第4章 5

 5.


 恐ろしいほど澄み切った満月の夜だった。


 本堂を訪れると、夕の御勤めの読経をしている庵主の背中が見えた。

 私の歩み寄る気配に気づき、読経の声が止む。

 振り向きかけた庵主の胸倉を掴んで立ち上がらせる。庵主は何も抵抗しなかった。

「……平太が、あの子たちが」

 蓮華は表情のない能面のような顔でじっと私の目を見つめている。

「……どんなに寂しい思いをしたかわかるか」

「さぞ寂しかっただろうね」

 パァンと本堂に響き渡るほどの音を立てて蓮華を張り飛ばした。

 どたり、と床に転がる庵主の胸倉を掴み再び持ち上げる。

「真っ暗な山の中一人取り残され、どんなに恐ろしい思いをしたかわかるか」

「さぞ恐ろしかっただろうね」

 パァン、と、床を転がる庵主をもう一度掴み起こす。

「吹雪の山の中、凍えるような孤独の中で、寒くて、悲しくてどんなに辛い思いをしたかわかるか」

「さぞ寒かっただろうね」

 パァン。

「けほっ、けほっ」

「慕っていた人に、優しくしてくれた人に、信じていた人に裏切られる絶望がどんなものかわかるか」

「アタシのことなんか信じていてくれたのかな」

 パァン。

「あんたは、あれほどあんたに懐いていた子供たちを」

 胸倉を掴んだまま引き寄せる。鼻血を出し、唇から血を流し顔中血だらけの庵主の頬にぽたりぽたりと涙の雫が落ちる。知らずに、私は号泣していた。あの夜、采女取山に一人置き去りにされた絶望がどんなものか。自分の身体が冷たく凍えていくのを感じながら只々優しくしてくれた人を待ちながら、信じていた人を待つ期待がやがて絶望に変わっていく恐怖が、少しずつ自分が死に行く冷たさがどんなものか。私が一番よく知っている。

「なぜ子供たちを殺した」

「拙僧が殺めたのではない。すべては人の業さね」

「……!」

 庵主を掴んだ手を、放した。糸の切れた人形のように、どさりと床に落ちる。

 私は、その場に座り込んだ。

 蓮華は床に落ちたまま微動だにせず、ただ投げやりに虚空に視線をむけたまま。

 暫く、お互いが無言のまま。

「……平太が、川で溺れた時、あなたは血相変えて駆け付けてきましたよね?」

 私から、静寂を破った。

「あなたは、駆け付けるなりいきなり平太の頭を引っ叩いて怒鳴りつけてましたっけ」

「そンなこともあったね」

「後で聞いたら、平太にはお父さんしかいないらしくて。 蓮華さんがお母さん代わりみたいに、一番蓮華さんに懐いてましたよね」

「可愛い子だったよ」

 ふっと笑みを溢す気配が聞こえた。

「……蓮華さん、どうして。 どうしてこんなことを? 子供たちにとって、あなたは母親代わりだったのに」


「――アタシは子供を産めないンだ」


「……え?」

「客の子供を子袋の外に孕ンじまって、子袋ごと駄目にした。それでもすぐ客の相手をさせられそうになったンで、嫌になって廓を逃げ出した」

 のそりと庵主は身体を起こし、胡坐をかいた。

「いつか童歌の話をしたよね? あの歌の通り、アタシは吹雪の采女取山を越えてこの里に逃げ延びた女郎なンだよ。生まれは上総請西藩の藩士の家。請西藩は殿様自ら脱藩し家臣たちと共に官軍──いや、錦の御旗の威勢を借りた薩長の連中と戦い、親爺は最後の最後まで戦い抜いた挙句、アタシが生まれて間もなく二本松で討ち死にした。そんな経緯があったから、村の人たちはアタシを快く受け入れてくれた。」

 ぽつりぽつりと蓮華は語り出した。

「着の身着のままのアタシを迎えてくれたのはこの破れ寺の住職様だった。なんでも、本山の内輪揉めに巻き込まれて、こんな僻地の破れ寺に飛ばされたらしいけど、住職様はそんなことはおくびにも出さず誰に対しても優しかった。特に子供たちには懐かれていたよ。

……そんな中、ある飢饉の年の采女取山で、アタシは、多分君と同じものを見てしまった」

 蓮華は膝を抱え、顔を埋めた。

「さっきの君と同じように、アタシは住職様を問い詰めた。どうしてこんなことが出来るンだい、この鬼畜生っ! って。 そしたら住職様、さっきのアタシと同じように答えたンだ──すべては人の業、拙僧は関わりなし。ってね」

 フン、と蓮華は鼻を鳴らす。

「それはつまり、自分はこんな汚れごとに関係ない。村の連中が自分にそれを強いたから仕方なくやったンだっていうことだろう? 馬鹿なアタシはそう受け取って、一層住職様を責めた。……でも、そうじゃなかったンだ。アタシがそれに気づいた時には、住職様は首を括ってた」

ク、と蓮華は笑い声とも泣き声ともつかぬ吐息を漏らした。

「それからアタシはこの寺を継ぎ、飢饉の度、子供たちを山に送った。送られる子供は、途中から村に移った落人の家から先に選ばれる。……そんな事情、子供らには関係ないのにねェ」

 ぎゅう、と骨の軋むような音が聞こえるほど蓮華の掌が握りしめられる。

「今でも、耳を離れないンだ。あの子たちの声がさ。庵主様、蓮華様って。最後には、お母ちゃん、お母ちゃん、て。その子たちのお母ちゃんやお父ちゃんが、あんたたちを山に捨ててくるようにアタシに言ったってのにさ。逃げるように山を降りて、次の晩も、また薄ら笑み浮かべて別の子の枕元で同じこと繰り返して。当の親達からは夜叉でも見るような目で凄まれながらサ。でもね、平太にはサ、お母ちゃんがいないから、甘えてくるとき、あ、アタシのこと、いつもお母ちゃん、お母ちゃん、て。あの晩もアタシのことを、ずっと……お、お母、うあああああ……!」

 蓮華は顔を上げ、私に詰め寄った。

「どうだい! アタシは鬼のような女だろう? アタシこそが、吹雪の采女取山から子供を食らいに降りてきた雪女郎さ、采女取山の化け物さ! なあ? 何が人の業よ、何が村の掟さ! 子供らには何の罪もないじゃないのさ! なのにアタシはあンな可愛い子供らを夜枕元に立って餅を食いに行こうって山に連れて行って置き去りにしてきたンだ。 どんなに子供らが寂しかったかって? どんなに悲しかったかって? どんなに寒くて凍えていたかって? ずっとアタシは考えないようにしてたよ! 子供たちの痛みを、考えないようにしてたよ……うあああっ!」

 蓮華は、私の膝に顔を埋めて泣き崩れた。

「……本当はアタシはあの吹雪の夜に、采女取山で死ンでたのかもしれない。それで化けて山から降りて出て、こンな子供をかどわかす化け物になっちまったのかもしれない」

 ああ、そうか。

 これが、彼女が言っていたこの里の業の正体だったのか。


 この里の業こそが采女取山の化け物だったのだ。


「……蓮華さん、私は六つの時、山から帰ってきたよ?」

 膝の上で慟哭する庵主の頭を撫でる。

「雪女に、助けられたんだ」

 

 ──坊、坊や?

 顔を上げると、真っ白な世界の中に真っ白な女の人が立っていた。

 ──良かった、無事なンだね?

 ──どうして、こんなところに、迷ったのかい?

 ──吹雪が止むまで、アタシと一緒にいようか?


 あの時の女の人は、


 ――坊、こうしていると、温かいね。

 ――大丈夫。きっと今にお坊様が迎えに来るからね。

 ――それまで、おねえちゃんが傍についててあげるから、ね?


 蓮華にとても良く似ていたような気がする。

「あの時の雪女……もしかして蓮華さんだったんじゃない?」

 庵主が、顔を上げる。

「だとしたら、……あの時助けてくれて、ありがとう」

 蓮華の双眸から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

「ぅあ、うああああ、平太、ミツ、三吉、シズ……うあああああああ」

 顔を覆って泣き崩れる蓮華を残し、破れ寺を後にした。

「アタシは……アタシはなんてことを……うああああああああああ」


 寺の石段を下りると、恐ろしいほどに澄んだ月明かりの下で、赤い血を流した采女取山が見えた。

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