第6話 冗談じゃないわよ
「あの、矢上清良さんですよね?」
お疲れさまー、と同僚の先生に挨拶をし、ガラス戸の自動扉を抜けたところで、若い一人の女性がたたっと歩み寄ってきた。
私より目線が一段低い、小柄な女性。ベージュの春コートが、ひらりと舞った。
襟元からは白いプチハイネックのシャツが覗き、裾からはピンクの花柄が描かれたボルドー色のミモレ丈のプリーツスカートがさらりと揺れる。
一見女子大生かと思うような可愛らしいファッションだけど、持っている鞄は使いこなされたブランド物のショルダーバッグだし、靴は地味なペタンコ靴。
メイクも清潔感溢れるナチュラルメイク。爪は悪目立ちしない控えめなベビーピンクのマニキュア。
二十代前半の社会人かな、と思う。なかなか……いや、かなり可愛い女性だ。少なくとも会社で話題に上るぐらいには。
ああ、敦の彼女か、と何となく思った。だいたい私は、見知らぬ人に話しかけられるような風貌はしていない。道を聞かれたことすらないんだから。
多分、この無表情と異常な歩みの速さのせいかな、とは思うけど。初対面の人にはビビられることが多いし。
「どちら様ですか?」
あえて肯定はせず、相手の無礼を暗に込めて言い返す。見知らぬ人間に名乗る名前は持ってない。
「あっちゃん……
「……は」
婚約者ぁ? そんなところまで話が進んでるの?
呆気に取られていると、その女性はキィッと音が聞こえそうなほどの目つきで私を睨み、バッグのベルトをギュッと握った。
その左手に婚約指輪は無い……けれども。
「ですので、変な理由をつけて彼に連絡を寄越すのは、もうやめてください」
「……」
「それでは失礼いたします」
「ちょっと待ちなさい」
綺麗なお辞儀をしてくるりと背を向けた女性の腕をグッと掴む。止められるとは思わなかったらしく、女性はビクッと肩を震わせてすぐさま振り返った。愛らしい唇がかすかに震えている。
「な……」
「誤解があるようだから少し話しましょう。遺恨は残したくないでしょ?」
だいたい、人の勤め先の前で待ち伏せした挙句言いたい放題言って終わりとか、どれだけ自分勝手なんだ。
敦の心変わりは敦のせいだしこの女性を恨んではいなかったけど、言われっぱなしで済ませるほど私はおとなしくないのよ。
しかも人に名前を聞いておいて名乗りもしないし。あまりにも失礼過ぎる。
「話なんて……」
「ここに来ること、敦に言ったの?」
「いえ、彼には何も……」
ということは、私がメッセージを送ったと知って逆上し、思わず来てしまった、ということか。
敦が彼女に何て説明したのかはわからないけど、彼女が私に「変な理由をつけて」と言うってことは、その文面すら知ってるってことなんだから。
「このまま帰られたんじゃ、さすがに敦に『どういうことなの?』と聞くわ。勤め先にまで押しかけられたんだから」
「……中には入ってません」
「そういう問題じゃないのよ」
仕事帰りのサラリーマンで賑わう夜のこの時間、こんなところで言い合いをしていれば嫌でも目立つ。案の定、予備校から出てきた生徒たちが「あれ、矢上先生だ」と言わんばかりにこちらをチラチラ見ながら通り過ぎていく。
「とりあえず駅まで歩きましょうか。有楽町線でしょ?」
「え、どうして……」
その問いには答えず、彼女の左腕を取って歩き始める。いつもの歩幅で歩いては小柄な彼女だと大変だろうから、かなりゆっくりめに。
それでも自分の歩調とは違うのか、よろめいた彼女はすれ違った人とドンとぶつかり、ハッとしたようにお腹を押さえた。
「大丈夫?」
「はい……」
そう答えたものの、彼女の顔色はあまりよくはなく、右手はお腹に添えられたままだ。緊張のせいかと思ったけど、そうではないらしい。
これ以上強引に歩かせるのも気が引ける。どうしようかと思案しながら辺りを見回すと、赤い看板が目に入った。白色のコーヒーカップのイラストと傍に置いてあったスタンドのメニュー表を見ると、どうやら喫茶店らしい。階段を下った地下にあるようだ。
「とりあえず、ここに入りましょう」
そう促すと、彼女は私と看板を見比べ、おとなしく頷いた。
* * *
まるで鍾乳洞の中に作られたかのような岩っぽい材質の壁。壁に等間隔に取り付けられた裸電球のようなオレンジ色の明かりに照らされて、その陰影が不思議な模様を描いている。
独りで落ち着いてコーヒーを飲むのに適した、穴場の喫茶店。辺りを見回したけれど、うちの予備校の生徒はいない。地下へ階段を下りて行かなくてはならないから、何となく敷居が高いのかもしれない。
照明はやや暗いので紙書籍を読むのには向かないけれど、スマホなら大丈夫かも。コーヒーのメニューも豊富だし飽きがこない感じだわ。
これからちょっと一息つきたくなったら来ようかな、と思いながらL字型に仕切られた一角に座る。
やってきた若い女性店員に「ブレンドで」と言い、彼女にも
「あなたは?」
と促すと、彼女は私の方は見ず、
「あの……カフェインレスコーヒーはありますか?」
と店員に問いかけた。
「ございます。ミルク珈琲となっておりまして、アイスとホット、無糖と黒糖からお選びいただけます」
「じゃあ、ホットの黒糖で」
「かしこまりました」
品の良い営業スマイルを浮かべた店員がすっとお辞儀をし、メニューを受け取って足早に立ち去っていく。
その後ろ姿を見送ると、彼女はまっすぐに私に目を向け、すっと頭を下げた。
「
落ち着きを取り戻したのか、それともわざとなのか。
とにかく彼女は、ここにきてようやく自分の名を名乗った。
敦と同じ会社ということは、松岡建設の社員のはず。敦はちょうど一年前に本社の海外事業部勤務になって、急に忙しくなった。まぁ、それで、私達はなかなか会えなくなったんだけれども。
でも、同じ部署とは思えない……若いし。それに可愛いし、この身のこなしから考えると秘書室勤務かな。
いや、それにしては所々ちょっとゆるいのよね。
「矢上清良です。で、お話というのは……ああ、連絡をするな、だったわね」
「はい」
「私だってしたくてした訳じゃなくて。私の家には、敦の私物が残ってるのよ。それらをどうするのか聞きたかっただけ」
「そんなの……」
「ちょっといい値段のする髭剃りとかゲーム機があるの。勝手に処分するのはさすがに気が引けるわ」
「言い訳でしょう、そんなの」
「自分の価値観だけで話をしないで。視野が狭いとロクなことにならないわよ」
さすがにイラっとしてピシャリと言ってやると、可愛らしい二重瞼の瞳が文字通り三角になった。
「そんなっ……」
と言って身を乗り出しかけたが、そこで店員が私達のコーヒーを持ってきたので口をつぐみ、やや深めに座り直す。
とりあえず、人前で声を荒げるのはみっともない、という意識はあるらしい。
そのとき、何か視界がちらついた気がして顔を上げる。
店員の肩越し――喫茶店のガラス扉のさらに向こうに、見覚えのある顔があった。入ろうかどうしようか迷っているらしく、身体が右に左にと揺れている。
ひとまず見なかったことにし、私は自分の目の前のテーブルの上に視線を戻した。
私の目の前には、ソーサーもカップも真っ白な磁器製の一客が置かれた。真っ黒な珈琲が八分目まで注がれている。
一方彼女の前には、群青色のハスの葉のような柄が入ったソーサーに同じ柄の少し丸みを帯びたカップが載ったものが置かれていた。
そして彼女は、カップにじっと目を落としているものの、触れようとはしない。
可愛らしい服装にはややそぐわないペタンコな靴、お腹を守るような仕草、病気ではないが万全ではなさそうな顔色、カフェインレスコーヒー。
これは……。
「ひょっとして、妊娠してるの?」
こんな場所で聞いていい事かな、と思いつつも、これだけ匂わされれば聞かざるを得ない。
彼女はハッとしたように顔を上げると、次の瞬間にはにっこりと艶やかに微笑んでみせた。
背が高いゆえに座高も高い私を見上げているはずが、どこか見下ろした風で……そして、勝ち誇ったように。
「はい。敦さんの子供です」
その声は自信に満ち溢れていて、まるでこの世のすべてを手に入れたかのように高らかだった。
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