後日談
トラと雨夜の迷い猫(前編)
夜の9時過ぎ。仕事を終えて予備校から出ると、外はもう真っ暗でシトシトと冷たい雨が降っていた。
この間まで暑かったのに、急に秋の気配……長雨の季節か。冷房対策に長袖を着ていてよかった、と思いながら愛用のワイン色の傘を差す。
8月30日、2019年度の夏期講習も本日で終了。
アホな虎縞模様の髪の毛を落ち着いた焦げ茶色に染め直し、フレームが太めの黒縁眼鏡をかけ、物理の非常勤講師として来ていたトラ。
もともと私のトラへの印象としては「18にしちゃ言動が少し幼いな」というものだったのだけど、再会したトラは意外にもしっかりと授業をこなし、本部が太鼓判を押しただけあって生徒にも好評だった。
まぁ、黒縁眼鏡で控え目に振舞っていても、美少年は美少年。その辺のアイドルにも負けない風貌なので、敏感なお年頃である女子生徒たちはすぐに気づく。
「佐久間先生、ここ教えてー」
「マークでいっつも時間が足りないんだけどどうしたらいい?」
「先生、化学もわかる?」
「あー、私、化生選択にしなければよかったー。今から物理やろっかな」
「ねぇ、先生って大学生でしょ? どこの大学?」
「先生んち遊びに行きたーい」
……と、どんどんゴリゴリ来る女子高生、女子の浪人生に対し
「いいよ、電磁波のとこね」
「暗記でどうにかしようとしてない? 実は本質が理解できていないのかも」
「化学はちゃんと立浪先生に聞いてね。授業のことでしょ?」
「物理はそんなに甘くないよ」
「んー、そういう質問はナシね」
「ごめん、無理だから」
と、真面目な質問には真面目に、ふざけた質問には厳しく、ちゃんと自分の立場も考えて対応していた。
女子高生とは年もそう変わらないし、ましてや浪人生とは同い年。わーっと一緒になってはしゃぎまくるようだと問題だわ、と目を光らせていたのだけれど、心配ご無用といったところだ。
ちなみに、私が資料室で本を探していたり印刷室でプリントを作っていたりすると、『二人っきりチャーンス!』とばかりにすかさずにじり寄り、
「清良さん、ご飯いこー」
「今日はもう上がり? 家に行ってもいい?」
「今度の休みいつ? デートしよう」
と畳みかけてくる。マトモに相手をする訳にはいかないので、
「忙しいから無理」
「駄目に決まってるでしょ」
「そんな暇はない」
と片っ端からはねのけたのだけど。
この対応に、トラはだいぶん不満だったようだ。二人きりになったあるとき、
「あのさー、清良さん」
と拗ねたような声を出し、むむぅ、と口を尖らせた。そばにあった回転椅子にボスンと乱暴に座り、ちろり、と上目遣いをする。
「そんな邪険にしなくてもよくない?」
「邪険にした訳じゃ……」
「ご飯、おごってくれるって約束したのに……」
「……っ」
こ、い、つ、は……絶対に自分が可愛いとわかっててやっているな!
とはいえ、負けないわよ。だてにトラより長く生きてないんだから。
そんな簡単じゃないわよ、私は!
「約束って何のこと? 私と佐久間くんは、この夏に出会ったばかりでは?」
「……あっ」
「自分で決めた設定はちゃんと守りなさいね」
「えー……」
しょぼーんと肩を落とすトラ。大きな犬が耳も尻尾も垂れて項垂れているかのようだ。
そんな様子を見ると、ゆらゆらと心は揺らぐ。
四か月以上前の四月上旬。失恋やら修羅場やら自己嫌悪やらで酷い状態だった私。
そのときにいろいろと助けてもらったのは確かで、心を救ってもらったのも確かで、都合の悪いことを全部無かったことにしたかった、狡い私に合わせてくれたのも確か。
借りを作りっぱなしではあるのだ。心苦しいところはある。
ご飯ぐらいなら本当は行ってもいい……んだけど、問題なのは、やっぱり私達は一度は夜を共にしていて、少なからずトラを可愛いと思っている自分もいて……。
そういうプライベートな時間を共有することになると、あっという間にトラに引っ張られそうで怖いのよ。
結局、私は八歳も下の男の子からただただ逃げ回っているという、そういう情けない事態になっている。
はぁ、もう、どうしたらいいんだろう……。
重たい雨の音を聞きながら歩いていると、湿度に合わせて気分もジットリとしてくる。
信号が赤に変わり、いつもの早足を止めた。歩道にところどころ広がっている水たまりを見つめていると、知らず知らずのうちに溜息が漏れる。静かに降り注ぐ雨の雫がわずかな波紋を作り、映り込んだ私の姿がゆらゆらと揺らいだ。
夏期講習中は「忙しい」の一点張りで突っぱねたけど、2学期からはどうしよう。
これから週に二回授業に来るトラは、私の予定なんてすぐわかるし、あまり突っぱねるのも本当に本当に胸がキュッとなって苦しいのだ。
でも、だからと言って……。
隣にいたサラリーマンが視界の端から消える。信号が青に変わったことに気づいて、再び雨が静かに降りそそぐ中を歩き始めた。
そうだ、下を向いて項垂れながら歩いているから気分も下がってしまうのかもしれない。ちゃんと顔を上げて、しっかりと前を向いて歩こう。
さて、どうするか。
うーん、ここは一回ご飯だけは行って、ちゃんと借りは返しておくべきか。そうすれば、もう少し気持ちが軽くなって、楽に対応できるようになるかもしれない。
八歳も下の子に引きずられそう、なし崩しになりそう、とかビビってる場合じゃないわよね。私さえ気を引き締めていれば……。
「――清良さぁん、どうしようー!」
「きゃあああっ!」
もうすぐ地下鉄の最寄り駅、というところで声が飛んできて、思わず奇声を発してしまった。反射的に後ずさった私の視界に、ビルの隙間から飛び出してきたトラの姿が映る。
ぶつかりそうになって慌てて左側に身を引く。とりあえず息をついて目を凝らすと、トラは傘も差さずに雨に打たれたまま、ひどく困った顔をして立っていた。
今日はバイトの日ではなかったから、TシャツにGパンという非常にカジュアルな、大学生らしいスタイルだ。
「な、何!? 何なの!?」
何でこんなところに、どうしようってどういうことよ、といろいろな疑問が頭を渦巻いた。だけどさすがにびしょ濡れのトラを放っておけず、傘を差しかける。
トラは「くしょっ」と小さくくしゃみをすると、自分が飛び出してきた薄暗い路地を指差した。
「ネコ、いる」
「はぁ?」
トラの示す方を目で追ってみたけれど、暗すぎて分からない。が、雨の音に混じって微かに「にゃあ、にゃあ」という声が聞こえてくる。
こっち、と言いながら歩きだすので放ってもおけず、トラが濡れないように傘を差しかけながら後をついていった。
見ると、B4サイズぐらいの小さめの段ボール箱に折り畳んだバスタオルが敷いてあり、一匹の薄茶色い猫が丸まっていた。私達の足音に気づいたのか、大きな耳がピクリと震える。体を起こし、段ボールの端に両手をかけて伸びあがった。薄い緑色の瞳をトラに向け「にゃあ」と一鳴きする。
体長は30cmぐらいと小さいけれど、何となく子猫という感じじゃない。猫を飼ったことはないから、よくわからないけど。
顔は小さい逆三角形で大きい耳がぴんと立った、スラッとした器量良しの猫だ。細長い尻尾はぴよん、とハテナマークを描くように上に伸びている。
段ボールは雨がかからないようにビルの二階ベランダの真下の位置に置かれていたため、濡れてはいなかった。ネオンの明かりでしか確認できないけど、毛並みも悪くはなさそう。
首輪はしていないけどきっと飼い猫だ。よく見ると、段ボールの隅に赤いエサ皿らしきものと、猫がキャットフードを食い散らかした跡があった。私達が近づいても逃げずに元気に鳴いているし、人に慣れているんだと思う。
トラはひょいっとその猫を抱き上げると、少し首を傾げ、
「連れて帰ってもいいと思う?」
と聞いてきた。
街明かりの中、雨に濡れた美少年と腕の中の小さな猫。
恐ろしく魅惑的な光景……だけど、引きずられはしませんがね! ふん!
「何で私に聞くのよ。言っておくけど、私のマンションはペット禁止だから飼えないわよ」
「勿論、オレが飼うよ」
「簡単に言うわね」
「家に猫いるし、一匹増えても大丈夫。ただ、これって捨てられてるって思っていいのかな」
「……多分ね……」
飼っている猫を、こんな路地の隅に置き去りにはしないと思う。犬じゃあるまいし「買い物する間はここで待っててね」という訳ではないだろう。
「でも、どうやって? 電車には乗れないでしょう」
トラの家は横浜にある。バイト先であるうちの予備校や大学へは電車で通っていると聞いている。
電車に乗せるならゲージか何かないと駄目だろうし……。
「タクシーで帰る。清良さん、付いてきてくれる?」
「何でよ?」
「だってネコ抱えてないと駄目だから財布も出しづらいし。こんな交通量が多いところで急に逃げ出したりしたら危ないし」
「うーん」
「あ、大丈夫! 家の人がちゃんといるから、二人きりじゃないよ!」
普段の激熱アピールをやや反省したのか、トラが慌てたように首を横に振る。
猫を口実に家に連れ込むつもりじゃない、と言いたいのだろう。
家の人って、ご両親のことよね。随分持って回った言い方だけど。まぁ、それなら大丈夫かな……。
バイト先の者です、と言えばいいことよね。予備校でトラの教育係をしていたのは確かだし。
……って、いま何を考えたんだろう、私! 実際に、単なるバイト先の講師じゃないの! それ以外の何だっていうのよ!? アレは無かったことになったんだから!
そう、そうよね。そうよ、そうよ。
「……って、ちょっと待って、今から横浜まで?」
「終電には間に合うと思うけど、往復がキツかったら泊まってっていいよ。明日、休みでしょ?」
「さすがにそんな図々しいことはしないわよ。でも……まぁ、わかったわ」
こんな夜も更けてから人様の家に行くのは非常識な気もするけど、びしょ濡れになって猫を抱えているトラを放っておけないのも確か。
仕方ない、ちゃんと見届けよう。
トラはパアッと顔を輝かせると、
「やったあ!」
と叫び、ダダダッと元の大通りへと駆け出した。
元の持ち主の証拠になるし、と猫が入っていた段ボールを掴んで慌てて追いかけると、トラは通りに止まっていた一台の黒いタクシーの前でウロウロしていた。
私が近づくと、
「清良さん、早く、このタクシーに声をかけて」
と顎で促す。
何か釈然としないものを感じながらも、目の前の窓をノックする。すると、後部座席のドアがすうっと開き、白髪混じりの薄くなった髪をきちんと撫でつけた老齢の運転手さんが半分だけ首を捻ってちらりと私の顔を見た。
「どちらまでですか?」
「横浜までなんですが」
「いいですよ。どうぞー」
「清良さん、早く」
いつの間にか私の背後に回っていたトラに急き立てられ、仕方なく傘を閉じて中へと乗り込む。するとトラは、両腕にネコを抱えたまま器用に身を屈め、私を奥へと押すようにささっと乗り込んできた。
「え、お客さん、猫ですか」
ミラーでトラの様子を確認した運転手が、ややギョッとしたような声を上げる。
トラは持ち前の無邪気さでミラー越しににこおっと笑うと、
「大丈夫、おとなしいから。ね?」
と膝に乗せた猫の両前脚を握り、バンザイさせた。茶色い猫はトラに伸びをさせられて「にゃあ」と小さく鳴いたものの、確かに暴れる様子はない。
そんな一人と一匹の可愛らしさにほだされたのか、老齢の運転手さんは「ははっ」と笑い、雨の中を滑るように車を走らせ始めた。
「うーん、手紙とかないわねぇ……」
膝の上の段ボール箱をまさぐったけど、あったのは比較的きれいなバスタオルと赤くて平たい金属のエサ皿、散らばった固形型のキャットフードだけ。
「清良さん、元の持ち主を探そうとしてるの?」
「うーん、まぁ、一応ね。捨てたけど気が変わるかもしれないでしょ」
「もう駄目だからね! ウチの子だから!」
トラがギュッと猫を抱きしめ、「ね?」と話しかける。人に慣れているのか甘えん坊なのか特に嫌がることもなく、茶色い猫はおとなしくトラに抱かれていた。
「それにしても、本当におとなしいわね。家に猫がいるって言ってたけど、ケンカにならないの?」
「んー……」
トラが猫のひたいや肉球の臭いをクンクンと嗅ぎ、
「うん、相性良いから大丈夫!」
と、満面の笑顔で答えた。
「やっぱり
「え? そりゃそうだよ。実際、相性良かったでしょ、清良さ……イテテテテ!」
ロクでもないことを言い出したので、トラの右腕を思い切りつねる。
だーかーらー、アレは無かったことになったでしょうが!
「もー、手厳しいなー、清良さん」
「今度おかしなことを言ったら本当にシバくわよ」
「えー。とまとー、慰めてー」
早速名前をつけたらしく、トラがそう呼びかける。赤いエサ皿は確かにトマトの絵柄だったので、そこから名付けたんだろう。
とまと、と呼ばれた茶色い猫はスンスンとトラの臭いを嗅ぐと、そのままトラの腕の中でまぁるくなっていた。
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