第5話 さて、どうしたものか
「あれ、矢上先生。早いですねー」
翌日、木曜日。予備校の事務をしている勝田さんという若い女の子が、受付カウンターの拭き掃除しながら声をかけてくる。
時刻は午前八時過ぎ。今日は十時出勤のはずだったんだけど、家でのんびりする気になれず早々にマンションを出てきたのだ。念のため、プレハブと新築マンションの前を通らないルートで。
「ちょっと早起きしたので」
「でも、少し目が腫れてるような。寝不足じゃないですか?」
「大丈夫、大丈夫!」
それはきっと大泣きしたからだろうなあ、と思いながら眼鏡のフレームに手をやったあと前髪を下へと撫でつける。
やっぱり、眼鏡とメイクぐらいじゃ誤魔化せなかったか。
――セーラさん、オレ、本気だからね。
そう言ったときの、トラの妙に力強い眼差しが頭から離れない。
職業柄、これぐらいの年齢の子と話す機会は多い。お喋りな子もいれば、言いたいことをすぐに飲み込んでしまうような子もいる。
饒舌に見えて自分の弱さをひた隠しにしていたり、寡黙に熟考しているように見えて実は何も考えていないだけだったり、さまざまだ。
予備校講師というのは、ただ勉強を教えていればいいというものではない。
たとえば『テストで点数が取れない』という悩みがあったとして、その原因はさまざまだから、アドバイスは画一的にはならない。
その子に合った改善策を提示する必要があって、それはダイエットに似てるかな、と思う。誰かがいい、と言った方法が自分にとっても効果的とは限らないのだ。
実は、単に喋りたくて
「先生、どうしよー」
と言ってくる子もいる。この場合、「どうしよー」は建前で、話の内容には意味がなかったりする。受験が近くなって精神的に不安定になり、考えたくないからとにかく喋っていたい、とか。
そういう場合は真面目に具体的な勉強のアドバイスをするよりも、冗談を交えたりしてその子がリラックスしたり笑えるようにしたりした方がいい。
つまり何が言いたいかというと、人の言葉を捉えるときは言葉そのものよりその言葉が出た背景が重要だということ。
だから普段から、相手がどういう意図で話をしているかということを見るようにしている。
敦に何も聞かなかったのもそうだ。既に敦の中には彼女の存在がしっかりと根付いていて、私と別れることはもう決定事項だった。そんな中で理由を聞いたところで、何にもならない。
付き合いが短い相手なら何か誤解があるのか、あるいは自分の何が駄目だったかなど、意識の擦り合わせという意味で聞く価値はあるだろう。
だけど、何しろ八年の付き合いだ。お互いの良いところも悪いところも知り尽くしていて、その上でもう無理だと――一生を共にできないと判断したのだから、どうしようもない。
そして、トラの例の『本気』発言は、嘘偽りない真っすぐな言葉だと思った。
匂いがどうこうとか根拠不明なところが多すぎてイマイチしっかりとは理解できないけれど、トラが真剣だということはよくわかった。
……というより、本気過ぎて腰がひけるぐらいだった。今にも襲い掛かって来るんじゃないかと。
これはいい加減な応対をしちゃいけないな、と咄嗟に思った。勢いで髪を虎縞模様にしたり酔っ払い女に話しかけてみたりと、トラの行動力は半端ない。私の予想だにしないことを仕掛けてきそうで侮れない。
だから私は再びしゃがみ込み、トラとまっすぐ視線を合わせた。トラも私から目を逸らさない。イイ顔してるな、と思った。造りだけの話じゃなくて。
「……本気なのはわかった」
「ほんと!?」
「うん。……だけど、受け止められない」
私の言葉に、トラが少しだけ悲しそうな顔をする。
「オレが変な頭してるから? 八コも下だから?」
「そうじゃなくて。ちょっと冷静に考えられないし……何しろ、お酒飲んで倒れたぐらいだし」
「……」
「時間をちょうだい。落ち着いたら、お礼代わりにご飯を奢るわ」
いずれにしても、このままこの子からフェイドアウトするのは悪手よね。……というより、逃げ切れるとは思えないわ。
そう思いながら告げると、トラは意外なほど素直に頷いた。
「わかった。じゃあ、ID交換しよ!」
トラがポケットからスマホを取り出し、いそいそとタップしている。まぁ、メッセージアプリのIDぐらいならいいか、と素直に応じた。
授業を担当している生徒や卒業した生徒は年度やクラスごとにグループを作ってある。生徒からは「先生、予習どこだっけ?」とか「質問したいんですが先生は何時なら空いてますか?」など、気軽に連絡が来るし、私もあまり深く考えずにやりとりしている。
思えばトラも、その子達とあまり年齢が変わらない。まぁ、校外に教え子が出来たと思えばいいのかな……。
そしてIDの交換を終え、
「じゃあ、またね」
と言ってプレハブを出てきた。念のため後ろを確認しながらマンションまでの道を歩いたけれど、トラはおとなしくプレハブに留まっているらしく、尾行されることもなかった。
部屋に戻って、まずは化粧をきちんと落とし、風呂にお湯を溜めた。お風呂に浸かってたっぷりと汗をかいてアルコール分を体から追い出し、髪も身体も綺麗に洗う。
これで、スッキリできたはずなんだけど。
洗面台の棚には敦が置きっぱなしにしていた電動式髭剃りがあり、棚には敦用のバスタオルもある。部屋に戻ってクローゼットを開ければ、敦用のTシャツやスウェットなどを入れてあるファンシーケースが置いてある。そして振り返ると、テレビ台の下には古い携帯型ゲーム機がガラス戸越しに見えている。
どうしたってこういう物が目に入って、思わず溜息が漏れる。
『私の家に置いてある敦の荷物、どうする?』
パパッとそれだけ打ち込み、敦にメッセージを送った。
未練があるとは思われたくない、だけど服ならともかく電子機器はそれなりの値段はするし、勝手に処分する訳にもいかない。私としては、さっさと全部捨ててしまいたいんだけど。
しばらく返事を待ったけど、既読は付かなかった。その間も、思い出すのは自分の夕べの醜態とトラのこと。
どうにも落ち着かず、いつもより二時間も早く予備校に来てしまった、という訳。
さて……どうしたものか。
単なる体目的ならID交換なんてせず、キッパリと拒絶した。向こうが凹もうが怒ろうが知ったこっちゃないし。
そして純粋な憧れ的なものだったら、それこそトラが飽きるまで会話に付き合う分には何の問題もなかった。私も若い子が考えることの参考になるわね、と気軽に応じたはずだった。
実際にはそういう身体だけでも心だけでもない、私をはっきりと異性として意識した両方込み込みの感情だった。
そして私も、単なる年下の子という認識じゃなくて、どこか彼に男を感じたというか、色気を感じたというか……まぁとにかく、ちょっと惹かれてはしまったのよね。
正直言って、一番面倒なボールを受け止めてしまったな、と思う。さて、どんな返球をするべきか。
ただなあ、何しろ18歳だからなあ……本人は『真剣なつもり』なんだろうな。
でももう少し大人になれば、「オレも若かったな」「バカなこと言ったな」と思うだろう。
私自身は、結婚願望がある訳じゃない。敦とは付き合いも長かったから漠然とそう思っていただけで、別に結婚そのものに興味がある訳じゃないのだ。そもそも結婚って、相手あってのものだと思うし。
もう26だけど、まだ26とも言える。トラと寄り道したところで問題はないっちゃあないんだけど……だけど、きっかけといい、その後の展開といい、おおっぴらにしたくない事情ばかりだ。どうしたって、後ろめたさがつきまとう。
それに、トラが飽きるまで付き合う、というのもなあ……。最後に切られるのは私だろうし、別れるのが分かってて付き合うのって、人生の時間の無駄遣いじゃない?
だけど、そういう無駄遣いを一切してこなかったから、敦の心境の変化にも気づけなかったんだよね……。
“清良さん、もう予備校?”
ピロン、という音と共にそんなメッセージが届く。すぐ下にはデフォルメタッチの黄色いトラが「えーん」という吹き出しと共にぐずぐず泣いているイラスト。
くっ、いちいち可愛いなぁっ、おい!
『そう』
“何で前を通って行かなかったの? オレ待ってたのにー!”
『だからよ』
普通ならさすがに飲み込む言葉だけど、トラはああ見えてかなり図太いと見た。
家庭周りはともかくとして、本人はかなり世間慣れしてる。人懐っこいし、きっとアルバイト先でも可愛がられているんだろう。
まぁ、遠慮する必要はないわね。離れるなら離れてくれればいいことだし。
“今日の夜、会える?”
『無理』
“えー、ご飯はー?”
『今日は夜上がりで帰りが遅いの。また今度ね』
これ以上のやり取りはキリが無いわ、とメッセージを打ち込み、そのままボスッと鞄に突っ込んだ。デスク下の棚にボン、と放り込む。
夜上がりと言っても19時ぐらいなのでご飯には行けないこともないんだけど、頼むからもう少し考える時間が欲しい。
若いってそれだけですごいエネルギーよね、とやや呆れながら、今日何回目かもわからない溜息が漏れた。
とにかく、モロモロのことを落ち着いて考えたい。
そう思っていたけれど、私のこの願いはあっけなく砕け散る。
なぜなら――会社帰り、待ち伏せされたから。
トラじゃないわ。
敦と別れることになった元凶……要するに、敦のイマカノって人ね。
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