第7話 何でそこにいるの

 敦の子供を妊娠している、と彼女――大月翼さんは、自信満々に言ってのけた。

 やや声量が上がったせいか、近くの客にも聞こえていたようだ。彼女と背中合わせになって座っていた客が、こちらの様子を窺うような動きを見せる。


 何もそんなに声を張らなくてもいいのに。まるでそれが切り札かのような言い方。

 どうしても私を凹ませたいんでしょうね、これは。意地でも動揺なんて見せないけどね。

 でも、敦はそんなことは一言も言わなかった。それはなぜか……?


「……と、彼女は言ってるけど、本当?」


 彼女から視線を逸らし、その向こうの、ようやく私達の方に近寄って来た人間に問いかけてみる。

 彼女は「えっ」と声を上げ、慌てたように振り返った。


「……本当だよ」

「あっちゃん!」


 敦がやや困ったような表情で私達のテーブルの横まで歩いて来る。

 しばらく喫茶店の入り口付近でそわそわしていたけれど、どうにかこの場に介入する覚悟ができたようね。


 敦はすっと彼女の隣に座り、「ふう」と一つ息をついた。仕事帰りらしく、背広姿だ。注文を取ろうと近寄ってきた店員に

「あ、結構です。すみません」

と頭を下げる。


「あっちゃん、どうしてここに!?」


 そんな敦の心境をどれだけ把握しているのかは分からないが、彼女がキュッとスーツの袖を掴んで声を上げる。


「メッセージの話をしてから様子が変だっただろ。翼は思い込みが激しいから……」

「だって!」


 二人がそれから何やら言い合いを始めたので、仕方なく黙って様子を見守ることにした。

 話をまとめると、次のような感じだ。


 敦はメッセージが来たことを彼女に正直に伝え、「今日は19時上がりらしいからその頃に清良に電話をしてもいいか」と聞いたらしい。

 一応了承したものの、彼女はやはり我慢ならなかった。そして仕事を終えて一度自宅に戻ったあと、わざわざ私の会社の前にやってきたらしい。

 一方敦は、そのときの様子が変だったこと、私に電話する前にもう一度話をしようと彼女に連絡をとったところ、「今日はもういい」と言われた。

 何となく嫌な予感がして予備校に来てみたところ、すでに対面してしまった私達を目撃したそうだ。


「翼、さすがにそれは駄目だよ」

「だって、おかしいじゃない。あっちゃんがこの人にちゃんと言ってくれていれば、私だってこんなこと……」

「言ったよ」

「言われたわよ。私と別れたい、別れてあなたの傍にいたいって。はっきりね」


 あーもう、面倒くさい。どうして私がこんな痴話喧嘩に付き合わされないといけないの。

 コーヒーを啜りながら口を挟むと、彼女はギロリと私を睨みつけた。


「何で、そんな余裕なんですか……」

「余裕なんて無かったわ。だから後処理の話もできなかったのよ」


 そう返すと、「はぁ?」と訝し気な顔をする彼女の隣で、敦がハッとしたように私を見た。


 そう、段取り屋の私らしからぬことをした。逃げるように、その場を後にした。

 もしいつもの冷静な私だったら、敦の荷物はどうするか、連絡先はお互い消すのか、共通の友人にはどう説明するか、など、そういう細々とした話までしていたはずだった。


 さすがの私も、それは無理だった。らしからぬ振舞いをして、飲み潰れて年下の男の子に助けられるという、あり得ない事態を引き起こした。


 ……ああ、でも、言葉に出してみて気づいた。

 余裕なんてけど、今は少しだけあるかもしれない。

 馬鹿な真似をしたし、あまりよく覚えてはいないけど、わんわん泣いて何かがスッキリしたのかも。

 だとしたら、トラには本当に感謝しないと駄目ね。


「今やってしまいましょ。彼女の前でね」

「ああ、うん」

「それなら安心でしょ?」


 そう彼女に問いかけたけれど、彼女は口をへの字に引き結んだまま、何も言わなかった。右手でギュッと、敦の左腕を掴んでいる。


「で、荷物は?」

「……処分していい」

「そう」

「あとはもう、好きにしていい。誰に言おうが、どうしようが」

「……他には?」

「……もう、連絡しないでほしい。消すから、アドレス」

「……わかった。私も消す」


 コーヒーを飲み干し、トン、とカップを真っ白なソーサーの上に置く。

 伝票入れに手を伸ばすと、敦が先にひったくるようにして持っていってしまった。


「俺が払う」

「でも……」

「これで最後だし。奢られたくはない」

「……」


 あのときの私と同じ台詞を言い捨てると、敦は私と目も合わせずスッと立ち上がった。隣の彼女を促し、手を差し伸べて立ち上がらせる。


 敦は多分、彼女の前だから意図的に冷たい言葉を使ってるんだろうな、と思う。

 もともと優しく気が弱い人だ。何しろ、『別れよう』すら促されないと言えなかった人。


 すべては彼女のためだって、わかってる。

 わかってるけど、それでも心は抉られる。


 わずかに残っていた敦への愛情のようなものや思い出、それらがあっという間に劣化して――ただのガラクタになってしまったようだ。

 さっさと捨ててくれと言わんばかりに取り上げられて、砂に変わって形を失い、崩れ落ちていった。

 私の手には、何も残っていない。


 彼女の肩を抱き、やや強引に連れて行く敦の後ろ姿を眺める。

 二人の姿が扉の奥へと消えて行った。それを見送り、ツイ、と目の前の二客のカップに目を落とす。

 結局彼女はミルクコーヒーには一切手を付けず、その表面には薄い膜が張ってしまっていた。



   * * *



「んー、何だかおかしいね」


 どれほどの時間が経ったのだろう。

 不意に聞き覚えのある声が飛んできて、思わずコーヒーから目を上げる。

 紺のキャップをかぶったトラが、ソファの背もたれに肘をついて身体をひねり、じいっと私を見つめていた。


「え……ええっ!?」


 何でそんなところに!……という言葉は声にはならなかった。

 確かに、彼女の背後にはいつの間にか客が座っていたけど。彼女が大声を出したせいか、こっちの話を聞いてる風だな、とは思っていたけど。

 まさか、トラだったなんて。


 キャップをかぶってると例のオカシな頭は見えず、黒混じりの金髪が飛び跳ねているだけ。その辺の若者と何も変わらない。

 気づかなくても無理はないか……それにしても帽子をかぶっていると顔が小さいのが目立つわね。


 トラは完全にこちら側に向き直ると、敦と彼女が据わっていたソファの背もたれの上に両腕を載せてもたれかかった。「うーん」と唸りながら、首を傾げている。


「お、おかしいのはそっちでしょ。何でいるのよ、この場に!」

「清良さんみたいな人って、放っておくと勝手に回復しちゃうからさあ」

「はぁ?」

「間を置いちゃ駄目なんだよね。そっち行っていい?」


 勝手なことを言い、トラが私の方を指差す。

 このままソファを隔てて話をしているのも変なので、渋々頷いた。店員を呼び、トラの伝票をこっちに付けてもらってカフェオレを追加注文する。


 白と青のカップが下げられたところに、トラがオレンジ色のカップとソーサを持っていそいそと近寄って来た。なぜか隣に座ろうとするので

「向かいに座って!」

とシッシッと左手を動かしてテーブルの向こう側へと追いやる。


「えー、隣がいいのに……」

「そんなバカップルみたいな真似はできません」

「うーん、この作戦も駄目かあ。どうやったら清良さんの匂いを思う存分、嗅げるんだろ?」

「嗅がなくていいから!」


 どうもトラと話していると調子が狂うわね。


「で、何? どうしてここにいるの?」

「見せかけの自動回復機能を阻止するために来ましたー」


 ビシッとおどけるように右手で敬礼して見せる。


「何よ、それ?」

「清良さんて、平気なフリが得意そうだから。鉄は熱いうちに打て!って言うし」

「急いては事を仕損じるとも言うわよ。だいたい、意味がわからないわ」

「だって、また悲しそうだよ、匂い」

「……っ!」


 そう言うトラの方が、よっぽど悲しそうな顔をしている。

 思えば、今朝もそうだったわね。匂い云々はどこまで信じたらいいかわからないけど、とにかくトラは、相手の気持ちに同調して自分まで悲しくなってしまうという、そういう共感の仕方をする子なんだ、ということはわかった。


「昨日とはまた違って……んー、乾いてるっていうか」

「……」

「昨日は大雨洪水警報って感じ。でも今日は、干上がっちゃってカンカンになってる感じ」

「……だから、何よ?」

「癒しの水になろうと思って」


 トラがクイクイと自分を指差し、にこおっと微笑む。


「ほら、ジャバジャバ、ジャバジャバー」

「結構よ」


 両腕を上げて何やら十本の指をワキワキし始めたトラを、ビシッと黙らせる。

 とにかく、この子のペースに任せていると大変なことになる。まったくもって、恐ろしい吸引力だわ。

 それにしても、私は夜上がりだとメッセージを送ったはずで、どうしてこんなタイミング良く……あらっ!?


「ちょっと待って、どうして私の勤め先を知ってるのよ?」


 ここにいるってことは、敦と同じよね。私と彼女を追ってこの喫茶店に来た訳で。

 ならば、予備校の前にいなければ当然後もつけられない訳で……。


「言わなかったっけ? 前に一度匂いを嗅いだって」

「……」


 また匂いか、と思わず半目で見ると、トラが

「本当だってば」

とややふくれっ面をし、その『匂いを嗅いだとき』のことを説明し始めた。


 建設現場でアルバイトをしていたトラは、毎日バラバラの時間に前を通り過ぎる私の顔を知っていた。

 ある日、トラはバイトのシフトを間違えて休みなのに現場に来てしまった。せっかく出てきたしどうしようか、ととりあえず駅に戻ったところで、偶然私を見かけたのだという。そのときは「今からお仕事かあ」と思っただけらしいのだが。

 すれ違いざまに漂ってきた匂いが、トラ曰く「あまりにもイイ匂いだった」ので、フラフラと私の後をついていってしまった、というのだ。


「……それはストーカーって言うのよ」

「いや、オレもびっくりしたー。まさかそこまでトランスするとは思わなくて」


 同じ車両に乗り込み、傍まで寄って思う存分匂いを嗅いだところで、ハタと我に返ったという。

 私が駅で降りたときは、「さすがにこれ以上は人としてマズい」と思ったらしく、歯を食いしばって尾行するのを諦めたそうだ。


「……それは痴漢って言うのよ」

「指一本触ってないから、セーフ!」


 両手をズバッと広げ、野球の審判のゼスチャーをする。

 そしてトラはぐいっとオレンジのカップの中身を空けた。それなりに、勇気の要る告白だったらしい。


「だから勤め先の最寄り駅は知ってたんだ。後はー、その駅の近辺の予備校を絞り込んで、ネットで片っ端からホームページを調べたんだ。それで、清良さんを見つけたんだよー」

「……迂闊に情報は漏らすもんじゃないわね。学習したわ」


 トラには名字だって教えなかったし、漢字だって知らなかっただろうに。

 飲んで泣き崩れていた私が自分のことを「セーラは……」と言っていて、それで名前はわかったらしいんだけど。

 あ、でも、そういえばメッセージではちゃんと漢字になってたわね。そこで気づくべきだったわ……。


「清良さんて清いに良いって書くんだね。矢上清良、いい名前だね!」

「褒めてくれるのは嬉しいけど、ストーカー行為が許される訳じゃないからね」

「えへっ」


 えへっ、じゃないわよ、本当に……。

 とは思いつつも、トラの登場で気分が少し和んだのは確かだった。

 匂いがどうこうはよくわからないけど、人の気持ちに敏感ってことよね。悔しいけれど、乾いていた心が潤された気がするわ。認めたくはないけどね。

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