大輪のひまわりのような笑顔を浮かべ、「うん!」と力強く頷いた。


「やっぱり、オレの鼻センサーは嘘をつかないね!」

「何よ、急に?」

「セーラさんとオレ、すんごく相性がいいってこと!」

「何情報よ、それ」

「だから、オレの鼻情報。という訳でセーラさん、匂い嗅いでいい?」

「何が『という訳』よ」

「えー、いいじゃんかー。ご褒美、ご褒美!」

「どういうご褒美よ、それ。……って、こら、にじり寄るんじゃない!」


 いくら可愛くても男は男。四つん這いになりザカザカザカと畳の上を駆けよって来たトラの顔をぐいっと押しやる。

 すると、トラがふんふんと鼻を鳴らした。


「あ、ちょっとほわっと。ふうう、いい匂い~~」

「それもう変態だからね!」

「でもセーラさんだって本気で嫌がってない……」

「嫌がってます! だいたい、私の匂いが何だっていうのよ?」

「すんごく好き。超好み。めっちゃくちゃ嗅ぎたい」

「嗅いだらそれでおしまいにしてくれる?」

「……うーん、できないかも」

「じゃあ駄目よ。悪いけど、八歳も下の子と遊んでる場合じゃないの」


 トラの頭を押しのけ、鞄を持ってすっくと立ち上がる。

 東の空が少しだけ明るくなっていた。もう夜明けだ。


 随分と長居してしまった。まぁ、お礼については後日改めて、ということにさせてもらおう。

 もう少しちゃんと考えたいし……とにかく、今はこの場を早く去った方がいい。


「――何で、遊び?」

「え?」


 思いのほか暗い声が下から聞こえてきて、見下ろす。

 トラは畳に座り込んだまま、じとっとした目で私を見上げていた。


「どうして決めつけるの?」

「……」


 ちょっと、何……。

 てっきり子供みたいな拗ねた顔をしているのかと思ったら、妙に男の顔をしていてドキッと心臓が跳ねる。

 それは恋愛の『ドキッ』じゃなくて、不意をつかれた『ドキッ』に近い。眠れる獅子を起こした……みたいな。

 何よ……。トラ、そんな顔もできるの。


「セーラさん、オレ、本気だからね」

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