最終話 それから

 喫茶店の重みのある木製の扉を開けて、人気のないフロアへと足を進める。コツ、コツと自分のパンプスの音がビルの壁に反響しているのを聞きながら、ゆっくりと階段を下りた。

 外に出ると、もわっとした生温かい風と飲み屋街の喧騒に当てられ、思わず足を止める。酔って大騒ぎをしている集団やぴったりと寄り添っているカップルがあちらこちらにいた。

 すうっと息を吸い込み、気持ちを入れ替える。楽しそうにはしゃぐ人たちの間をすり抜け、最寄り駅へと早足で向かう。


「――清良さん!」


 アスファルトの上を走ってくる音が聞こえ、グッと左腕を掴まれる。

 足を止めると、やや強めの力で強引に振り向かせられた。

 トラが右手で私の左腕を掴んだまま、息を荒くしている。


「……何?」

「枝葉を取って考えようよ。清良さんは、何も悪くないよ」

「え……」

「彼氏が心変わりして、清良さんは一方的に別れようって言われたんだ」

「……」

「その理由を知りたいって思うの、変じゃないよ。清良さんは悪くない。オレが勝手にいろいろ嗅ぎまわって、余計なことを吹き込んだだけ」

「トラ……」

「ね、一人で泣かないでよ」

「何を……」


 そう言われて、初めて気づいた。我慢したはずの涙が、いつの間にかすうっと頬を伝っていた。

 慌てて空いていた右手の人差し指を眼鏡のフレームの下から差し込み、目尻をさっと拭う。そのまま誤魔化すように「ふふっ」と笑ってみせた。


「ちょっと、やめてよ。さすがに今は弱ってるから。頼りたくなる。本当に、グジャグジャになるから」

「だから、なっていいんだって。オレ、一晩中でも慰めるよ。清良さんをいーっぱい甘やかす。ね、だからオレと一緒にいよう?」


 何て甘い誘いをするのかな、この子は。本当にガンダルヴァじゃないのかしら。

 何もかも忘れて、すがりつきたくなる。……だけど。


「この涙は、失恋の涙じゃない。自己嫌悪の涙」

「……それで?」

「無くしてしまいたい。敦にフラれたあの夜から今までのこと、全部。ここ数日間の自分は、本当に嫌い」

「オレは好きなのに……」


 トラのその言葉に、思わず笑みが漏れる。

 やだな、もう。どうしてこの子の言葉はこんなに沁みるんだろうね。


「トラに甘えるのもいいね。そうしたい気持ちはあるよ」 

「え!」

「でも、これまで二十六年間生きてきた矢上清良は、どうしてもそういう人間は許せないの」


 多分目の前にいたら、何を甘ったれてるの、悲劇のヒロインぶって馬鹿みたい、自業自得でしょって、説教すると思う。

 だけど、今日ぐらい見逃してよ、と思う自分もいて。今日ぐらい、全部棚上げしたっていいんじゃない?とも思ったり。


「だから、トラ。甘えさせてもらうとしたら、今だけ。今日が最初で最後。私は全部忘れるよ。無かったことにする、何もかも。じゃないと無理、私が。後悔する」

「え……」

「それが嫌なら、腕を離して。何日かしたら、頼りがいのある知り合いのお姉さんに戻るから」


 ね?と問いかけ、わずかに微笑む。

 狡い大人の女で、ごめんね。

 トラは人の気持ちに敏感だから、わかるよね?


「それって……どっちみち、次にオレを選ぶことは無いじゃん……」


 トラは、私の言いたいことを正確に把握したらしい。やや項垂れながら口元を歪め、ひどく悲しそうな顔をした。


 そうだね。無い。

 あんなひどい出会い方して、こんな自己嫌悪に陥るような関わり方をして、そのままずるずるとトラと恋仲になることはあり得ない。

 そんな私は、絶対に許せない。


 だけど、今日は本当に凹んでるから。何も考えずに甘えたいときもあるから。

 無邪気で素直なトラとの時間が欲しいと思っている自分もいるのよ。トラは、私が欲しい言葉をくれるだろうから。

 だけど、それを決めるのをトラに任せてしまった。本当に狡いね。


 それでも、トラの右手は私の左腕を離そうとはしなかった。

 俯いたまま、微動だにしない。きっとこの二択に迷っているんだろう。



「……じゃあね」


 しばらく無言の時間があって、そう声をかける。

 トラはきっと最終的に私の腕を離すだろう、と思った。関係を断つ方じゃなくて、ただの知り合いに戻る方を選ぶだろう、と。

 だからそう言って、腕を振り払おうとしたんだけど。


「嫌だ」


 たった一言そう告げられ、グイッと引き寄せられる。そのまま懐に入れられた。背中に両腕が回って、ギュッと抱きしめられる。


「それならオレは、たった一晩でも清良さんと一緒にいる方を選ぶよ」


 私より数センチだけ背が高いトラ。華奢に見えても、やっぱり立派な男の人の身体だった。

 トラの心臓の鼓動が伝わってくる。その体の熱さも。


「だって清良さんをこのまま放っておくほうが、オレにとってはあり得ないから」


 私の耳元で、トラが囁く。少しだけ、苦しそうに。


「……そう……なんだ……」


 声が震える。

 やだな、また涙が出てきた。何の涙かはわからないけど。

 これは失恋の痛みでも自己嫌悪でもなくて……何だろうね。



 溢れる涙と共に、私の輪郭が溶けて崩れて無くなってゆく。

 その日、私は――自分の意思で、理性を手放した。




   ◆ ◆ ◆




 四月上旬の、この一週間足らずの出来事は、私にとってはとても衝撃的で。

 一度死んで生まれ変わったんじゃないかと思うぐらい、目の前が変わった。


 でも性格は、別に変わった訳じゃない。

 相変わらず早足で、ときどき空き缶を拾ったりもしつつ、だけど決まった通勤経路を真っすぐに歩く。


 駅前のマンションからは工事中の札が消え、組まれていた鉄骨の足場などもすべて無くなった。

 プレハブがあった空き地はアスファルトが敷かれ、白色塗料で綺麗な線が引かれ、20台ほどの車を停められる駐車場になった。

 引っ越し業者のトラックを頻繁に見かけるのは、きっとあのマンションに入居する人がたくさんいるからだろうな。


 私の部屋から敦の荷物は無くなり、スマホのアドレスからも敦が消えた。

 ついでに大学のサークル関係のアドレスもすべて消した。

 もともと殆どやりとりなどしていなかったし、敦の結婚の噂を聞いた昔なじみの人間が興味本位に連絡してきて、煩わしかったから。


 トラとのメッセージのやりとりもすべて消去し、アドレスも消した。

 トラも二度と連絡をしてくることはなく、残ったのはあの春の夜の温かさと微かな甘い香りの記憶だけ。


 日常生活は、そう変わりない。

 湿った風が吹くようになり、雨の日が増えて、やがてそれも減っていって。

 太陽からの光が暖かさより力強さを感じるようになった、七月上旬。

 私の勤め先である予備校では、夏期講習の準備が始まっていた。



   * * *


 

「矢上先生。悪いんだけど、今日ちょっと残ってくれる?」

「え?」

「19時にさ、夏期講習の物理の非常勤が来るんだよね。空いてる先生が他にいないから、説明を頼みたいんだけど」


 頼みたいといいつつそれはもう命令ですね、と思いながら、校長から『授業報告書』『出勤表』を始めとする数枚の書類の束を受け取る。


「ああ、『二次物理』のSクラスと『センター物理』でしたっけ。空いてたの、埋まったんですね」

「学生だから本部で研修を受けてもらってたんだよね。かなり使えるって話だから、9月からも夜の部で引き続きやってもらおうと思って」

「ああ、なるほど」


 塾講師の経験がある中途採用の場合は入社してすぐに授業を受け持ってもらうが、学生はそもそも黒板を使って授業をしたことが無い場合が殆どだ。

 だから本部で研修を受け、何回かの模擬授業を経て『これなら大丈夫』と判断されれば、その後各校舎に配属される。

 学生だろうが、生徒からしてみれば『プロの講師』。提供するサービスに穴があってはならない。


 9月からも引き続きとなると、単なる事務的な話だけじゃなくて担当する生徒の志望状況の話もしないと駄目ね。

 そんなことを考えながら自分の席に戻り、パソコン上に生徒名簿を表示させる。

 そう言えばどこの学生だろ、と思いながら貰った書類をパラパラとめくっていると、履歴書が見つかった。


「……!!!」


 大声を上げそうになるのを堪え、両手でガバッと白い紙を掴み、凝視する。


佐久間さくま虎太郎こたろう

 2000年8月22日生(18歳)』


 その右には、やや焦げ茶っぽい明るい髪色ではあるものの、太い黒縁眼鏡をかけた真面目そうな少年の写真が貼られている。

 これは……どう見ても、トラだ。同姓同名の別人とかじゃない。


 視線を落とし、住所、経歴を見ていく。

 神奈川県横浜市出身、県内の私立中高一貫校を卒業後、R大に進学……。

 そう言えば、受験ナメてたらすべり止め以外全部落ちたって言ってたっけ。

 とは言え、R大の建築だってなかなかのものなんだけど。


 あの、遅すぎる反抗期のようなアホな虎髪と天真爛漫な笑顔、無邪気すぎる言動に騙された。

 なかなかどうして、やってくれるじゃないの……!



   * * *



、佐久間虎太郎です。よろしくお願いします、矢上先生」


 夜の7時、予備校の自動扉から入って来たトラが、事務員に案内されて私の席までやってきた。きちんと腰を曲げ、私に挨拶をする。

 濃いグレーのスーツを身につけ、白いワイシャツに紺のストライプ柄のネクタイをきっちりと締めた彼は、どこからどう見ても真面目そうな好青年で、

「本当にあれは〝春の夜の夢〟だったのかな」

と勘違いしてしまいそうだった。


、矢上清良です。よろしく。それじゃ、ここに座って。説明するから」


 空いていた隣の席の椅子に座らせ、校長から預かっていた書類を広げる。

 授業報告書の書き方、出勤管理など一通り説明する。青年はふんふんと頷きながらおとなしく聞いていたけれど、どうも様子がおかしい。

 何しろ、距離が少々近い……しかも何だかスンスンと鼻を鳴らしているような。


「……佐久間くん。聞いてる?」

「あ、はい! 勿論!」

「……説明ばかりも何だし、とりあえず校舎の案内をするわ」


 これはひとまず予備校講師の仮面はいったん脱いで、と話をしなくては。

 広げていた書類を集めて机の上でトン、と揃える。そのまますっくと立ち上がると、トラも慌てて立ち上がった。

 カツカツと靴音を鳴らしながらエレベーターへと歩く私の後ろを、わたわたと付いてくる。


 チン、と小さく音が鳴ってエレベーターが一階に着いた。中には誰もおらず、二人で乗り込む。

 ひとまず上まで行こうと8階のボタンを押し、続けて『閉』を押す。

 扉が閉まった途端、トラが私をちらりと見、肩をすくめて

「えへっ」

と照れ笑いをした。右手で眼鏡を外し、左胸のポケットに入れる。どうやら伊達眼鏡らしい。

 髪色は違う、でもあのときのトラと全く同じ、無邪気な笑顔だった。


「えへっ、じゃない。どういうつもり?」

「だって清良さん、無かったことにするって言うからさー」


 聞き覚えのある、語尾を少しだけ伸ばす話し方。やはりこちらが素のようだ。


「その通りよ。最初で最後、もう会わないって、あの夜も言ったよね?」

「うん、言われた。でもそれって、リセットしたいってことでしょ?」


 トラが両手を広げて首を傾げる。


「え?」

「嫌だったのは……無くしたかったのはあのときの清良さん自身であって、オレじゃないよね?」

「……っ」


 何よ、その自信あり気な感じは!

 でも、それは確かにその通りだった。トラ自身を拒絶した訳じゃない。消したかったのは、あのときの自分。


 トラはやっぱり、私の気持ちを正確に把握していたらしい。

 それがわかって、何とも言えない……嬉しさよりも悔しさが上回る、変な感情が私の中を駆け巡る。

 何も言い返さない私を見て、トラが「えへん」とばかりに胸を張った。


「じゃあ出会いからやり直せばいいや、と思ったんだよね」

「は……」

「予備校のアルバイトに来た学生が、アルバイト先の女性講師に一目惚れしました。――これでいいじゃん」

「これでいいじゃん、って何?」

「後ろめたさゼロ。堂々と付き合えるよねってこと」

「そっ……」


 そんなことを企んでたの!?

 あのときやけに長考していたのは……そういう理由!?


 ぱくぱくと口は動くものの二の句が告げないでいると、トラが「あ」と小さく声を上げ、右手をパタパタと振った。


「言っとくけど、あのときは本当に必死だったんだよ。清良さんに究極の二択を突きつけられて、いっぱいいっぱいになって」


 私に、まるでタイムリミットのように「じゃあね」と言われて、本能的に腕を引っ張ったという。

 どうしても、それしか選べなかった、と。


「でもさ、翌朝目覚めたら、清良さんはもういなくなってて。これで終わりなんて絶対にヤダ、と思った。だけど、無理に近づいたって清良さんは絶対に振り向いてくれない。むしろ嫌われちゃう」

「……」

「だから、一生懸命考えたんだ。どうしたら、清良さんがオレの方を見てくれるか。選んでくれるようになるかなって」


 それが、『出会いからやり直すこと』……。

 やっぱりトラは、本当に匂いから感情を読み取れるのね。

 あの夜の私の自己嫌悪も、弱さも、だけど譲れない我儘も、全部受け止めていた。

 私より八歳も年下の男の子が、大人の女の狡さを黙って飲み込んでくれたのか。


 ちょっと感動すら覚えてまじまじとトラの顔を見つめていると、私の視線に気づいたトラが口の端だけを上げてニヤッと笑った。

 すっと、私の耳元に唇を寄せる。


「だから、覚悟しててね。今度はちゃんと、清良さんを口説いて落とすから」

「何を馬鹿なこと……って、匂いを嗅ぐな!」


 グイッと顔を押しのけると、トラは歪んだ顔のまま「あはは」と笑っていた。

 ちょっと甘い顔を見せるとすぐこれだ。本当に、もう……虎視眈々とは、まさにこのことね!


「急いては事を仕損じる。清良さんが教えてくれたんだよ」


 腕組みをし、うんうんと大げさに頷くトラ。


「ありがとう、清良さん。これから……よろしくね?」


 そう言ってニッと笑うトラはどこまでも無邪気で、底知れなくて。

 これまでの日常が崩れていく音が確かに聞こえてきて――その音がやけに軽やかなのにも眩暈を覚えて、私はエレベーターの壁にもたれかかって大きな溜息をついたのだった。






                            - Fin -



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