第3章 2
2.
彼岸蝉というのだろうか。
盂蘭盆――この地方では八月下旬にあたる――を間近に控えた采女取山の蝉の音は、夏の盛りのそれと比べると音色が大分落ち着いて聞こえ、どこか物悲し気ですらある。
里ではもう蛙の合掌も鳴りを潜めている。最近すっかりヤマセが解けたと思ったら、もう秋の気配が山里に見え隠れしている。山道を行くと、所々で漆の葉が一足早く鮮やかな紅葉を見せていた。時折アケビの実が鈴生りに実っているのが見える。
中腹まで差し掛かった時、ターンという鉄砲の音が聞こえた。まだ狩猟には早い季節のはずだ。養父が趣味で狩猟をやっていたので聞いたことがあるが、夏の獲物は肉が不味いらしい。山に滋養のある食べ物がないからだという。冬に備え、秋の実りを腹いっぱい口にした獲物が最も味が良いそうだ。
再びターンと、今度は幾分近くから銃声が聞こえた。誤射が怖いので「オーイ」と声を掛けてみると、ガサガサと繁みを掻き分けて源三が姿を見せた。
「よう深芦の。こんたなどごでなじょすたのっしゃ?」
「源三さんこそ、まだ狩猟には早いでしょう? 練習ですか?」
「ンだ。俺ラが去年まで使ってたスロビレ(猟銃のこと)がボッ壊れちまったからよ。納屋さ十年以上仕舞ってた古い鉄砲を引っ張り出してきたっちゃ。長ぇこと使ってねえから、試し撃ちしてたのっしゃ」
そう言ってチラリと銃を見せる。スペンサー銃か。
「おめエ様はこっだなドコさ何しサ来たのっしゃ?」
「ええ、実は――」
私は、昼間蓮華から聞いた女郎の話を源三に話した。もし埋葬されているのなら一度墓を詣でておきたいと。
しかし話を聞いた源三は腕組みをしたまましばらく顔を曇らせたまま考え込んだ。
「……俺ラもこの村で生まれて五十になるが、そんたな話聞いたごどねエぞ」
「え?」
「だいたい吹雪ン中この采女取越えて街道サ抜けようなんて死にサ行くようなもんだぞヤ。この里どころかその手前の三吉沢まででも無理でがすぺ」
何故か不機嫌そうに源三は否定する。
「小馬鹿臭ァ話だっちゃ。そんな無茶苦茶して里まで逃げて来れだなァ、庵主様ぐれえなもんだっちゃ」
庵主様?
問い返そうとするも源三はムスッとしたまま私に背を向ける。
「もう日が暮れるぞや。アンダも早ぐ帰エらい。――ああ、ホンだ。深芦の」
去りかけた足を止め、何やらニヤっと笑いながら源三は振り返った。
「もうすぐ村の祭りがあるで、おめエ様も誰か好いた女ゴでも誘って行がい」
源三が去った後、里へ戻る途中で八分咲きの山百合を見つけた。
(珍しいな)
山百合は北国の初夏から夏の盛りの前に咲く花。晩夏にほど近い今頃にはあらかた散ってしまう。以前奥多摩の避暑地に植えられていた山百合を見たことがあるが、この里で咲き誇る自然群生の百合野原を目の当たりにしたときはそこに咲く花はどれも嘗て見たそれと比べ物にならないほど見事な大輪の花で驚いたものだ。
(佐保子が喜ぶかもしれないな)
丁度薪割に使っていた大振りの鉈を腰に下げていたので、せっかく野山に花開かすものを摘み取るに少々気は咎めもしたが、茎の真ん中あたりに刃を入れ切り取った。葉を残しておけば根に栄養は行くだろう。
山から降りると、折り合い良く佐保子の姿を見かけた。
里の空はすっかり菫色で、家路を辿る野良着姿のあねさん達と笑顔を交わす佐保子は、私に気づくと立ち止まって手を振った。あねさん達に分けてもらったのか袋いっぱいの胡瓜を抱えている。きっと一冬掛けて美味しい糠漬けをこさえてくれることだろう。
佐保子と仲良くなって以来、彼女のことを色々知ることが出来たが、特に料理上手なのには舌を巻いた。一度彼女の自宅で「はっと汁」というものを馳走になったが、この地方に伝わる伝統的な汁物に、御父上の地元である伊達地方の味付けを加えた自慢の一品を賞味したがあの味は忘れ難い。付け合わせに頂いた糠漬けは程よく漬かっていてこれまた絶品だった。きっと佐保子は良いお嫁さんになるだろう。彼女の将来の旦那様は幸せ者だ。
お互いに駆け寄ると、すぐ傍にいた若者の何人かはフンと面白くなさそうな顔をして立ち去った。大方野良仕事の合間ずっと佐保子を口説いていたのだろう。
余程今の若者たちが鬱陶しかったのか、ホッとした顔でどうしたの、といった様子で首を傾げて見せる。その佐保子に、先ほど山で摘んだ百合の花を差し出した。
え? という声が聞こえてきそうな顔で花を受け取ると、
「今度一緒に祭りに行かないか?」
「―――!」
ばたばたばた。と佐保子の手から胡瓜が落ちた。
口をぱくぱく言わせながら佐保子は真っ赤になってわなわなと肩を震わせている。
あらあら、といった様子で傍でみていた百姓の女性が妙な笑みを浮かべる。
別に逢引きに誘うでもなし何を今更と戸惑っていると、
「―、」
「え?」
「―――っ!」
多分「馬鹿!」とでも言ったつもりなのだろう。落とした胡瓜を掻き集めて一目散に走り去ってしまった。
「え何?」
祭り見物に誘っただけじゃないかと理不尽な思いで立ち尽くす私の肩を、見知った百姓の旦那が、
「流石江戸帰りの若旦那、見かけに依らずスケコマシだっちゃなア、深芦の」
ツンツンと肘で叩くのだった。
翌日、破れ寺の方丈でその話を聞いた蓮華はブウとお茶を盛大に噴き出した。
「知らないでやったの?」
「何をです?」
「あはははははははっ!」
大笑いする庵主様に問いただすと、とんでもないことを聞かされた。
「この里じゃあ、というかこの地方ではね、盆祭りの夜は好きあった男女が祭りを途中で抜けてその辺の暗がりに隠れて思いを遂げることが大っぴらに許される風習があるのサ。たとえどんなに身分違いの相手でもね。だから、普段言葉を交わすことが許されない相手には前もって何かしらの贈り物をして気持ちを伝えておくンだ。例えば綺麗な百合の花とか」
「うああ」
頭を抱えて蹲る。これではまるで白昼堂々大衆監視の中で関係を迫ったようなものではないか――嗚呼っ!
一頻り身悶えした後で立ち上がる。
「どこ行くンだい?」
「佐保子に謝ってきます。これでも私は教育者ですから」
「君は佐保ちゃんのこと、嫌いなの?」
「まさか」
「じゃあ、祭りの日に彼女の気持ちを見届けてからにしな。君の真意はともかくそれは君自身の行いだ。今更頭を下げに行ったンじゃ野暮な男に映っちまうよ。男が女に恥をかかせるもんンじゃない。君が申し込んだンだ」
「ですが……」
「例えば、昨日佐保ちゃんに言い寄ってた野郎の一人が佐保ちゃんをものにしようとしたとする。想像してごらんよ?」
想像してみた。
「許せる?」
「許せません」
「じゃあ話は早いじゃん」
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