第2章 5
5.
生家に戻って以来、初めて鞄の荷を解く。
大切に紙に包んで持ち込んだ十数冊の本。養父から、恩師から餞別にと頂いた数冊の書物の他に、なによりも大切な和綴じの本、「小學国語讀本」。
近々文部省指定の教科書が発刊されるというし、いずれ都会に戻る時に持ち帰っても時代遅れになっているかもしれないが、この数冊の本は私のかけがえのない思い出の品だ。今でもこの教科書を捲りながら教鞭を執った教え子一人一人の顔を思い出せる。中にとんでもなく手が付けられない悪たれがいて毎日手を焼いたが、出立の日見送りに来てくれたその子は一番大声でワンワン泣き別れを惜しんでくれた。思い出しただけで目頭が熱くなる。この教材は、是非蓮華の寺子屋尋常学校で役立ててもらいたい。
他にも副読本として使えそうな何冊かを選び出し風呂敷に包む。父が「俺ラの倅が人サ物を教ェるようになるとはな」と感慨深げに頷いているのが何だかこそばゆい。
家を出た途端、眩い日差しに思わず顔を覆う。久しぶりの快晴だ。
暫く歩くと、川縁に薊の花が咲いているのが目に留まった。以前源三がこれの根は固いが食べることが出来ると言っていたのを思い出す。いざとなったらこれを齧って飢えを凌いでやろうか。
と、
「あんちゃん、あんちゃん!」
見知った女の子が息せき切って駆け寄ってきた。確かミツちゃんと言ったか。
何事かと聞いてみると、
「平太が川に流されちまった!」
田へ潅水するために堰を止めていた箍が何かのはずみで外れ、川下で遊んでいた平太たちを飲み込んでしまったらしい。一緒に流された子供たちは自力で岸に這い上がったが、平太は――
平太が流されたという渕からずっと川下の方で、恐らく流された後に助かった子供らたちが呆然と、あるいはワアワア泣きながらしゃがみ込んでいた。すぐ近くで川の周囲を見回していた佐保子が私を見つけると一目散に駆け寄ってきた。
「――! ――!」
「平太は!?」
「――! ――!」
佐保子は口をパクパクさせるだけで何も喋らない。
「平太がどこにいるか、わからないの?」
「――っ!」
ぶんぶんと首を振り、必死に私の袖を引っ張り、濁流の中を指さす。
駆け寄ると、恐ろしい奔流の狭間にチラと着物のような物が横切っていくのが見えた。
「平太!」
後は何も考えず、濁流の中へ身を躍らせた。
――
平太は息を吹き返した。
ずぶ濡れでキョトンとする平太を、佐保子は声にならない慟哭を上げて掻き抱いた。
遅れて蓮華や平太の父親と思しき男が駆け付ける。
「この馬鹿っ!」
着くなり蓮華がピシャリと平太の毬栗頭を叩いた。
「あンだけ川に近づくなって言ったろ!」
目を白黒させて蓮華を見上げる平太を、
「このバカタレっ!」
今度は親爺の拳骨が追い打ちをかけた。
「庵主様に心配かけやがって!」
途端に火が付いたようにごめんよ、ごめんよ、と泣き出す平太を宥めようとすると、父親が深々と頭を下げた。
「おもさげねェ、深芦の坊が助けてけだのスて?」
「いや、私よりも――」
手を振りながら、佐保子を振り返る。彼女が見つけていなかったら、多分助からなかった。
佐保子が吃驚したように私の顔を見る。
「サホが……?」
信じられないといったように父親は目を見開き、何とも言いかねたように顔を伏せる。
「まあ、いずれ大事無くて良かったじゃないか。さあ、念のため診てやるから平太を少し寺に貸しな」
愚図る悪童の手を引っ張り蓮華が土手を上がっていく。何故かバツの悪そうな顔を伏せたまま父親もそれに続くが、佐保子の前を通る時、「ありがとうな」と小声で呟くのが聞こえた。
後に残された佐保子は困ったような顔で暫く私の顔を見つめていた。
風呂敷に包んだ本は、どさくさのうちに川に落としてしまった。
自宅の縁側で蝉時雨を聞きながら、久々に夏らしい夕暮れの紅い空を眺めていると、沙羅の木の陰からずぶ濡れの佐保子が現れた。
どうしたのかと慌てて駆け寄ると、川に落としたはずの風呂敷包みを大事そうに差し出された。
包みを解いてみると、うまい具合に芦の繁みに引っかかったのか、中の本はあまり濡れてはいなかった。
「まさか、今までずっとこれを探してくれていたの?」
すると、佐保子は本の一冊を手に取るとパラパラと頁を捲って開いて見せ、「大」の活字を指さした。
そして更に別の活字を指さして見せる。「せ」「つ」「な」「も」「の」「な」「の」「で」「せ」
「う」
「……もしかして、君は」
くしゅん、と佐保子が小さくクシャミをした。
この時初めて、佐保子は口が利けないのだと知った。
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