第8話 どこかおかしい
追加のカフェオレが目の前に運ばれ、トラが
「美味しそー」
と、空になった自分のカップと見比べながら呟いたので、もう一つカフェオレを注文する。
「それで、おかしいって言うのは?」
トラの分も来たところで、ようやく本題に入った。
この子が人の気持ちに敏感なのは本当だ。そして私も、目の前の二人――特に敦の様子にちょっとした違和感を感じたのも確か。
トラの意見を聞いてみたかったのだ。
「んーと、まず、女の人はウソついてるかも」
「え?」
「『敦さんの子供です』って言ったとき、匂いが変に揺らいだ。焦ってるというか、何か抱えているのかなーって」
「でも、すごく誇らしげだったし、笑顔だったけど」
「笑顔? ますます変だなー。そういう表情と矛盾した臭いを放つときは、たいてい何かを隠してるんだよね」
「文字通り、焦ってたんじゃないの? 私の前だから、必死に笑顔を作ってたのかもしれないし」
「うーん、どうだろー?」
平常時の匂いを嗅げばもっとはっきりわかるはずだけど、とトラは不満そうだ。
「一回だけ会ったことがあるんだ。あのとき匂いを嗅いでおけばよかったなー。女の人が複数いるところって化粧の匂いが凄いからシャットアウトしちゃうんだよね」
「は? どうして会ったことがあるの?」
「あの人、松岡建設の本社の受付嬢だよ。受験、もう手応えで失敗ってわかって、伯父さんに相談に行ったんだ」
「相談?」
「そー。イヤだけど浪人しようかなって、悩んで。でも、そんな根性じゃどこに行ったって駄目だ、どうせなら現場で働いてみろーってアルバイト紹介された」
「へぇ……」
「二月末かな。そのときに会ったよ」
「ふうん……」
あのマンション、松岡建設だったのか。看板とか立ってたしトラックも見かけたけど、そこまで見ないし。
それにしても、伯父さんっててっきり建設現場の親方的な人かと思ったけど、本社に勤めてたのね。ちゃんと甥を叱ることができるなんていい関係。トラも、実の両親よりその伯父さんを信頼しているみたいだし。
……とまぁ、今はトラのことはいいわ。
そうか、受付嬢……。道理で……。
「でもさ、敦さんはウソは言ってない感じで、そこが何かヘンというか」
「それは、彼女の何らかの嘘に気づかず信じてるってこと?」
「んー、それとも違うような……」
ああ、そうだ。わかった、何に違和感を感じていたのか。
別れ話を切り出した、あのとき。
何を言えばいいか迷っている感じだった。両手の親指をくるくる回して。
でも、それって変よ。彼女の妊娠なんて、真っ先に言うべきことじゃない?
何を迷っていたんだろう。どうして私と別れるときに言わなかったんだろう。
「彼女が妊娠してしまった、彼女と結婚するから別れる」
こう言ってしまえば決定的だし、私に反論の余地なんて全くない。とてもスムーズだと思う。
まぁ、実際には言われなくても私は応じたんだから、そこまで読んでたのかもしれないけど。彼女が不安に思ったのも、「肝心なことを言ってない」というのがあったんじゃないかな。
言わなかったのは、私のため? 私が傷つくと思って?
それとも、彼女のため? 妊娠したから彼女を選ぶんじゃない、と言いたくて?
それでもなくて、自分のため? これ以上責められたくないという保身から?
「どうする? 清良さん」
考え込んでいると、トラが様子を窺うように私の顔を覗き込んでいる。
「どうって……」
「気になってるんでしょ、二人のこと」
「でもまぁ、もう関係ないし」
「だけどスッキリしないまま、次に進めるの?」
「次って何よ」
「オレ、勿論オレ!」
そう言って元気に右手を上げ、左手で自分を指差すトラに、思わず溜息が漏れる。
どこから出てくるの、そのエネルギーは。
「……この際、はっきり聞くけど。トラは、いったい私とどうなりたいの?」
「清良さんと恋人同士になりたい!」
「何で? きっとモテるでしょ、トラは。周りに可愛い子もいっぱいいるだろうし。どこがいいの、こんな三十路に近いオバサンが」
本当にそこまで卑下している訳じゃないけど、わざと自虐的に言ってみる。ちょっと卑怯な言い方をしたとは思うけど、どういう理由付けをするのか聞いてみたい。
トラは「清良さんは綺麗だよ、オバサンじゃないよ!」ときちんと反論してくれたあと、「うーん」と少しだけ考え込むような素振りを見せた。
だけど、急に顔を輝かせて飛び出た言葉は、
「清良さんは、行きつけの食べ物屋さんってある?」
という突拍子もないものだったので、テーブルの上に載せていた腕がガクッとはずれて肩が脱臼しそうになった。
え、どういうこと? 答えを探していたんじゃなかったの?
今どの辺にそんな話題転換のポイントあった? 話の腰が複雑骨折してるわ。
「何よ、急に」
「清良さんって脇目もふらずに歩いているから、あんまり目移りしないタイプじゃないかと思って」
「まあ……その通りよ。決まったお店しか行かないわね」
「それってどうやって選んでるの?」
「んー、だいたいは通勤経路とかコスパだけど、ラーメン屋だけは大好きな味で譲れない店があるの」
「へぇ! どんな味?」
「三十年ぐらいやっているお店で、特製醤油ラーメンが美味しいの。煮卵と手作りチャーシューと、それに応えるかのような極太麺との相性が抜群でね」
「チャーシューが美味しい店とか、他にもいっぱいあると思うけどな。食べ歩きとかしないの?」
「しないわよ。ここが最高って思ってるから、わざわざよその店になんて行かない。その味を求めてその店に行くんだもの」
「オレの清良さんへの気持ちも、それと同じだよ」
「はっ!?」
また急に話題が戻ってきたので、びっくりして大声を出してしまう。
どうしてこう、この子の言動はジェットコースターみたいなの?
「匂いってさ。もう、その人の本質的な物なんだよね。日によって感情によって変わるけど、根底は変わらないし、誤魔化しも効かない」
「……」
「清良さんがいい。清良さんの匂いが大好きで、それだけを求めてるのに、何でわざわざ好みじゃない匂いの子を? 選ばないよ」
「……えーと……」
「清良さんの匂いが、一番のエネルギー!」
グッと両手の拳を握りしめて嬉しそうに笑うトラに、釣られて笑ってしまう。
食べ物の例えはどうかと思うけど、不思議と言いたいことは伝わってきた。
「匂いがエネルギーか。ガンダルヴァみたいね」
「ガンダルヴァ?」
「インド神話に登場する半神で、天上の宮殿で美しい音楽を奏でて神々を楽しませているの。芳香を糧にしていて、自身も香しい匂いを放ってるんだって」
「へえー。オレと清良さん相性良いから、きっと清良さんもオレのこと良い匂いって感じると思うよ。嗅いでみる?」
「結構よ」
さすがに年下の男の子の臭いを嗅ぎ出したら、もう終わりだと思う。
思わず仰け反ると、トラは「ざーんねーん」と言いながら笑い、ふと真面目な顔をした。
「でも、もう匂いだけじゃないよ。声も好きだし、真面目なところも、一直線なところも好き。彼氏の前で泣けないのに裏で大泣きしちゃう、そういう不器用なところとか放っておけない」
「……トラは、私の極端にオカシなところを見たからそう思うんであって、それは本当の私じゃ……」
こう臆面もなく言われると、どう返したらいいかわからなくなる。
トラは今が攻め時だとでも思ったのか、
「あ、それに!」
と小さく叫び、ずいっと身を乗り出した。
「清良さんのポリ袋も好き!」
「は?」
ポリ袋? 急に何の話なの?
「清良さん、鞄に小さいポリ袋入れてるでしょ」
「あ……うん」
そう言えば、プレハブでも使ったかな。よく覚えてたわね。
「前さ、いつものように清良さんがものすごい勢いで目の前の道路を歩いて行ったんだけど、急にピタッと止まったんだ」
「え……」
「そしたら、鞄からポリ袋を出して、道に落ちてた空き缶拾ってた」
「……あったかしらね、そんなこと……」
別に普段から街の美化に努めてるとかじゃない。通勤途中に目に入って、そのままスルー出来なくて拾っただけだろう、多分。道に落ちてるゴミを全部拾ってたらキリがないもの。
「別に慈善活動してる訳じゃないけど」
「わかってるよ。でも、見つけちゃったら見過ごせないタイプなんだな、と思って。そのときにね、キュンとしたんだよねー」
「……」
どうやら、私の想像以上にトラは私を見ていたらしい。若干美化されてる気もするけど。
「という訳だから! とにかくこの件は早くスッキリさせて流しちゃおう!」
「人の失恋をトイレみたいに言わないで」
「一緒だよー。我慢し過ぎはダメなんだよー」
「トラはもう少し我慢を覚えた方がいいわね」
「オレ、本能で動くタイプだから! ……とにかく、明日にでも本社に行ってみるね。情報仕入れてくるから、任せて!」
ビシッと再び敬礼のようなものをし、ニヤッと意味ありげな笑みを浮かべる。
本当にジェットコースターみたいな子ね。
「明日? 本社?」
「バイト、今日で終わりだったから。伯父さんにありがとうって言わなきゃ。携帯で連絡取るつもりだったけど、まぁ近くまで来たついでに寄ったとか言えば……」
随分可愛がられてるのね、まぁ実際に可愛いけど。
「……その頭で?」
「駄目?」
「目立ちすぎない?」
「慣れてる。でもそうか、伯父さんビックリしちゃうね。会社にも迷惑かかるかな。染める……のはやだな、カツラでもかぶろうかなあ……」
そう言うとトラは、うーんと唸り始めた。
人に見られることに慣れてる子って、物怖じしないのね。
終始トラのエネルギーに圧倒されながらも、どこか頼りにしている自分もいて、何だか不思議に感じた。
もともと、自分で何でもやりたい方だ。誰かを頼りたいと思ったこともないのに。それも……八歳も下の子に。
私もたいがい、おかしくなってるのかな。
それこそ、ガンダルヴァの芳香に酔っているのかもしれない。
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